徳の弟 田村仙岳の登場
嘉永三年(一八五〇年)の忠治刑死後 渡辺三右衛門を後見にして玉村宿有馬県佐波郡玉村宿へ
仙岳は観音信仰で知られた高崎清水寺の僧である 徳の後見人の渡辺三右衛門を観音参詣に誘ったり 高崎城下で馳走したり 火札の騒ぎの後には 自らも真言修験で大礼調伏に自信か有ったのか 三右衛門を訪れている。
徳の弟か僧侶であったことは すでに他の実家佐兵衛家の于孫一倉義秋家の「過去帖」に有る。
他の子孫である菊池範家の「過去帖」にも仙岳の記載がある。
清水寺中興初代 明治三二年十二月二三日
中僧都仙岳大和尚 享年七十四才
徳の婚家である菊池家では 仙岳を徳の弟として命日を「過去帖」に留め 祀っていたのである
また残された戸籍謄本から徳の養子左之吉(徳と仙岳の兄一倉佐兵衛の二男吉之亟)の娘みきが
仙岳の養女になっていたことが判明する(ただし徳の死から二か月後の明治二十二年四月十五日に離縁となって 菊池家に戻った)徳 仙岳の九歳違いの姉弟は 生家の有馬村一倉佐兵衛家とのつながりを、重視していた。
ところで 仙岳は 何故に出家し 姓が生家の「一倉」でなくして田村になのか 謎を解く手がかりは目下ない。
ただ推測をすぎないが、i他がそうであったように 母親の生家の影響が垣間見える。というのは 伯岳の宗派は 有馬村一倉家の菩提樹が神宮寺の天台宗ではなく
中里村の母の生家岸家の檀那寺徳蔵寺の真言宗なのである。恐らく
後妻の男子であった仙岳には、零細な田畑で茶屋を営む父母から
分家させて貰うことは出来ない事である。
続く