そんなに何もかも捨てなくても…
後悔したらどうするの?
無駄なモノがひとつもない人生なんて、味気ないでしょ?
私がダンシャリアンだと言うと、よくこういう反応が返ってくる。
そうかな…?
そんなに何もかも捨てているわけじゃない。
ひとつひとつのモノと向き合って、不要と判断したモノだけを処分している。
以前は仲良しだったけれど、今は縁が切れたモノ。
今・ここ・自分の軸からずれたモノ。
そんなにお気に入りでもないけれど、
ただそこにあるから…と漫然と置きっ放しになっていたモノ。
毎日使っていなくても、
好きなモノ、残しておきたいモノ、大事に思うモノは断捨離していない。
捨てて後悔したことは・・・、あるかもしれない。
だけど忘れてしまった
所詮はその程度の後悔だ。
「あ、あれ、捨てなきゃよかったな」と一瞬は思っても、
3日も経てば、そんなモノがあったことさえ、忘れている。
つまりはあっても無くても大勢に影響の無いモノ、
でも断捨離の対象になるくらいだから、絶対必要、大好き!…というモノでもない。
ひでこ先生も、この質問はよく受けるそうだ。
「たとえ後悔したとしても、それで命が脅かされるような事態は起こらないでしょう?」と仰る。
100個の断捨離をすれば、
人間だもの、1個か2個は失敗することもあるだろう。
でも問題は、どこに焦点を合わせるかだ。
98個の不要物がなくなって、身軽ですっきりした、ごきげん生活を満喫するのか、
2個のことを延々悔やんで落ち込むのか。
必要なモノは必要な時に与えられるし、
いざと言う時、私には必要なモノをゲットする才覚があると信じるのか、
未来のあるかないかの事態に怯え、
「もし○○な時に、△△がなかったらどうしよう」…と、不安に囚われて暮らすのか。
どちらを選ぶかは、個人の自由だが、
断捨離を始めて1年半、捨てたことを未だに引き摺っているモノ、私にはない。
無駄なモノがひとつもない人生じゃない。
無駄じゃないモノに囲まれた人生だ。
使うモノ、楽しむモノ、大事なモノ、そして好きなモノ。
味気なさなんて感じない。
ここからも、まだまだ断捨離できると思っている。
使っていなくても、手放せないと思うモノはある。
そんなモノまで、無理やり捨てることはしない。
処分するのは、これは不要で、もう私はいらない…と納得したモノだけ。
ここに誤解があるようだ。
断捨離の判断基準は、使うか、使わないか。
確かにそうなんだけど、
使わないけど、捨てられない…ってモノ、誰にでもある。
そんなモノまで、生木を裂くような思いをして捨てる必要はない。
断捨離を進めていくと、判断の精度がどんどん上がり、
今は思い切れなくても、3ヵ月後にはあっさり手放せることが、よくある。
そういう心境になった時、処分すればいいだけの話だ。
それにダンシャリアンは、能天気にほいほい捨てているわけではない。
モノの要・不要を判断するのは、本当にしんどい作業だ
まだ使えるモノを処分する時は、
もったいないと思うし、罪悪感にさいなまれる。
見て見ぬふりをする方が、どれだけ楽なことか。
それでも自分の管理能力を超えた膨大なモノを処分して、
住まいも心もすっきり整えたいという強い気持ちの元、
罪悪感と真正面から向き合って、しんどい作業に自らを追い込む。
その先に一体何があるのかな?
最近、なんとなくその輪郭が見えてきたように思うけれど…。
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