「日本美術史1b」 スクーリングレポート
[課題]
授業内容の中から、興味を持った事柄について自由にテーマを定め重要用語、キーワードを使いまとめる
テーマ
東京国立博物館所蔵「菩薩立像」についての考察
はじめに
第一章
1 仏像背面に書かれてある文字について
2 施主、仏師はどのような人であったか
3 どのような変遷を辿り、東京国立博物館にたどりついたのか
おわりに
東京国立博物館所蔵「菩薩立像」についての考察
はじめに
今からおよそ30年前に、私は東京国立博物館東洋館の美術書コーナーの販売員として初めて博物館を訪れた。爾来30年近く博物館で働いていた。
彫刻室を通過する時、いつも一番最初のガラスケースの中に立ち、茫洋とした笑みをたたえているのがこの仏像「菩薩立像」 だった。
他の仏像は概ね荘厳壮麗で立派に見えるのに、なんだかこの仏像だけが悠久の時間の中で、ただよっているだけのような風情がして、心魅かれる存在だった。
数年振りに再会してみて、やっぱり変わらぬ気配を漂わせていた。しかし現在は、本館2階の「日本美術の流れ」の展示の中の一つとしてであったが。
久しぶりに、懐かしい存在に向き合い、往時の博物館の様子やそこで出会った人々の事までが思い起こされて、「菩薩立像」と共に色々な映像が蘇ってきた。
そのような再会の経緯の中で今回はこの「菩薩立像」を通して飛鳥時代の仏像彫刻について考えてみたいと思った。
一階の特集陳列「仏像の道-インドから日本へ」の展示を観てから、二階の「菩薩立像」を目の前にした時に、以下の疑問がわき起こった。
飛鳥時代から、現在のここ、東京国立博物館にやってくるまで、この仏様はどのような道をたどってここに、こられたのだろう、どのような人がどのような目的で、誰に作らせたのか、幾時代もの間何処にどうしていたのか、そして、今ここに至った経緯とはどんなものであったのかという事であった。
「日本美術史」のスクーリングを受講し、仏像彫刻史を飛鳥時代から江戸時代まで辿り仏像彫刻を語る言葉の多様さと、的確さに、そして、歴史的事実に即して社会との関連性の中でみて行く姿勢に目が開かれる思いがした。ほんの少しでもその学んだ姿勢をこのレポートの中で活かしていけたら、と願う。
これから「菩薩立像」が何時頃、誰によって作られ、どのようにして、ここ東京国立博物館にたどり着いたのかを資料に基づきながら、想像も加えつつ考察して行きたい。
第1章
1 仏像背面に書かれてある文字について
近頃は発光させなければ、写真撮影が可能になっている。そこでガラス越しに正面、横、後と観察していると、何やら仏像背面に大きな紙が貼ってあり、文字が書かれている。真後ろは素通しのガラスではないので確り読み取る事が出来なかった。ひょっとして、法隆寺金堂「釈迦三尊像」の光背の銘文のように施主や発願の意味が理解出来るかもとまでは思わなかったが、何かの手がかりになるのではと思った。
翌日、資料館で図像目録を閲覧してみると以下のような文字が書かれている事が判明した。
銘記 体部背面貼紙朱書「年数□」「□□□□□」。同墨書[聖徳太子御時代/百済国ヨリ彫刻ノ/千像之其一体也]
この仏像に関して松本栄一氏が「国華800号」 に書いている。そこから解る事は、墨書は明治時代の筆である、という事と、内容に関しては造像の形体から信憑性が無いだろうという事が伺える。
「仏像ここだけの話」 でも、この像に関して、松本氏の知見を支持している。
また、当時の百済国にクスノキ材は無かったのでその説は考え難い。
像容から見ても松本氏は止利式の形態に属すると言っている。
正面観照性が強く、頸に三道はない。服装は左右対称である。側面から見ると、背中は表面の立体感とはうらはらに真っ直ぐに扁平である。それは法隆寺の釈迦三尊像両脇待菩薩と共通する。当初は総身に彩色が施されていたようだ。像の背面は全部が朱色に塗抹されている。鼻が長く、大きく表現されている為に、頬の面積がかなり広い印象をうける。両腕は下膊の半ばから先は失われているが復元像を想像するに法隆寺夢殿の「救世観音」のように胸前で珠を撫する形式であったらしい。
