アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

幻の民サンカ 其の18 言葉と生業

2015年08月15日 | 近世の歴史の裏側

 言葉の幾つかは集団固有のものを用い、それを兵庫県地方ではサンショコトバといっていた。

サンショとは中世の(さんじよ)に当たると推定されている。サンカ同士は、伝令やサンカ文字に

よる手紙で常に連絡を取り合っていた。

 生業

 サンカには大きく3つの職種がある。ミツクリは箕(み)作りで、竹細工系の仕事。フキタカは笛作り、

琴作り、茶筅(ちゃせん)作りなど、楽器や芸事の道具製作で他にも籠(かご)、簑(みの)、笠(かさ)、

下駄(げた)などの細工物を作る。里におりて食料その他と交換した

エラギは猿舞い、獅子舞、猿楽、白拍子、くぐつ、などの遊芸である。彼らは、漂泊の旅をする遊芸の

民だった。歌舞伎(かぶき)は出雲の阿国という女がはじめたと言われている。

サンカの伝承=コトツによれば、この阿国がサンカだったというのである。このようにサンカは、芸能や

宗教などにたずさわった者と根をひとつにするようだ。

 この他にイツモリ=五守という分類もあり、山番などの労務関係の仕事がある。ヤシナド(ヤシナ)と、

いう分類には、竿(さお)屋、ふいご屋(いかけ屋)、研ぎ屋(するど・刃物砥ぎ)、トベナイ(呪・占い師)

が入る。蝮捕はサンカの誰がやってもいいとされる仕事で、取った蝮は生きたまま蛇屋に売る他、

調味材料、副食などの食用にした他、保健剤、外傷剤としても使われたという。川漁にたずさわる集団も

多かった。山中の川のそばでユサバリをしてセブリ、川魚や山菜を取りながら、転々と移動した。

非農業系の仕事のかなりの部分がサンカなのだ。

 

 ウメガイとテンジンが代表的なサンカの道具で、サンカの証明ともなる重要なものだ。ウメガイは、

両刃の小刀で、サンカの象徴的な仕事である箕(み)作りで竹を細工するのに使われる、サンカに、

とっては最も大切な道具である。また、時には護身用に使用される。テンジン=天人はウメガイとともに

サンカを証明するもので、ウメガイよりも大切にされる。マガクモ=ニセサンカがウメガイを持っている事

は許されても、天人を持つ事は絶対にゆるされない。

 つづく


幻の民サンカ 其の17 生活

2015年08月10日 | 近世の歴史の裏側

 山窩は、日本列島の脊梁(せきりょう)(せきりょう)山脈や高地を移動し『山』を生活の拠点としていた。

北は青森の下北半島から南は鹿児島の大隈半島まで全国的に分布するとも、東北地方以北には、

いないともいわれる。住居は山では洞窟に住み、移動のときにはユサバリとよばれるテントを張って

家族単位に生活した。また、ユサバリで暮らすことをセブリと『瀬振り』(セブリ)といった。

これこそがサンカの特徴である。セブリこそがサンカなのである。昼間は箕(み)作りをしたり、

笛を作ったりする。時には蝮(まむし)も捕る。サンカは働き者で、身奇麗だという。煮炊きは、

テンジン=天人という自在鉤(かぎ)で吊(つる)したナベで行う。風呂(ふろ)は焼き湯と言って、

穴を掘った内側にまず天幕を張って水がもれないようにし、水を入れた後に、たき火で焼いた石を入れる。

こうして湯を沸かし、入浴する。冬は南の暖かいところ、夏は北の涼しいところに居を構えたという。

男は天幕や道具を、女は赤ん坊やナベカマを背負い、山のサンカ道を抜けて次のセブリに行く。

 彼らは米を主食とせず、さらに、非農耕・非定住・非服属の等の特徴を持つことから

「日本のジプシー」とも呼ばれる。サンカは、このような生活をサンカ言葉でハタムラという掟(おきて)で

守ってきた。サンカ言葉では、平地に降りて暮らすことをトケコミ、イツキという。戦後は、

トケコミしたイツキのサンカが、サンカの主流となったという。

つづく


幻の民サンカ 其の16 起源

2015年08月09日 | 近世の歴史の裏側

サンカの種族的系統については、縄文人の末裔説、渡来人説や落人(おちゅうど)説、

中世の傀儡(くぐつ)の後裔説などがあり一定していない。

 縄文人の末裔説によれば、彼らは大和朝廷に征服された先住民族であり、原日本人である。

この日本列島に、朝鮮半島や中国から水田稲作と高い土木技術をもった、騎馬と鉄の武器で、

武装した俗にいう弥生人がやってきた。これらの人々やその後身である大和朝廷は列島の平地部分を

占拠していった。原日本人は平地を追われて山に立てこもった。侵略者たちは日本列島の主人面を、

はじめ、征服され、滅ぼされた原日本人の末裔であるサンカは、大和朝廷成立以前からの生活を、

守り暮らした。平地定着民となる事を拒絶し、山と平野の間を風のように流動し先住民としての矜持と

自立を守ってきた。これはアメリカ大陸に上陸したイベリア人がインディオを駆逐し、アメリカ人たちが

「インディアンは劣等な存在、自然奴隷である」として、インディアンから土地を剥奪したのと同じ事である。

 

