アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 平成弐拾八年 其の十一

2016年09月09日 | 近世の歴史の裏側

豪傑肌、変り者に「他人の企図し難い美徳に」正体の知れぬ僧で、随分面白き経歴にの持ち主で、

藩主の厚い信頼を得て 藩政万端に嘴を入れるようになった。

姉徳に劣らぬやり手である。 高崎藩主が後盾であるから影響力は姉徳以上である。

十月十七日の四千人か参加した直訴の集団示威のあと 大惣代等関係者は解散したと見せかけて 

栗崎村「高崎市栗崎町」地蔵寺に集まって協議を重ねていた、これを知った藩の大目付以下役人は

急ぎ駆けつける 仙岳はこれに同行した。

役人は「検見を実施し不作が判れば必ず免除することを約束するから 穏かに百姓が帰村する

よう村々を纏めよ」惣代らを説得するが両者の溝は埋まるどころか気まずい状態となった 

沈黙か続く中に仙岳か現れて弁舌を振るう。

                                            続く

 


真説 国定忠治 平成弐拾八年 其の壱拾

2016年09月08日 | 近世の歴史の裏側

仙岳は 今までは藩庫を支える穀倉の従順な城付の君海が一変 不公平を是正しようとする積年の忿怒に同情した 

 一方 下仁田戦争から朝幕間にあって右往左往し 莫大な支出に苦しむ高崎藩の懐事情も、理解出来た。 

 天狗党騒ぎから藩政に干与して下仁田戦争では死傷者の収容と供養に献身して

 藩主の信任を得ていた仙岳は 高崎藩存亡にも係る五万石騒動の危機に両者の調停に乗り出す、五万石騒動の全貌を明らかにしてくれるのは細野格城が明治四十四年(1911)に書き遺した来た 「五万石騒動」である。

細野は、当時十六歳動員を駆けられ加わった その体験を土台に調査を積み重ねて

四十二年後にまとめたもので 騒動の内実の真相を伝えてくれる。

細野は調停 斡旋に奔走した田村仙岳に注目して 次のように人物を紹介している 

一種性格の違った淡白な豪雄肌の人が在った 其人格に就ては中々多種多様で

色々な諸議も、多かった変り者で他人の企図し難い美徳をも持って居ると云う正体の知れぬ僧で

随分面白き経歴を持って居た。(後略)

                                                   続く


真説 国定忠治 平成弐拾八年 其の九

2016年09月07日 | 近世の歴史の裏側

高崎落城付五万石騒動


 下仁田戦争から四年後、明治元年(一八六八)徳川幕府は倒れる。

 並み居る上州の譜代藩は何らの動揺もなく新政府に恭順した。

 尊王攘夷を掲げた水戸浪士と下仁田で戦った高崎藩とて例外ではなかった。 

 明治新政府は正月付で 東山道方面を陳腐する総督の執事名で三つの制札を建てさせ

 朝廷による新政を布告した。 

 その中で将軍徳川慶喜を追討し、これからは徳川の支配で塗炭に苦しんだ人民の

訴えを受け付け、万民に公平な政治を行う と天皇の徳治を告知した 

 また総督府は猛威をふるう世直し一揆を意識し 三月八日「上野国村々百姓共へ」と宛てた

布告を発し 百姓一揆への理解を示すかのようなかたちを採った。

 一揆の要因は徳川の苛政にあり新政の目的は万民塗炭の苦しみを除くにあり 

一揆の代表者から訴えがあれば 総督府は善処する、という甘言が盛り込まれていた。 

 明治二年十月 高崎藩城付五万石六十一か村は、金納を認めず

割高な米納年貢を押し付け続ける藩の旧弊な徴税方式の改定を訴えて行動を起こす。

東・西・上・中・下の五郷の村々は 惣代三名を選んで惣百姓を組織し、高崎城下に押し寄せた。

                                                続く 


真説 国定忠治 平成弐拾八年 其の八

2016年09月06日 | 近世の歴史の裏側

水戸浪士の戦いに武運長久の守護札を配ったり 軍需物資の搬送に協力し、

高崎藩を支援して来た仙岳にとって 下仁田での敗戦は予想しなかつたことであつたが、

まずは戦場に行って、

自らこの目で確かめ 戦死者があれば 勅願寺の僧として供養しなければならなかった。

十九日 仙岳らは下仁田に駆けつける。敗戦の高崎藩士は 武田耕雲斎等の首実検を受けた後 

専修院に埋められた者八名の他は、討死場所に放置されたままであつた。

首の付いた死者は稀でほとんど首を落とされて、屍を喰う犬もあり 何よりも戦死者を収容することが急がれた 

 仙岳は遺族 親類縁者を引き連れ 戦場を駆け廻って 死者への読経に余念がなかった。 

専修院に埋められた首は掘り出され 落とされた首は元に修復して駕龍に担がれ悲しい帰宅となった 

 藩主輝聾からは戦死した藩士に香花料と、肴料、幕府からは金十両が下賜された、

 また藩は改めて天台宗華応山大染寺で大法会を設けて戦死者を弔った 

 下仁田の戦場にまで直接足を運び 誦経の供養に専念した仙岳は 自らが住職を務める清水寺境

内に一宇の堂を建て 戦死者の肖像を刻んで 永世に供養することを発願する 

 仙岳はその経緯を「義勇士各霊過去帳」に書き遺した 坂上田村麻呂以来の武運長久

 勝利の祈念修行の由緒を述べ 水戸浪士追討の高崎藩出兵とその関わりに触れ「大王君始め奉り御家臣方ならびに歩役之者迄 御守護二千五百枚」を差し上げたと記している。

そして元治元年十一月十六日下仁田郷で戦死した高崎義勇士三十六人の菩提を弔うため 法名 実名 年齢 菩提寺名を銘記し、発願文の末尾に「現住仙岳謹言」と記している。

 この堂は田村堂と、呼ぱれ 既に百五十年余の歳月に耐えて現存するが、 そこには三十六体の戦闘

姿の人形が納められている。

 上士から下士まで藩士三十一名 医師 町人等徴発された者五名である。

仙岳の本意は 君命を奉じて戦場に討死するは武士の本分で 誇るに足らず むしろ たまたま

巻き込まれた戦いに徴発され 命を落とした者の肖像を後世に残す事にあつたと考え有れる。

仙岳はただ 高崎藩におもねるために戦死者の供養に邁進したわけではない 幕末維新の激動に

倒れた身分の低い足軽 小者 百姓町人身分の戦死者に対して 深く追悼する気持があつたので

ある、仙岳も姉徳に似て 弱きを、扶ける仁侠の風格を備えた傑僧であつたと言え様 

下仁田戦争の敗戦処理に苦しんだ高崎藩は 御維新の荒波の中、またまた大変な内政の難局に

直面するl五万石騒動と言われるいわば遅れてやって来た百姓一揆である。

田村仙岳の出番がまたやって来たのである。

                              続く