アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 平成弐拾八年 其の参

2016年08月17日 | 近世の歴史の裏側

徳の弟 田村仙岳の登場

嘉永三年(一八五〇年)の忠治刑死後 渡辺三右衛門を後見にして玉村宿有馬県佐波郡玉村宿へ

仙岳は観音信仰で知られた高崎清水寺の僧である 徳の後見人の渡辺三右衛門を観音参詣に誘ったり 高崎城下で馳走したり 火札の騒ぎの後には 自らも真言修験で大礼調伏に自信か有ったのか 三右衛門を訪れている。

徳の弟か僧侶であったことは すでに他の実家佐兵衛家の于孫一倉義秋家の「過去帖」に有る。

他の子孫である菊池範家の「過去帖」にも仙岳の記載がある。 

 

清水寺中興初代    明治三二年十二月二三日

中僧都仙岳大和尚  享年七十四才

 

徳の婚家である菊池家では 仙岳を徳の弟として命日を「過去帖」に留め 祀っていたのである 

また残された戸籍謄本から徳の養子左之吉(徳と仙岳の兄一倉佐兵衛の二男吉之亟)の娘みきが

仙岳の養女になっていたことが判明する(ただし徳の死から二か月後の明治二十二年四月十五日に離縁となって 菊池家に戻った)徳 仙岳の九歳違いの姉弟は 生家の有馬村一倉佐兵衛家とのつながりを、重視していた。 

ところで 仙岳は 何故に出家し 姓が生家の「一倉」でなくして田村になのか 謎を解く手がかりは目下ない。

ただ推測をすぎないが、i他がそうであったように 母親の生家の影響が垣間見える。というのは 伯岳の宗派は 有馬村一倉家の菩提樹が神宮寺の天台宗ではなく 

中里村の母の生家岸家の檀那寺徳蔵寺の真言宗なのである。恐らく

後妻の男子であった仙岳には、零細な田畑で茶屋を営む父母から

分家させて貰うことは出来ない事である。

                                                     続く

 


真説 国定忠治 平成弐拾八年 其の弐

2016年08月17日 | 近世の歴史の裏側

金の切れ目は、縁の切れ目か?

三右衛門は後見の縁を切る一札を徳に渡してからも未練あり気な振舞いが目につく 

一札から五日後の四月十六日事態の急変が耳に人ったのか忠治の子分重兵衛が三右衛門方に飛んで来た、どうなったのか事情を聴取と考えられる。 

 「こんな筈ではなかった」と、責められた三右衛門は 翌日に言葉足らずを悔いたのか

子分伊勢松に申し付け 帰村したばかりの重兵衛に手紙を届けさせた。

他方 縁切の一札以来 他から三右衛門への働きかけはなくなり 徳の足は玉村宿から遠くなった。 

 三右衛門は四月二十四日 五目牛村の徳を訪ね 重兵衛と再び会っている 弁明に努めたので有。

もう徳の心中には三右衛門への関心はなくなったにもかかわらず三右衛門は 五月二十三日に、

出張先の前橋の宿から他に飛脚を出して 馳走するから来るよう誘っているしかし、徳が行った形跡はない 

それにも懲りず翌月の六月十一日には またまた飛脚を出して 十二日には徳のところへ押しかけ

一泊しているよりを戻そうとしたのか?

二十三日には 今度は書状(飛脚かは不明)を送った 翌日返信が来て

来月入湯に来るとの報に喜んでいる。

そして二十九日 徳から来信と同時に国定村安五郎(忠治子分)iが来訪する 詰めの縁切りの

話でもされたと考えられる。

八月二十二日 伊勢崎町(現伊勢崎市)へ出張中の三右衛門は矢原村(高崎市箕郷町矢原)五太夫を

連れて「五目牛村徳殿」に泊まっている これを最後として徳の名は三右衛門の日記から消えた。

呼び方も出会いの頃の、徳殿に戻ったのが、印象的である 

何かとふっ切れない未練がましい三右衛門をよそに 徳は冷徹に三右衛門に対峙した 出店出来

なかったことが全てであって 甲斐性のない男は たとえ大惣代であっても駄目ということである。

忠治に対しては 刑死後も忠治を祀り 後世にその名を留めるべく献身した徳である。

最後は寄場組合大惣代の権益を保守する三右衛門には 魅力を感じ無くなったのである。