柳田国男は<妖怪談義>のなかで次のように述べている。

『これらの深山には神武東征の以前から住んでいた蛮民が、我々のために排斥されられ・・・

その大部分は死に絶え、乃至は平地に下ってわれわれの文明に同化したでもあろうか

、もともと敵である。少なくもその一部分は我慢をして深山のそこに踏みとどまり野獣に近い生活を、

続けて、今日までも生存してきたであろうと想像するのは、強(あなが)ち不自然なる空想でも無かろう』

 又、 沖浦和光は、有史以前からの「山人」に連なるものではないかとする柳田国男のサンカ論を

否定し、サンカは比較的新しく江戸期に度重なる飢饉(ききん)で山野に逃れた人々を祖とするという

「近世末期発生説」を提起している。サンカに関する初出史料は安芸国(広島県)の庄屋文書

(1855年)とみられる。三角寛はサンカ発生の地として「雲伯石の三国」(島根・鳥取両県)を

示唆している。

つづく


幻の民サンカ 其の15 名称の由来 

2015年08月08日 | 近世の歴史の裏側

山窩(サンカ)名称の由来

 サンカは散家、山稼、山家などとも書かれ、民間では箕作り・箕直し・テンバモン・カワラコジキ・

ポン・ノアイ・オゲ・ヤマモンなどと呼んでいた。山窩という名前は、明治維新後に警察によって作られた。

言葉であるといわれる。「山の窩(あな)にひそむ盗賊」くらいの意味であろう。

漂泊民をあたかも犯罪者集団と見た名残がある。三角寛は、ながく山窩と表記してきたが、

サンカには大きく三つの仕事の系列があることから、三家と書くのが適当ではないかと言っている。

ルポライターの朝倉喬司も別の角度から、やはり三つの家で三家ではないかという説を立てている。

四国高松地方で三界に家なき者のことをサンカまたはサンガイというのと同じだとか、ジプシーの故郷と

いわれる西インドのサンガタの住民サンガニに語源を発するとかという説もある。

異端の歴史家矢切止夫は、大和朝廷は海からやって来て平地に棲(す)みつき、原日本人は、

山でサンカとなり、海で海人(アマ)となったとことから。原日本人は山海族であり、

サンカは山海なのだと言っている。

 サンカは自分自身を関東ではナデシ、関西ではケンシ、ショケンシ(世間師)、ケンタと呼ぶが、

これは、Gypsyという言葉が外部からの呼称で彼ら自身はRom(人間という意味)と呼んでおり、

Eskimo(生肉を食う人)がInuit(人)の蔑称であることと似ている。

つづく


幻の民サンカ 其の14 山窩とは、何か?

2015年08月07日 | 近世の歴史の裏側

山窩(サンカ)とは何か

 

 山窩とは、日本の山間部を生活の基盤とし、夏場の川魚漁、冬場の竹細工を主たる生業としながら

山野を渡り歩く漂泊民である。その生活実体は十分につかめてはいないが、生産技術や社会関係、

信仰といった生活様式が平地民とやや異なり、平地の住民からは異端的に見られていた。

サンカは戦争のたびに定住を強制され、ついに太平洋戦争を境にして不明となったといわれる。

民俗学の祖柳田国男がサンカについて記述したが、柳田は警察官からサンカについて聞いたという。

作家でサンカ研究家である三角寛も、サンカを知るきっかけは警察だった。三角寛は、彼らを独特な

文字や掟(おきて)、伝承、厳格な組織を有する社会集団として描き、肉体的にも異能の持ち主と、

している。

つづく


ズボラ小父さんが、やっと葱の土寄せをしました。

2015年08月06日 | 家庭菜園

今日、ズボラ小父さんが、やっと葱の土寄せをしました。

ネギより高い、雑草ズボラの証明なので

少し、葱の土寄せをしました。

少しは、良くなったですか?

今度はいつになるか、本人もわかりません。


幻の民サンカ 其の14 三角寛とは其の6 写真の疑問Ⅱ

2015年08月04日 | 近世の歴史の裏側

下の写真の材質も疑問がある、帆布と思われるが、高価で当時貴重な帆布が新品である。

前回の写真で風呂で使用していた、ビニールですが大きさ、厚みといい高価でサンカの方は

現金では購入できない品物である。

これは、手づかみで川魚の漁の様子である、殆ど裸に近い服装である。

                                                      つづく