これは弘前隊を案内した熊ノ沢集落の『七勇士』の一人・沢内吉助氏の口述を文章化したもので、
感嘆符は原文のままである。
尚、原文を若干読み易くする為、
聯隊名以外は算用数字に変換し、改行を施し、句読点を追加してある。
―蔭の人―
昭和37年は雪中行軍の60周年に当たり、去る6月9日その記念式典が青森市郊外にある
幸畑陸軍墓地において盛大に挙行された事は周知の通りでございます。
それは明治35年1月23日早朝青森歩兵第五連隊・山口大隊(山口少佐以下212名)が
青森の原隊を出発して八甲田山中を超えて三本木に出る計画のもと に雪中行軍を
決行し途中馬立場の難所を越え鳴澤付近で猛吹雪に遭い、生存者僅か十数名を
残すだけであとは全員凍死すると云う、当時世界を大いに驚かせた遭 難事件であります。
この行事を強行した理由は日露の情勢が緊迫し、一反戦争に突入すれば
厳寒の地満州が戦場となると予想され、当然八師団は満州に派遣される。
そのためには日常の耐寒訓練が必要だと云ったためでありました。
一方、弘前歩兵三十一連隊福島隊は五連隊の逆コースである三本木方面より
八甲田山を超えて青森へ出る計画で、1月23日十和田湖・法量系由熊之沢川をさ か上り、
増沢に至り、地元より七名の案内者を頼み、悪天候と闘い無事に八甲田山超えに成功したのであります。
しかし、この七名の案内者は無事にその大任を果たした蔭の功労者でありますが、
五連隊の遭難者に対する哀悼と共に特に福島隊長より「絶対口外すべからず」の
一言を固く守り他言する者が一名もなかったためこの事実を誰も知る事が出来なかったのであります。
時代は明治から大正、昭和の御世となり昭和5年1月に案内者の一人・沢内吉助氏が
所用のため七戸町に出張し知人の福田政吉方で雑談を支している中、
たま たま東奥日報紙上に歩兵五連隊雪中行軍遭難記念行事が発表されている事が
話題になり「雪中行軍ならば私も関係がある」と沢内氏が発言し、
以下記載の通り当 時の委細を語ったことによって初めて秘事が世の明かるみに出されました。
後日その功績が認められ財団法人昭和謝恩会から「蔭れたる七勇士」として顕彰され、
又同地青年団は光華の軍人にも劣らぬ至誠の美徳と功績が陽の目も見ず に
消える事を憂いて奮起し民各位の絶大なる御賛同とご協力に依り、
この美徳を後世に伝えんとして昭和6年9月、熊之沢校(現在柏小・中学校)付近に
小 碑を建立したのでございます。