○無宿 三ツ木文蔵
三ツ木文蔵はやくざ者であったが、国定忠治の有力な子分だったので、
広くその名が知られている。いま文蔵の事積をあげるならば、
当然悪事の数々であるが、名を知られた郷土人として此処に
あえて留めておきたいと思う。
従来、三ツ木の文蔵について資料的なものはほとんど残されていない。
文蔵の死後暫くの間は、手に負えないやくざ者として放置されたである。
明治初年ごろまで文蔵を顧みる人などなかったのである。
ところが、明治十三年に国定忠治義名の高島という本が出て、
忠治の名が全国的に売り出されると、文蔵の名もようやく
知られる様になったのであるが、今回、私の拙い力では忠治本人の
関係資料は全く得られないし、文蔵の生年、死歿の年月、享年を
定めることが出来ない。その為此処ではその年月の推定をし、
その仮定によって実績を叙したい。文蔵は文化三年に生れ、
天保九年六月二十九日死、享年三十二才だったと思われる。
忠治より四才長じたわけである。
三ツ木文蔵は上州新田郡三ツ木村に生れた。本姓大見山文蔵である。
水呑百姓の子であるが、早く父に死なれたらしく、文蔵の成年時には母と
妹の三人暮しであった。文政末年頃からやくざの群れに入ったであろう。
その頃、前にも記載したがこの地方は養蚕や織物がさかんで、
農村経済は非常に豊であった。女性はよく慟いたが、男共はよく遊んで
しまうのである。益して三ツ木村は例幣使街道が通じて、上下の往来が
盛んだったから、つい遊びに出てしまう機会はある。
丁度其の頃、国定忠治は近くの百々(どうどう)村の親分紋次の子分になった。
いわば文蔵の弟分になったわけである。 文政十三年ごろ、百々紋次が死ぬ時、
紋次は忠治に駒札を与えて百々一家の親分をゆずった。なぜ兄貴分の文蔵では、
なく、忠治に跡目をゆずったか。それは文蔵が無学で文盲だったからだと思う。
この時から年令は上であったが文蔵は忠治の子分ということになり、数多い
忠治子分中で、一番早い有力な子分とされた。
しかし忠治、文蔵一党は札付きのやくざ集団で、日常不法暴行を働く事が多く、
以下、其の五と重複
「一般市民は大いに迷惑することが多かったらしい。
そして数年後、天保五年春、境町の下町桐屋金次郎と云う呑屋で文蔵は
無銭飲食を働き、その上家内で大いに乱暴した。主人の金次郎は香具師
不流一家の身内であったが、何分相手が名代の乱暴者で、長脇差を帯びている
為手が出せ無い。そこへ丁度島村伊三郎が通りかかり、この乱暴を見ると、
文蔵を捕えて大道へ引き出した。そこで十分に打擲したのである。
このため文蔵は大いに伊三郎を恨み、忠治に伝えたのである」
これによって伊三郎は殺害されたのである。
伊三郎に打たれた文蔵は百々村に逃げ帰る、と忠治に此の事を告げた。
やくざ者の集団、忠治らにとって島村一家の存在は目の上のコブである。
そして衆人環視の大道で恥をかかされた文蔵の遺恨を果すべく、
ひそかに伊三郎殺害をはかったのである。天保五年七月二日、
忠治、文蔵ら十人は伊三郎の不意を襲って闇討ちしたのである。
そのため文蔵は八州役人の特別指命手配を受けた。
村の伝えによれば、これからの文蔵や忠治は決して昼間出歩く事がなく、
三ツ木の母や妹に会いに来るのも夜分で、表に呼び出して話をし、
決して家に入ることがなかった。桐生百話によれば、天保七年暮に
桐生の豪商佐羽清右衛門を夜更けにたたき起した文蔵は、
主人から五十両を強奪してその借用証文が残されているというが、
それは偽物ではないかと思う。文蔵は文字が書けなかったはずである。
暫くして伊三郎殺しの詮儀もやヽしずまった天保九年三月二十六日、
世良田村八坂神社大門の料亭朝日屋の二階に賭場が聞かれた。
もと島村一家の縄張りは文蔵の手中にあったので、テラ銭をあげるため
文蔵はこの賭場に出かけた。賭場は刃物禁制であるから階下で
脇差を渡し、丸腰で二階に上ったが、朝日屋のお内儀が差し出した
茶を見てびっくりした。お内儀はおそろしさのためふるえ、盆にのせた
茶碗がガタガタ震えていたことから、
文蔵は突瑳に茶碗をお内儀に投げつけると「騙したなっ」と怒鳴り、
いきなり階下へ下りた。これを見た村人は八坂神社の半鐘を打ちならし、
半鐘を合図に村人総出で文蔵を追いかけた。文蔵は東に逃げ出したが、
大勢の村人のため路上で梯子捕りにあってしまった。
文蔵は手裏剣の名人と云われ、何度も捕方をかわしたのであるが、
このときは手裏剣も脇差もなかったので逃れるすべが無かった。
召捕られた文蔵は木崎宿に待ちうけた八州役人のもとに出され、
江戸に送られたのである。そしてお仕置になったのは、、
その六月二十九日だったと思われるし。獄門であった。
いま三ツ木、真福寺墓地に妹のおやすが建てた墓碑がある。
戒名を三明通達居士、そして「俗名大見山文蔵、享年三十二才、
天保十一年六月二十九日、施主やす」と刻されている。
この年号は没年で無く、死後三年忌で建碑した時の年月と考えられる。
文蔵の死んだのは従来天保八年とされているが、
これは羽合簡堂の赤城録に拠ったのである。
ところが地元人の日記である大谷光陰録に天保九年三月に
召捕られた記事があるので、死没をこの年とも考えられる。
妹のおやすはやはり忠治の子分だった上田中の清蔵の女房になったが、
文蔵お仕置の時、ついに江戸に行かず、白の帷子だけをおくっている。
おやすは文蔵の位牌をまもっていたが、
明治になってから三ツ木に、持ってきて今も残されているが、
上野人物志によれば、文蔵は召捕られた時、伊三郎を殺害したのは
自分だと白状して忠治を庇ったとある。たしかに第一刀を下したのは
文蔵だったと思うが、この時の届け書に伊三郎は虫の息で発見された
ことになっている。殺人と殺人未遂では罪の軽重があったので、
文蔵召捕りの後又この事につき八州役人からお糾しがあった。
しかし文蔵が無頼のやくざ者で、日常一般市民に暴行を働いていたので
情状は認められなかったのである。
但し私自身は、殺人で獄門になった、人物を恰もヒーローの様に扱い
観光などに利用され事自体が誤りと感じてならない。
現代の殺人死刑囚が、一〇〇年後、称賛されるのだろうか?
つづく
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