顕徳碑
昭和五年壱拾月壱四日、八十六歳の天寿を全うしたのであるが、その五年前の
大正壱五年に弟子達が、その恩恵と徳を末代までも伝うべく親方の長寿を祝って顕徳碑を建立したもので、
顕面の文字の「棟梁石原翁」は史学者、(八坂神社 神官 茂呂桑陰)
茂呂桑陰の筆による貴重で文化財価値の高い碑である。
また、三社神社にある、八坂の「神輿」は石原島吉の子、利吉と孫の才次郎の作であるが、
工匠島吉からの技を受けた宮大工の技を見事に表している。
三社神社、鎮座する地域は、かつて比刀禰川(古利根川)と渡良瀬川が合流し形成された内陸砂堆の小丘が累々としていた。
このような場所ではあるが、縄文時代には、石器加工の場など、人の営為の痕跡が僅か見るかっている。
その後、五世紀終末から六世紀には、前方後円墳五基を含む八十数基もの古墳群が築造された。
一方、境剛志小学校から来たにかけては、その集落跡が発見されている。当社が鎮座する「三社神社古墳」は、
本殿下の墳丘の一部を旧境町教育委員会が発掘調査を行ない、大型の円筒埴輪などが出土していることから、
六世紀後半にこの地域を治めた豪族が葬られた前方後円墳である。
このように、この地域は古墳時代には伊勢崎地域でも有数な地域であったと考えられる。
社伝によると、武士は古代から栄えた土地であった。当社が鎮座する高台は、
かつて通称五郎助峠と呼ばれ、後鳥羽天皇の御代、文治二年(1186)鎌倉幕府を樹立した源頼朝の有力御家人で
ある安達藤九老盛長の子、景盛が上野国守護人として、この地で武を練ったことから「武士」と呼ばれ始めたという。
その際、領地の安全を神明に祈願し、神社を奉祀したのが三社神社の始まりであると云う。
また村を縦貫する「日光例幣使道から三丁ほど引っ込んだ字大神に村中が見渡せる高台に
三社宮が鎮守している」と古い記録にある。
このように、当社は、古くから下武士村の鎮守として位置し、永く村民から尊崇されてきた。
島吉の墓は、生家の近くにあり、顕徳碑も隣にあり、現在も綺麗に保存されてあります。
石原 信雄(いしはら のぶお、1926年11月24日 )は日本の官僚。元内閣官房副長官は一族である。
顕徳碑には、2番弟子 坂田留吉の名が刻まれている。
茂呂桑陰は、文献に名を残し後の多くの逸材に、影響を与えている。
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