「太夫とは神様のよりしろとなって、理を語っているのだ」という事を、ビリビリと瞬時ではありましたが実感出来ました。
畏れ多くも、まさに、結界を越えて神域に入らせていただいた心持ちがいたしました。
大きな声で遠く向こうに声を向けたとき、おおいなるものが向こうの方からやってくるような気配を瞬間感じました。
「あっ!これなのかも知れない」という名ぶしがたい感覚が一瞬、全身をつらぬきました。
この貴重な体験は生意気な事を承知で申しますが、甘美でありました。
名ぶしがたい甘美な感覚は演者の側に濃密に在るように思えてなりません。
だからこそ、辛く苦しい修行も越えて行けるのではないかとすら思います。
二年前、授業として、大阪の文楽劇場で「鑓の権三」を拝見いたしましたが、観る者としての至福の時を味わいました。
三宅坂の国立劇場で拝見するときとは全く異なる文楽空間がそこにはありました。
文楽の神様が住んでいるような感じともいうのでしょうか、
歌舞伎座にも住んでいたかぶきの神様は今何処におわすことやら、気になりますが。
あちらとこちらの世界を区分するための結界があるように、
芸能の空間には神様がおわすあちらが確実に存在するのだと思います。
どんな場であれ、そこにその様な場が屹立してくるという事があるのではないかと思います。
日本には古来からその様な場に〆を張り区分してきました。
常に神との交流を交わす感覚を備えているのだとも言えましょう。
ハレとケのメリハリの中でそのような感覚を培って来たとも言えましょう。
「日本芸能史」を辿ることで、その感覚を今一度掘り起こし、
神との甘美な交流をむすびなおし、喜びにあふれ、
誰もが日々を生き生きハツラツと生きていける世の中になることが我が校のめざす「芸術立国」なのではと思った次第です。