サンカの種族的系統については、縄文人の末裔説、渡来人説や落人(おちゅうど)説、
中世の傀儡(くぐつ)の後裔説などがあり一定していない。
縄文人の末裔説によれば、彼らは大和朝廷に征服された先住民族であり、原日本人である。
この日本列島に、朝鮮半島や中国から水田稲作と高い土木技術をもった、騎馬と鉄の武器で、
武装した俗にいう弥生人がやってきた。これらの人々やその後身である大和朝廷は列島の平地部分を
占拠していった。原日本人は平地を追われて山に立てこもった。侵略者たちは日本列島の主人面を、
はじめ、征服され、滅ぼされた原日本人の末裔であるサンカは、大和朝廷成立以前からの生活を、
守り暮らした。平地定着民となる事を拒絶し、山と平野の間を風のように流動し先住民としての矜持と
自立を守ってきた。これはアメリカ大陸に上陸したイベリア人がインディオを駆逐し、アメリカ人たちが
「インディアンは劣等な存在、自然奴隷である」として、インディアンから土地を剥奪したのと同じ事である。
柳田国男は<妖怪談義>のなかで次のように述べている。
『これらの深山には神武東征の以前から住んでいた蛮民が、我々のために排斥されられ・・・
その大部分は死に絶え、乃至は平地に下ってわれわれの文明に同化したでもあろうか
、もともと敵である。少なくもその一部分は我慢をして深山のそこに踏みとどまり野獣に近い生活を、
続けて、今日までも生存してきたであろうと想像するのは、強(あなが)ち不自然なる空想でも無かろう』
又、 沖浦和光は、有史以前からの「山人」に連なるものではないかとする柳田国男のサンカ論を
否定し、サンカは比較的新しく江戸期に度重なる飢饉(ききん)で山野に逃れた人々を祖とするという
「近世末期発生説」を提起している。サンカに関する初出史料は安芸国(広島県)の庄屋文書
(1855年)とみられる。三角寛はサンカ発生の地として「雲伯石の三国」(島根・鳥取両県)を
示唆している。
つづく