高崎落城付五万石騒動
下仁田戦争から四年後、明治元年(一八六八)徳川幕府は倒れる。
並み居る上州の譜代藩は何らの動揺もなく新政府に恭順した。
尊王攘夷を掲げた水戸浪士と下仁田で戦った高崎藩とて例外ではなかった。
明治新政府は正月付で 東山道方面を陳腐する総督の執事名で三つの制札を建てさせ
朝廷による新政を布告した。
その中で将軍徳川慶喜を追討し、これからは徳川の支配で塗炭に苦しんだ人民の
訴えを受け付け、万民に公平な政治を行う と天皇の徳治を告知した
また総督府は猛威をふるう世直し一揆を意識し 三月八日「上野国村々百姓共へ」と宛てた
布告を発し 百姓一揆への理解を示すかのようなかたちを採った。
一揆の要因は徳川の苛政にあり新政の目的は万民塗炭の苦しみを除くにあり
一揆の代表者から訴えがあれば 総督府は善処する、という甘言が盛り込まれていた。
明治二年十月 高崎藩城付五万石六十一か村は、金納を認めず
割高な米納年貢を押し付け続ける藩の旧弊な徴税方式の改定を訴えて行動を起こす。
東・西・上・中・下の五郷の村々は 惣代三名を選んで惣百姓を組織し、高崎城下に押し寄せた。
続く