「この菩薩像の作者は未熟ながらも木彫を業とする技術者であり、彫り方は直角的に鋭く刀の冴えがある」と表現している。
又、この像が観世音菩薩と看做される理由としては以下のように言う。
「宝冠正面に、化仏を設置する座が切り出されている点と夢殿観音や、辛亥銘の銅像観音小像などと同じく、身前で両掌の間に珠を持する姿の観音像であった事が残存の肘の状態から明瞭であり、飛鳥時代通暁の菩薩像の形姿に従って造られた物と言い得る。」
2 施主、仏師はどのような人であったか
この像を評して、松本氏は冒頭、埴輪を想起せしめるような素朴な木仏であると言っている。
確かに、その表情は埴輪に近いものがあり、造り手は古墳時代からの流れの埴輪製造に関わった事のあるような人なのではないかと想像したくなるほどだ。
他の時代ではみられない、この茫洋とした焦点の定まらない表情に当時の時代感覚(美意識)を感じてしまう。古拙の微笑みと言うにとどまらない当時の人々の畏怖、畏敬の念の表象のようにも捉えられる。
東京国立博物館所蔵の「菩薩頭部」(中国河南省龍門石窟賓陽中洞北魏時代・6世紀)はまさに面長に杏仁形の目と迎月形の唇を持つアルカイック・スマイルの典型とも言える表情で、その流れから行けば、「菩薩立像」もその形態に属するという事になるのであろう。
が、同じ飛鳥時代のクスノキ材で造仏されている法隆寺夢殿の「救世観音」の異様なほどの生々しさを思う時、造られた時代の気分、どのような背景でどのような人が造ったのかという事が十二分過ぎる程に色濃く反映されている。その伝でいけば、「菩薩立像」にもそのことを感じさせるのは否めないのではないだろうか。
「百済観音」「救世観音」のような像にくらべると、まったく見劣りのする、二流、三流の作かもしれないが、そこには明らかにそれなりの時代性が見て取れる。
当時の人々は未だ森羅万象に神宿ると言う感覚をもっていたのではないだろうか、何か有り難いもの、心を暖め、安寧に導いてくれる安らぎの表象としてあの茫洋としてただようような表現をしてきたのではないだろうか。
その自然観の表象が埴輪の表情にあらわされているのではないか。
そしてその名残の、時代の気分を、この「菩薩立像」の造り手は無意識の内に写し取っていたのではないか、と想像する。
精一杯、手本を忠実に写し取る作業が一方でありながら、作者は有り難いもの、恭しき物を自らの手で彫る事に専念したのだと思う。その彼の無意識がこの像が醸し出す何とも言えない茫洋な空気につつまれたあたたかさとして私には感じられる。
次に、この仏像の制作依頼者はどのような立場の人であったのかを想像してみたい。
松本氏、佐藤氏の著述に、制作依頼者が正確に誰であるかという事は言及されていないが、この時代に於ける造仏のあり方をみれば、自ずと時の権力者でしかあり得なかっただろう。
松本氏はこんな想像に駆り立てられたと前掲の一文で語っている。
「日本書紀の茅淳の海の流木で造った仏像の記事が想ひ出される。欽明帝14年(553)、
(中略)造仏にあたったのは画工であったと云ふ。画工が圖本を範として馴れぬ彫刀を手に、曲がりなりにも立体的な仏像を彫り上げたとすれば、その出来上がりは、ぎこちない木彫となるのではなかろうか。」 と。
仏教が伝来し、それまではそれぞれの豪族達がそれぞれに敬う神を持ち独自の暮らしをしていたのだろうが、やがて仏教という教えを活用して、中央集権国家を目指し、整備して行く時代にこの仏像が造られた事を思うと、先の時代の気分を色濃く残しながらも形としては仏像だが、自然への畏怖、畏敬の残り香がただようのは否めないのではなかったろうか。
歴史に名前を残す程の権力者では無かったかもしれないが、何かを発願し、造仏を依頼したのだろう。
