明治三十七年)第八師団に転任し立見将軍のもとで日露戦争に出陣し
黒溝台(こっこうだい)奪還作戦「世界に類の見ない激戦」で、
福島大尉は軍刀を振りかざして先頭を切ったが、敵の砲弾を受け戦死
明治三十八年一月二十八日、福良案蔵大尉は、四十歳という若さであった。
同日づけで陸軍少佐に昇進し、正六位勲四等功五級、今治勲章旭日小綬章がおくられた。
振りかざした軍刀は、父泰七が、贈った、「幡随院長兵衛」(ばんずいいんちょうべえ、元和8年(1622年) - 明暦3年7月18日(1657年8月27日)の名工堀川国安作の脇差を軍刀に仕立たとされているが、「現在、国安作は200万以上の価格」
「立見尚文師将軍「1845-1907」
桑名藩士出身、第八師団司令官。日本が壊滅寸前まで追い込まれた黒溝台会戦における活躍で知られる。黒溝台での覚悟 黒溝台会戦中、立見の司令部周辺でも砲弾が飛び交っていたため幕僚が司令部内に安全な避弾所を作った。しかし立見はそこには入らず、煙草を燻らせ「ずいぶんと砲弾がやってくるな」と言いながら屋外で指揮をとり続けていた。また、司令部で使っていた家屋の土間には大きな深い穴を掘らせ、「もし敵が来たら、俺は割腹して軍旗と共にこの穴に埋まる」と言いながらその前でウィスキーを飲んでいたという。」孫は、立見辰雄(鉱床学者、東京大学教授)
黒溝台戦神驚
朝に一城を抜き暮に一城
天才向かう所鬼神驚く
首将援くるの元何処か知らん
夢は虜陣に馳す千百の兵
この詩は、福島が戦死する何日か前、古誠子にあったとぎに詠み、
従軍記者として古城子にいた東奥日報記者斎藤武男に贈ったものである。
斎藤は、「黒溝台戦闘一日前試一絶而発陣営、臨発賜金」と
添え書さしている。「戦闘一日前に一絶を試し陣営を発す。
発に臨み金に贈る」とあるから、戦死の前日、一月二十七日に詠じたものなのかもしれない。
福島の絶筆である。