アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 平成弐拾八年 其の壱壱

2016年12月24日 | 近世の歴史の裏側

天保の大飢饉の時に 忠治が飢えに苦しむ人たちを救つたという話が 広く人々の問に、

今なお語り継がれている 

 「赤城録」iの中には 次のように記されている 

 天保七年は日照りが続いて 関東は大飢饉となった 忠治は私財を投げうって 飢えに苦しむ

人今を救った このため 赤城付近では餓死する者が一人もいなかつたという事が記載されている。

 忠治が飢饉に苦しむ人身を助けたという話のいくつかが、今も伝わっている 

その一つは 田部井村のかんがい用の沼が埋まってしまって用をなさなくなってしまった 

そこで忠治は 埋まってしまった沼を掘り返して水をため 早勉を防いだと伝えられている 

今でも忠治沼と地元の人たちは呼んでおり 私が訪ねた時にも

「ああ 忠治さんの、沼ですかと「いって親切に教えてくれたのである」 

もう一つは 米百俵を飢えた人心に配ったというのである 

自宅の前に米俵を並べて人4に振る舞ったともいわれているし 

鎮守社の前に千両箱を並べて銭を振る舞ったとも伝えられている 

また 子分を引き連れて 太田の大光院に押し入ってE千両ほど

を強奪して 飢えた人々に分け与えた話や中山道で江戸の飛脚を

待ち受けて 千五百両ほどを奪って農民を救った話などは講談の

中に出てくるのである 

 天保の飢饉に米や銭を振る舞って 農民を救けたという話は 

多くは講談の中におもしろおかしく書かれている 

 しかし 羽倉筒堂のi赤城録lの中に i忠治は私財を投げうって困窮した人身を救った 

そして赤城付近からは一人も飢え死をするものを出さなっかつたにと記されてあるのは

そうした事実が多少なりともあってのことだろうと考えられるが、

 

                             つづく



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