「発願とは誓願を起こす事、つまり悟りを求める心を完成し、人々を救おうと誓いをたてる事」だと「日本の仏像」 で長岡は「法隆寺釈迦三尊像光背銘」を例にとりながら言う。さらに続く、「他者の為に行為をすることで悟りに至るその行いを菩薩道という。発願する事で行いは菩薩道となり、効果が期待され、力を持つ。」
東博の「菩薩立像」も施主が発願し、仏師は施主の祈願に応じた仏像を造る事が期待されているとすれば、像高93.7㎝のこの像もその時代の慣習に習い、造像後は施主が仏道に励む為の礼拝の対象になったであろうことが想像される。この時代には亡くなった者と等身の像を造り、遺された者が亡くなった人を思慕するという事があったという。
愛する我が子であった事も想像できるのではないだろうか、仏師はその時に施主の想いに応えて、造像に当たるであろう。確かに腕前としては二流、三流と云わざるを得ないがその大風な表現は精緻な技の冴えを超えて、名伏し難い、敬虔な思いを、祈るものに生じさせる力がある。
3 どのような変遷を辿り、東京国立博物館にたどりついたのか
古風な風姿ではあるが、飛鳥末期に近い頃の作とされる、この像が発願され祈りの対象として造像され、長い時代をどこでどうすごしたのか、その後の経緯は定かではなく、突如、明治時代になってその存在は記録に登場してくる。
以下は前掲の「仏像ここだけの話」 からの引用である。
博物館の台帳には明治二十五年五月に東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)から譲り受けたという意味の記載がある。東京美術学校の「資料記載台帳」には明治二十二年4月一日に「推古時代木造」という名称で記載されている。購入代金は五十円と記されている。その後三年程して明治二十五年四月五日に学校長岡倉天心から帝国博物館総長九鬼隆一宛に公文書が提出されている。美術学校では死蔵することになりかねないから博物館で陳列する事が有意義であろうという事を強調した文である。こうして同年五月五日に八十円で博物館の列品として引き継がれ現在に至っている。
明治二十二年以前に於ける所在については不明というべきかもしれないが、越後方面からもたらされたいうことを故溝口禎次郎(第二次大戦以前博物館の列品課長をつとめていた)から松本氏が聞いた事があるらしいが確認はしていない。
以上があらましである。飛鳥時代から1300年の間、どこでどうすごしておられたのだろう、幾多の戦火をもくぐり抜け、常に誰かがこのお像を運びだし、守ってきたのだろう。両手両足をもがれてもなおかつ、何事もなかったように曇りのない茫洋とした面持ちで、悠久の時の流れを歩むようにして、今ここに在るのだとおもうとあまりに感傷的にすぎるけれどもありがたさに泪がこぼれる。
おわりに
異文化として仏教が伝搬してきて間もない時代に造像された「菩薩立像」は以後の時代、政治や権力と不可分な中で造仏されざるをえなかった仏像群とは今ひとつ、異質な存在なのではないだろうか。
古代の人々の暮らしをあまりにロマンテックに捉えるのもいかがなものかではあるが、
自然と共にあり、自然に対する畏敬、畏怖の念が命を支え、暮らしの基盤になる精神のよりどころであった時代性を残り香として、この菩薩立像に刻印していてくれているのだとある種、妄想に近いが、信じている。
あんなに大勢の人々を集客した阿修羅像にも感知しなかった「アウラ」を、この「菩薩立像」に感じ取る。
参考文献
松本栄一「東京国立博物館蔵菩薩立像」(「国華800号」1958年)
佐藤昭夫「仏像ここだけの話」玉川選書144 1981年
長岡龍作「日本の仏像飛鳥・白鳳・天平の祈りと美」中公新書1988中央公論新者2009年
上原昭一編「飛鳥・白鳳彫刻」日本の美術21至文堂1968年
浅井和春「天平の彫刻日本彫刻の古典」日本の美術456至文堂2004年
久野健「飛鳥・白鳳・天平仏」法蔵館1984年
水野敬三郎監修「日本仏像史」美術出版社2009年第9刷
辻惟雄「日本美術の歴史」東京大学出版会2006年第2刷
歴史探訪研究会編「歴史地図本古代日本を訪ねる奈良飛鳥」大和書房2009年第3刷
