伊藤によると「読み書きも計算もできず 料理もまるで駄目だったにというしたがって
「祝」の漢字も、」だれかが宛てたことになる。どこで生まれたのか本人にもわからず、
むろん夫も知らなかった、このようなことはミナオシの社会に出自をもつ者には、ごく普通の
ことであった。就職に際しては本籍 出生地、生年月日などがいわばつくられるが、
一般にあまり当てにならない。
例えば小川作次の妻 新井ふみである彼女は平成二年七月十九日に 埼玉県内のある特別養護
老人ホームで死去している。
ホームヘの届け出によれば 明治四十四年(1919)九月二十二日生まれとなっているから
満七八歳であった、本籍として埼玉県深谷市東方の ある番地が記録されている。しかしそこは
古くから桑畑で、少なくとも民家があった形跡はないと おそらくは架空の本籍地ではないか。
ふみもまた文字能力を欠いていたことを考える
伊藤と祝の結婚生活は つかず離れずといったものだった
昭和三十年代に入ると 箕の行商や修繕で暮らしていくことが だんだん難しくなってくる
需要が減ったうえ 定住民の箕作り職人たちが工程の一部を機械化して、従来より安い箕を供給
しはじめたのである。伊藤は人に雇われて働くことが多くなった タイル屋 荒屋 段ボール工場などである
その中には住み込みの仕事もあったさらに伊藤の服役が加わっていた 彼は前科四犯だと
話しておりすでに、記した二度のほかに もう二度 さして長い期間ではなかつたが
刑務所で過ごしていることになる
昭和三十五年には二人のあいだに男児が誕生する いや 産んだのは祝であつたが 父親は
伊藤ではなかった 夫婦のいずれとも十年余の付き合いの「日下部」という男だった、
元来はテキヤだが なぜかミナオシの群れに出入りしていた どうも伊藤が服役中の不倫らしい
それに伊藤は無精子症(本人の言葉)だから 子供が生まれるはずはないのだった。
彼は四十数年後に(いま考えても腹が立つ)と漏らしていた。
しかし伊藤は その子を認知して籍に入れる 彼自身も男女関係についてはいい加減であった。
生まれてきた子に責めがあるわけではないと考えたのかもしれないさらに彼は世間から「乞食」と
陰口をされるような漂浪生活に倦んでいた。そろそろ、ちゃんとした家庭を持ちたく
なっていたのである。
男児は のちに坂戸市内の小学校へ入学する「色白の可愛い子だった」と振り返る人が多い
だが その子はわずか九歳で他界する 急性肝炎であった。
伊藤はこのころ すでにミナオシの集団を離れていた 最後まで行き来していた久保田辰三郎
の長男始も昭和四十五年前後に伊藤には何も告げず、どこかへ行ってしまう(おそらく神奈川
県の飯場に住み込みだと思われる)
それから10年ほどのちの同五十四年十一月 妻の祝が死亡している、頬の裏側にできた癌が
死因であった 祝は五一歳 伊藤は四九歳だった
伊藤は一入ぼっちになったが、もう前のような放浪生活に戻ることはなかった。かつて働いた
ことがある段ボール工場の経営者の息子が 静岡県浅羽町(現袋井市)へ移って大きな紙器
メーカーの下請けの仕事をしており誘われてそこに勤めることになったのである。
彼は五〇歳からの二五年ばかりを、その下請け会社で過ごした六〇代のときには「王任」の
肩書きを貰っていた。
晩年は体調がすぐれなかった、ときどき便器が真っ赤になるほどの下血があった それでも医
者には行かず、好きな酒や焼酎のお湯割りもやめなかった 若いじぶんから読書家で、
なかなかのもの知りだった アパー卜の一室で床に伏せつている時は一日中本のぺ―ジを
繰っていた。
平成二十二年七月 長く寝込むこともなく死去した。八十歳であった。
つづく
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます