初めて聴いた生のオーケストラ
私が初めて聴いた生のオーケストラは群馬交響楽団だった。
伊勢崎の公民館でおこなわれた〈移動音楽教室〉で、私はピアノを習い始めたばかりの小学生だった。
それまでレコードでしか知らなかったオーケストラを初めて聴けるのがうれしくて、
会場に向かっているときからワクワクし、
演奏が始まると夢中なって聴いていたのを覚えている。プログラムの中にはスッペの
『軽騎兵序曲』とベートーヴエンの『運命』あったと思う。また、楽器紹介があって、
ひとつひとつの楽器の音を出して見せてくれたのが、子ども心にとても楽しかった。
当時、プロのオーケストラは全国でも数える程しかなかったから、
その生演奏を聴くのがたいへんむずかしかった。
そんな中で、群響は早くから、この〈移動音楽教室〉に取り組んでいて県内を隈なく回っていたから、
おそらくほとんどの群馬県民が、子どものうちオーケストラ体験をしているのではないだろうか。
小学校の頃の友達はみんなこの音楽教室をよく覚えている。
群響のみなさんは当時たいへん苦労されたと開いているけれど、
好奇心旺盛な子どもたちにほんとうの音楽を聴かせてくれたその功績はとても大きかった。
幼い頃のこの音楽体験の中で、忘れられない思い出がほかしもいくつかある。
ひとつはオーストリアのピアニスト、ハンス・カンのリサイタルバ。巨匠の演奏会だから、
音楽教室とは違って周りは大人ばかりで、払はリサイタルの間中ずっと緊張していた。
けれどもアンコールドなるとカンが「今日は小さいお嬢さんもいらっしゃるから、やさしい曲にしましょう」といって、
小曲を弾いてくれた(もちろん幼い私にわかるはずはないから)、きっと父が教えてくれたのだろうが、
記憶の中ではカンから直接聞いたかようになっている。残念ながら曲目は覚えていない)。
まるで私だけのために弾いてくれたかような気がして、それまで少し怖そうに思っていた
ハンス カンが少し優しいおじさんに見え、とても嬉しかった。
もうひとつ忘れられないのが、天才少年として有名だった渡辺茂夫のバイ才リンリサイタルだ。
私より5歳年上だが、当時はまだ半ズボンの子どもだった。難曲をあまりにもみごとに弾き切るので、
信じられない気持ちであっけにとられて聴いていたのを覚えている。
激しい雷雨の日で、会場の中にまで雷鳴が聞こえていたのも印象的だった。
渡辺茂夫はその後14歳でアメリカに留学し、自叙未遂で重いい脳障害を背負って
悲劇的な生涯を送った。たしか今年(1999)になってから亡くなられたのではないだろうか。
こうした演奏会は、みな前橋の群馬会館でおこなわれた。
外の雷鳴が聞こえてしまう不十分な施設だが、
当時、県内で本格的な演奏会が出来る唯一の会場だった。
私自身もこの群馬会館で何度も演奏しているのだが、
不思議なもので初めて弾いたのがいつでどんなプロブラムだったのか、
どうしても思い出せない。子ども守ころから演奏する機会が多く、
自然にピアニストになってしまったようなところがあるので、
あまり記録を残していないし、記憶も錯綜している。
プロとしての正式なデビューは、秋山和慶さん指揮の群響と共演したベートーヴエンの協奏曲第1番たった。
会場は日比谷公会堂だ。
その時からもうすぐ35年になる。私はこれまで5年ごとの節目には記念となる仕事をしてきたが、
2001年はダリーブとベートーヴエンの4番の協奏曲をCDにする計画だ。また、今までの活動を振り返って、
自分の音楽的な特質を、見極め、これからの方向を考える機会にもしたい。
演奏とは音楽に命を吹き込むこと、音を出す瞬問に新たない命を生み出すことであって、
まったく同じものを再現することはできないし、それだけにいつも新たな気持ちに
満ちている。これからも音楽と自分自身をしっかりと見つめ、
いつも新紆な気持ちで演奏に取り組んでいきたい。
私が初めて銀座に来たのは9歳のとぎだと思う。ヤマハホールでおこなわれていた。
〈日本学生音が書くコンクール〉小学生部門の予選を聴くために、父に連れられて来たのだ。
当時、私たちは群馬県伊勢崎市に住んでいたので銀座はずいぶん遠かった、
私をピアニストにするのが夢だった父は、私にコンクール雰囲気を教えたくて連れてきたのだろう。
舞台の上では私より少し年上の子供たちがカチカチになってピアノに向かっていた。
その緊張が伝わってくるので、私も真剣にじっと聴いていた。
今も活躍されている遠藤耶子さんや野島稔さんが参加されていたが、特に遠藤さんのグリーンの衣装は
とても印象的でよく覚えている。
当時の学生コンクールは小学校5年生から参加資格があったので、翌年には私白身も参加した。
小柄な私はきちんと座るとペダルに足が届かないので、椅子に寄りかかるようにしてベートーヴエンの『悲槍』を演奏した。
この参加が私にとって大きな転機となった。審査員のひとりでいらした井口愛子先生から、
ピアニストになるための本格的なレッスンを受けるようになったのだ。