[課題]
授業内容の中から、興味を持った事柄について自由にテーマを定め重要用語、キーワードを使いまとめる
テーマ
東京国立博物館所蔵「菩薩立像」についての考察
はじめに
第一章
1 仏像背面に書かれてある文字について
2 施主、仏師はどのような人であったか
3 どのような変遷を辿り、東京国立博物館にたどりついたのか
おわりに
東京国立博物館所蔵「菩薩立像」についての考察
はじめに
今からおよそ30年前に、私は東京国立博物館東洋館の美術書コーナーの販売員として初めて博物館を訪れた。爾来30年近く博物館で働いていた。
彫刻室を通過する時、いつも一番最初のガラスケースの中に立ち、茫洋とした笑みをたたえているのがこの仏像「菩薩立像」 だった。
他の仏像は概ね荘厳壮麗で立派に見えるのに、なんだかこの仏像だけが悠久の時間の中で、ただよっているだけのような風情がして、心魅かれる存在だった。
数年振りに再会してみて、やっぱり変わらぬ気配を漂わせていた。しかし現在は、本館2階の「日本美術の流れ」の展示の中の一つとしてであったが。
久しぶりに、懐かしい存在に向き合い、往時の博物館の様子やそこで出会った人々の事までが思い起こされて、「菩薩立像」と共に色々な映像が蘇ってきた。
そのような再会の経緯の中で今回はこの「菩薩立像」を通して飛鳥時代の仏像彫刻について考えてみたいと思った。
一階の特集陳列「仏像の道-インドから日本へ」の展示を観てから、二階の「菩薩立像」を目の前にした時に、以下の疑問がわき起こった。
飛鳥時代から、現在のここ、東京国立博物館にやってくるまで、この仏様はどのような道をたどってここに、こられたのだろう、どのような人がどのような目的で、誰に作らせたのか、幾時代もの間何処にどうしていたのか、そして、今ここに至った経緯とはどんなものであったのかという事であった。
「日本美術史」のスクーリングを受講し、仏像彫刻史を飛鳥時代から江戸時代まで辿り仏像彫刻を語る言葉の多様さと、的確さに、そして、歴史的事実に即して社会との関連性の中でみて行く姿勢に目が開かれる思いがした。ほんの少しでもその学んだ姿勢をこのレポートの中で活かしていけたら、と願う。
これから「菩薩立像」が何時頃、誰によって作られ、どのようにして、ここ東京国立博物館にたどり着いたのかを資料に基づきながら、想像も加えつつ考察して行きたい。
第1章
1 仏像背面に書かれてある文字について
近頃は発光させなければ、写真撮影が可能になっている。そこでガラス越しに正面、横、後と観察していると、何やら仏像背面に大きな紙が貼ってあり、文字が書かれている。真後ろは素通しのガラスではないので確り読み取る事が出来なかった。ひょっとして、法隆寺金堂「釈迦三尊像」の光背の銘文のように施主や発願の意味が理解出来るかもとまでは思わなかったが、何かの手がかりになるのではと思った。
翌日、資料館で図像目録を閲覧してみると以下のような文字が書かれている事が判明した。
銘記 体部背面貼紙朱書「年数□」「□□□□□」。同墨書[聖徳太子御時代/百済国ヨリ彫刻ノ/千像之其一体也]
この仏像に関して松本栄一氏が「国華800号」 に書いている。そこから解る事は、墨書は明治時代の筆である、という事と、内容に関しては造像の形体から信憑性が無いだろうという事が伺える。
「仏像ここだけの話」 でも、この像に関して、松本氏の知見を支持している。
また、当時の百済国にクスノキ材は無かったのでその説は考え難い。
像容から見ても松本氏は止利式の形態に属すると言っている。
正面観照性が強く、頸に三道はない。服装は左右対称である。側面から見ると、背中は表面の立体感とはうらはらに真っ直ぐに扁平である。それは法隆寺の釈迦三尊像両脇待菩薩と共通する。当初は総身に彩色が施されていたようだ。像の背面は全部が朱色に塗抹されている。鼻が長く、大きく表現されている為に、頬の面積がかなり広い印象をうける。両腕は下膊の半ばから先は失われているが復元像を想像するに法隆寺夢殿の「救世観音」のように胸前で珠を撫する形式であったらしい。
