アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 平成弐拾八年 其の四

2016年08月19日 | 近世の歴史の裏側

通常は 他家の女婿になって百姓になるか いっそ蚕で潤う商家の奉公人になるかであるが、

伯岳は、いずれの途も採らなかった 出家して僧侶になる途を選んだのであった 

いつどの寺で得度し、どこで修行し、一人前の僧侶となったのか 仙岳の修行時代は全く

不明である 

群馬郡福島村(高崎市)真言宗豊山派金剛寺住職より高崎華蔵山弘誓院清水寺への

転住の記事によって 僧仙岳が現れて来るのは 嘉永三年(一八五〇)十二月三十日である。

高崎城下はじめ周辺村々の人々から観音山と親しまれ信仰を集めた名刹清水寺の住職となった。

その九日前 姉徳が精魂傾けた国定忠治が大戸で傑刑に処せられていたのである。 

忠治の死出の行列は 高崎城下を華々しく通過しており仙岳は人知れず姉徳との因縁を思いっつ

観衆の中から手を合わせていたであろう 

お上の御定法を破ってまで忠治に賭ける姉を戒めるのでなく

むしろ支援するところに仙岳の出家

らしからぬ豪胆さがある。この時まだ二十六歳の青年僧であった こんな若僧に高崎の名刹清水

寺か任されたのには 清水寺自体が寺格か落ちるほど衰微していたか? あるいは荒廃した由緒ある

寺を やる気のある青年僧に委ね復興を期待したかである いずれにせよ 伯岳には通常の出家人には

ない手腕、力量を感じさせるものがあつたのであろうか、徳に共通するものである 

仙岳の特異な力量は 幕末の変革に直面して右往左往する大檀越高崎藩の救済に向けて発揮される

しばらくは仙岳の活躍とその背景に目を向けてみよう。

                           続く