水戸浪士の戦いに武運長久の守護札を配ったり 軍需物資の搬送に協力し、
高崎藩を支援して来た仙岳にとって 下仁田での敗戦は予想しなかつたことであつたが、
まずは戦場に行って、
自らこの目で確かめ 戦死者があれば 勅願寺の僧として供養しなければならなかった。
十九日 仙岳らは下仁田に駆けつける。敗戦の高崎藩士は 武田耕雲斎等の首実検を受けた後
専修院に埋められた者八名の他は、討死場所に放置されたままであつた。
首の付いた死者は稀でほとんど首を落とされて、屍を喰う犬もあり 何よりも戦死者を収容することが急がれた
仙岳は遺族 親類縁者を引き連れ 戦場を駆け廻って 死者への読経に余念がなかった。
専修院に埋められた首は掘り出され 落とされた首は元に修復して駕龍に担がれ悲しい帰宅となった
藩主輝聾からは戦死した藩士に香花料と、肴料、幕府からは金十両が下賜された、
また藩は改めて天台宗華応山大染寺で大法会を設けて戦死者を弔った
下仁田の戦場にまで直接足を運び 誦経の供養に専念した仙岳は 自らが住職を務める清水寺境
内に一宇の堂を建て 戦死者の肖像を刻んで 永世に供養することを発願する
仙岳はその経緯を「義勇士各霊過去帳」に書き遺した 坂上田村麻呂以来の武運長久
勝利の祈念修行の由緒を述べ 水戸浪士追討の高崎藩出兵とその関わりに触れ「大王君始め奉り御家臣方ならびに歩役之者迄 御守護二千五百枚」を差し上げたと記している。
そして元治元年十一月十六日下仁田郷で戦死した高崎義勇士三十六人の菩提を弔うため 法名 実名 年齢 菩提寺名を銘記し、発願文の末尾に「現住仙岳謹言」と記している。
この堂は田村堂と、呼ぱれ 既に百五十年余の歳月に耐えて現存するが、 そこには三十六体の戦闘
姿の人形が納められている。
上士から下士まで藩士三十一名 医師 町人等徴発された者五名である。
仙岳の本意は 君命を奉じて戦場に討死するは武士の本分で 誇るに足らず むしろ たまたま
巻き込まれた戦いに徴発され 命を落とした者の肖像を後世に残す事にあつたと考え有れる。
仙岳はただ 高崎藩におもねるために戦死者の供養に邁進したわけではない 幕末維新の激動に
倒れた身分の低い足軽 小者 百姓町人身分の戦死者に対して 深く追悼する気持があつたので
ある、仙岳も姉徳に似て 弱きを、扶ける仁侠の風格を備えた傑僧であつたと言え様
下仁田戦争の敗戦処理に苦しんだ高崎藩は 御維新の荒波の中、またまた大変な内政の難局に
直面するl五万石騒動と言われるいわば遅れてやって来た百姓一揆である。
田村仙岳の出番がまたやって来たのである。
続く