だから、ヤマハホールは私のピアニスト人生の原点とも言える場所だ。
現在ではすばらしいホールがたくさんあって、コンクールの会場も別の
ホールに移ってしまったが、懐かしいヤマハホールは昔のまま残っている。
先目、久しぶりにホールを訪ねでみた。ヤマハには楽譜やCDを買うためにしょっちゅう来ているのに、
ホールに行くのはコンクール以来初めてで、なんと40年ぶりだ。
エレベーターでホールを探すと4階だったのが、意外だった。
子供どもの頃の記憶ではホールはすごく高いとこ所で、ロビーの窓から銀座の街を
見下ろしていたように思う。4階でエレベーターのドア前が開くとロビーには
10入くらいの人がいてで三々五々話をしていた。
華やいだ雰囲気で中には花束を特った女性もいる。どうやらピアノの発表会が終わったらしく、
みんなとても楽しそうだ。
ホールに入ると、舞台ではピアノにカバー前掛けられ、照明の隔片付けがおこなわれていた。
ホールには新しく改装された様子もなく、昔とあまり変かつていないのだろうが、
記憶の中のヤマハホールとはずいぶん違う。
10歳頃の記憶だからあまりはっきりとはししないけれど、
こんなに明るくなかったような気がするし、コンクールだから当然だが、
ピリピリと張り詰めた空気が満ちていて恐いくらいだった。
今はそんな聚張感のないホールに来てみて少し物足りない気持ちがあったが、
しばらくすると、ここはまぎれもなく10歳の白分がコンクールに参加
した場所だという思い前しだいに高まってきて、とても懐かしかった。
このヤマハホールと、私の記憶の中でセットになっているのがビアホールの〈ライオン〉だ。
コンクールの演奏が終わり結果発表を待つ間、又は私をライオンに連れていってカツレツを食べさせてくれた。
10歳の子どもをビアホールに連れて行くのも妾なものだが、
このドイツ風のビアホールで、父は私のドイツ留学を夢見ていたのかもしれない。将来困らないようにと言って、
フォークとナイフの使い方を、一生懸命教えてくれた。
先日の日曜日、久しぶりにライ才ンにも行ってみた。ビルの外側は新築のビルのように新しくなっているが、
中に入るとすっかり昔のままで、タイルで飾られた石造りのクラシックなホールは、
銀座通りの近代的な街並みとは別世界だ。
正面にはガラスモサイクで麦の収穫風景を描いた大壁画があって、ひときわ目を引く。
子ども心にもすこいと思ったものだ。
解説書によると、建物は70年前にサッポロビールの本社として建てられ、1階を当時としてはめずらしい
本格的なビアホールとしたのだそうだ。ガラスモザイクの大壁画には特に力が入れられたらしく、
250色ものガラスが使われていて、
色調を整えるのがむずかししかったため製作に3年を費やしたという。人物のイメージはギリシャ風なのだが、
体形が完全に日本人であるとところが時代を感じさせておもしろい。
ホールにはびっしりとテーブル敷かれ、お昼少しすぎだったけれど、ずいぶん込み合っていてにぎやかだった。
若い人からお年寄りまでさまざまな年代の人が集まっていて中にはドイツ人らしいグループもいた。
みんなホールのクラシックな雰囲気を楽しみながらおいしそうにビールを飲んでいる。
雰囲気のせいもあるかもしれないが、ここで飲むビールは格別おいしい。
私は琥珀色のピルスナーを選んだが、喉越しがすっきりしていてとてもよかった。
ここに来たからには懐かしいカツレツが食べたかったけれど、残念ながら今のメニューにはない。
しかたがないので申カツとポテトコロッケで我慢した。
しばらくすると、ちょうどローストビーフができたところだと言うのでさっそく頼んだが、
子供の頃こんな贅沢メニューはなかったと思う
今の私は東京に住んでいるから、銀座は買い物や食事に来る日常的な場所だ。
ところがその気になってちょっと足を向けると、数十年前の思い出の世界がそのまま残ている。
あらためて銀座の歴史と奥の深さを感じた。銀座にはまだまだ残っている古い建物を
ぜひ大切にしてほしいと思う。
銀座にはいろいろな世代の人々が、自分だけの特別な思い出を特っているだろう。
その思い出に結びつく世界が残っているのを見つけると、誰だってとても今は、なつかしくうれしいものだ。
銀座がそんな人々の心をいつまでも人切にする心をいつまでも大切する
であってほしいと願っている。
神谷郁代著 魔法の指の秘密 2002.3.1ショパン発行 第1章 思い出より引用
上州風、銀座百点、ピアノの本、音楽の友、朝日新聞、旅の手帖、産経新聞より 20点以上の著書を、
出されておりますので、ぜひ購読をお奨め致します。
実兄の当時の本音は、どうして妹ばかりに父は熱心に、ピアノに力をいれていて、
私は、疎外感を感じていたのは事実だった。
私自身も、ライオンで何度か、ビールを味わったが、鮮度、温度、清潔度、雰囲気いずれも
最高のビールの喉越しを、味わうことができる、
現在の私は、アルコールは、毎日は飲まない、せいぜい年に350日ぐらいですが、
つづく