「この菩薩像の作者は未熟ながらも木彫を業とする技術者であり、彫り方は直角的に鋭く刀の冴えがある」と表現している。
又、この像が観世音菩薩と看做される理由としては以下のように言う。
「宝冠正面に、化仏を設置する座が切り出されている点と夢殿観音や、辛亥銘の銅像観音小像などと同じく、身前で両掌の間に珠を持する姿の観音像であった事が残存の肘の状態から明瞭であり、飛鳥時代通暁の菩薩像の形姿に従って造られた物と言い得る。」
2 施主、仏師はどのような人であったか
この像を評して、松本氏は冒頭、埴輪を想起せしめるような素朴な木仏であると言っている。
確かに、その表情は埴輪に近いものがあり、造り手は古墳時代からの流れの埴輪製造に関わった事のあるような人なのではないかと想像したくなるほどだ。
他の時代ではみられない、この茫洋とした焦点の定まらない表情に当時の時代感覚(美意識)を感じてしまう。古拙の微笑みと言うにとどまらない当時の人々の畏怖、畏敬の念の表象のようにも捉えられる。
東京国立博物館所蔵の「菩薩頭部」(中国河南省龍門石窟賓陽中洞北魏時代・6世紀)はまさに面長に杏仁形の目と迎月形の唇を持つアルカイック・スマイルの典型とも言える表情で、その流れから行けば、「菩薩立像」もその形態に属するという事になるのであろう。
が、同じ飛鳥時代のクスノキ材で造仏されている法隆寺夢殿の「救世観音」の異様なほどの生々しさを思う時、造られた時代の気分、どのような背景でどのような人が造ったのかという事が十二分過ぎる程に色濃く反映されている。その伝でいけば、「菩薩立像」にもそのことを感じさせるのは否めないのではないだろうか。
「百済観音」「救世観音」のような像にくらべると、まったく見劣りのする、二流、三流の作かもしれないが、そこには明らかにそれなりの時代性が見て取れる。
当時の人々は未だ森羅万象に神宿ると言う感覚をもっていたのではないだろうか、何か有り難いもの、心を暖め、安寧に導いてくれる安らぎの表象としてあの茫洋としてただようような表現をしてきたのではないだろうか。
その自然観の表象が埴輪の表情にあらわされているのではないか。
そしてその名残の、時代の気分を、この「菩薩立像」の造り手は無意識の内に写し取っていたのではないか、と想像する。
精一杯、手本を忠実に写し取る作業が一方でありながら、作者は有り難いもの、恭しき物を自らの手で彫る事に専念したのだと思う。その彼の無意識がこの像が醸し出す何とも言えない茫洋な空気につつまれたあたたかさとして私には感じられる。
次に、この仏像の制作依頼者はどのような立場の人であったのかを想像してみたい。
松本氏、佐藤氏の著述に、制作依頼者が正確に誰であるかという事は言及されていないが、この時代に於ける造仏のあり方をみれば、自ずと時の権力者でしかあり得なかっただろう。
松本氏はこんな想像に駆り立てられたと前掲の一文で語っている。
「日本書紀の茅淳の海の流木で造った仏像の記事が想ひ出される。欽明帝14年(553)、
(中略)造仏にあたったのは画工であったと云ふ。画工が圖本を範として馴れぬ彫刀を手に、曲がりなりにも立体的な仏像を彫り上げたとすれば、その出来上がりは、ぎこちない木彫となるのではなかろうか。」 と。
仏教が伝来し、それまではそれぞれの豪族達がそれぞれに敬う神を持ち独自の暮らしをしていたのだろうが、やがて仏教という教えを活用して、中央集権国家を目指し、整備して行く時代にこの仏像が造られた事を思うと、先の時代の気分を色濃く残しながらも形としては仏像だが、自然への畏怖、畏敬の残り香がただようのは否めないのではなかったろうか。
歴史に名前を残す程の権力者では無かったかもしれないが、何かを発願し、造仏を依頼したのだろう。
