余はいまだよく神の何者たるかを知らず。されどもその余の悪を憎みたもうにまさりて余の善を愛したもう者なるや、あえて疑うべきにあらず。
余が終末(おわり)の裁判(さばき)の日において神の前に立つや、余の悲嘆は余の悪の多きことにあらずして、余の善の少なきことならん。
しかして余はその時余の予想に反して、愛なる神が余の犯せしすべての悪を忘れたまいて、ただ余のなせし些少の善をのみ記憶したもうを発見して、驚愕の念にたえざるべし。
われら神の怒りについてのみ念ずるはあやまれり。神は怒りの神にあらず、恩恵の神なり、すなわち赦免(ゆるし)の神なり。(内村鑑三)
「天が地よりも高いように、主がおのれを畏れる者に賜る慈しみは大きい。東が西から遠いように、主はわれらの咎(とが)をわれらから遠ざけられる。父がその子を憐れむように、主はおのれを畏れる者を憐れまれる。主はわれらの造られたさまを知り、われらのちりであることを覚えていられるからである」(詩篇103:11-14)
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友有り、遠方より我を招く。いざ往かむ。往きてしばし「恩寵感謝」につきて語るところあらむ。
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(今日のお弁当)
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