アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 平成弐拾七未年 其の参拾

2015年06月06日 | 近世の歴史の裏側

 三右衛門は、徳との後見の関係を清算してからも、何故に出店が認められなかったか、

その理由を種々詮索している。

 宿役人一同が徳を拒絶した理由については、日記には全く触れられていない。しかし、決定的と

なったのは、火札に間違いあるまい(火札とするのが最も宿内の人々が納得しやすい理由であった)。

 あの徳を名指しにした火札は、突発的、偶然に貼られたものではない。

仕組まれたもので、第一発見者の建具屋金といい、三右衛門に注進に及んだ三好屋、たまたま居合わせた

本陣の雅之丞、念を押しに来た豆腐屋なども怪しい。

徳と三右衛門は、二月十一日に貼られてから宿役人の決定の四月九日まで火札対策を講じていない。

助けなかったということもあろうが、ただ徳の弟の高崎清水寺別当田村仙岳だけは、火礼出る、

の報に危急を感じたのか、二月三十日に三右衛門を訪れている。

 遅まきながら三右衛門は、愛妾徳を奪うことになった火札の究明に乗り出す。後に離別状を渡し

た翌日、三右衛門は火礼の占いを試みる。

 

四月十二日

 

 昨夜晩く之火札ヲうらなヘミる処

  女家より三丁か三里ニ而未申ニ当り

  我等所より壱丁ヲ不過戌亥ニ当ル

  名前はとらよき此三字之もの仕業

 

右とく女二戌亥当り障り有之、但し十三日之仏を侠客とするものと、

無頼の極悪人であるとする説があって、

いまだ、 忠治をめぐる論争は絶えるところがない。

私は群馬県で、忠治の地元であるから、早くから忠治の資料には注意していた。

忠治は二十歳のころから数年の間、境町在百々(どうどう)村に居たと思われるが、

関係するところが甚だ多いのである。

ところが資料を集約すると、侠客とするよい面が次々になくなって、

次第に卑怯者、悪人忠治の姿が浮かび上ってくる。

国定村の近く、伊与久村の儒家深町北荘の手記によれば、

北荘には嘉永四年の「博徒忠治伝記」五冊の著述があるが、

これも国定忠治死後の記録である。北荘の筆録は多く散逸して、

この国定忠治伝は伝えられないが、もしこの五冊があるならば、

実際にその行状を見聞した地元の手記として、忠治の実状をかなり詳しく

知られたであろうが惜しい限りである。

しかし北荘には他に「国定忠治引」という文章が残されている。

忠治引というのは「忠治のこと」という意味で、その中に忠治が、渡瀬川上で酒銭をかすめたことや、

昼は山にかくれ、夜になると徒卆を引いて通街を侵し、処女は暴にあって婚義を失い、販婦は節を失って泣く、

という行状が記されている。

一人の百姓は、抜刀する数人の無頼の徒に、決してかなうものではなく、

昼間はかくれていて、さながら夜盗山賊の所業である。

斯様に国定一味は日夜非道暴戻を重ねたわけで、付近の百姓町人は震え上って怖れたのである。

忠治の行状を調べると、その大部分は悪業である。

娘を救ったという、いわゆる信州の山形屋藤蔵一件や、岩鼻の悪代官の、

松井軍兵衛を斬ったというのは、紛れもない作り話しである。

そして相手を倒すとき、ほとんど国定忠治自身は手を出していない。

売り物の度胸は一体どこに失ってしまったのであろう。

従ってその行動は悪業だらけで、悪人の国定忠治が成り立つわけで、

生まれたのは没年より算すると文化七年で、国定村長岡与五左衛門の次男である。

三人兄弟であったが、長兄は幼い時死に、つぎが忠治、その弟に友蔵というのがいて、

この友蔵の子孫が今にある。巷説には父与五左衛門は、村の名主で豪農等とするが、

それを示す資料は全くない。

与五左衛門は文政二年、忠治十歳のとき死んだとされるが、享年其の外伝えられるところはない。

清水次郎長はこの翌年に生まれている。

羽倉外記「赤城録」によれば、文政九年、忠治十七歳のとき賭場の争いで相手を殺害したという。

そのため村に居ることが出来ず、出奔して川越にいた大前田栄五郎のところに身を寄せた。

栄五郎は赤城下大前田村(現前橋市大前田町)の無宿で、やくざ者で召捕られて佐渡流しされたが、

厳重な見張りを破って島抜けして船で逃げていたのである。

大前田栄五郎の厄介になって居たが、一年ほどして栄五郎は、ほどほどで上州に帰れといい、

文政十年に百々(現群馬県伊勢崎市境百々)の紋次の子分なった、既に此処には、三ッ本の文蔵や、

境川安五郎などいう名うてのならず者たちがいた。

又、先にこの地は、島村一家伊三郎の地盤であったから博徒ではなく、

その筋では、ならず者集団だったわけである。

忠治の妻をお鶴といい、妾をお町といったが、さらに五目牛村の

お徳というのを妾にした、すでにかつての国定一家の勢いはなく、

上州にいては安心出来ない。そのため奥州へ逃げて隠れようとし、

嘉永二年十一月、縄張りと駒札を境村安五郎にゆずったが、

すぐに旅立つことが出来なかった。

 そして翌三年七月二十一日夜、お町の兄、庄八の家で

お町と臥したが、俄に中風(脳溢血)を起こし、目を見開き、

口からはよだれを出す、お町は驚いて「親分、親分」と呼んだが、

やっと半身を少し動かしただけであった。お町はすぐさま使いを走らし、忠治の弟の友蔵や、境村安五郎を呼んだ。

二人は色々相談の上、お徳の家なら人手も多く、看病が行き届くと言って、

翌日途中で発病したと言って、忠治をお徳の家へ送りつけた。

しかし友蔵らの偽りを知ったお徳は、すぐさま忠治の身柄を

お町の元に送り帰している。 

 その時、田部井村の名主宇右衛門は、忠治の仲間で悪銭を手に入れていたが、忠治が御用なるとこの身が危ない。

忠治を引取って、お上へ通報すれば、お情けが得られると考えて

忠治の身柄を引取り、蔵の中で匿い機会を狙った。   

                                                                                                                            つづく