「発願とは誓願を起こす事、つまり悟りを求める心を完成し、人々を救おうと誓いをたてる事」だと「日本の仏像」 で長岡は「法隆寺釈迦三尊像光背銘」を例にとりながら言う。さらに続く、「他者の為に行為をすることで悟りに至るその行いを菩薩道という。発願する事で行いは菩薩道となり、効果が期待され、力を持つ。」
東博の「菩薩立像」も施主が発願し、仏師は施主の祈願に応じた仏像を造る事が期待されているとすれば、像高93.7㎝のこの像もその時代の慣習に習い、造像後は施主が仏道に励む為の礼拝の対象になったであろうことが想像される。この時代には亡くなった者と等身の像を造り、遺された者が亡くなった人を思慕するという事があったという。
愛する我が子であった事も想像できるのではないだろうか、仏師はその時に施主の想いに応えて、造像に当たるであろう。確かに腕前としては二流、三流と云わざるを得ないがその大風な表現は精緻な技の冴えを超えて、名伏し難い、敬虔な思いを、祈るものに生じさせる力がある。
3 どのような変遷を辿り、東京国立博物館にたどりついたのか
古風な風姿ではあるが、飛鳥末期に近い頃の作とされる、この像が発願され祈りの対象として造像され、長い時代をどこでどうすごしたのか、その後の経緯は定かではなく、突如、明治時代になってその存在は記録に登場してくる。
以下は前掲の「仏像ここだけの話」 からの引用である。
博物館の台帳には明治二十五年五月に東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)から譲り受けたという意味の記載がある。東京美術学校の「資料記載台帳」には明治二十二年4月一日に「推古時代木造」という名称で記載されている。購入代金は五十円と記されている。その後三年程して明治二十五年四月五日に学校長岡倉天心から帝国博物館総長九鬼隆一宛に公文書が提出されている。美術学校では死蔵することになりかねないから博物館で陳列する事が有意義であろうという事を強調した文である。こうして同年五月五日に八十円で博物館の列品として引き継がれ現在に至っている。
明治二十二年以前に於ける所在については不明というべきかもしれないが、越後方面からもたらされたいうことを故溝口禎次郎(第二次大戦以前博物館の列品課長をつとめていた)から松本氏が聞いた事があるらしいが確認はしていない。
以上があらましである。飛鳥時代から1300年の間、どこでどうすごしておられたのだろう、幾多の戦火をもくぐり抜け、常に誰かがこのお像を運びだし、守ってきたのだろう。両手両足をもがれてもなおかつ、何事もなかったように曇りのない茫洋とした面持ちで、悠久の時の流れを歩むようにして、今ここに在るのだとおもうとあまりに感傷的にすぎるけれどもありがたさに泪がこぼれる。
おわりに
異文化として仏教が伝搬してきて間もない時代に造像された「菩薩立像」は以後の時代、政治や権力と不可分な中で造仏されざるをえなかった仏像群とは今ひとつ、異質な存在なのではないだろうか。
古代の人々の暮らしをあまりにロマンテックに捉えるのもいかがなものかではあるが、
自然と共にあり、自然に対する畏敬、畏怖の念が命を支え、暮らしの基盤になる精神のよりどころであった時代性を残り香として、この菩薩立像に刻印していてくれているのだとある種、妄想に近いが、信じている。
あんなに大勢の人々を集客した阿修羅像にも感知しなかった「アウラ」を、この「菩薩立像」に感じ取る。
参考文献
松本栄一「東京国立博物館蔵菩薩立像」(「国華800号」1958年)
佐藤昭夫「仏像ここだけの話」玉川選書144 1981年
長岡龍作「日本の仏像飛鳥・白鳳・天平の祈りと美」中公新書1988中央公論新者2009年
上原昭一編「飛鳥・白鳳彫刻」日本の美術21至文堂1968年
浅井和春「天平の彫刻日本彫刻の古典」日本の美術456至文堂2004年
久野健「飛鳥・白鳳・天平仏」法蔵館1984年
水野敬三郎監修「日本仏像史」美術出版社2009年第9刷
辻惟雄「日本美術の歴史」東京大学出版会2006年第2刷
歴史探訪研究会編「歴史地図本古代日本を訪ねる奈良飛鳥」大和書房2009年第3刷