河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
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畑――レタス

2022年09月02日 | 菜園日誌

 今、あたりまえのようにレタスを植えて食べている。
 ところが、ちしゃ=レタスの記事を書いていて、ふと思った。
 わしが、レタス、いや、生野菜=サラダを初めて食べたのは、いつあったんかいなあ?
 そう考えると、意外と新しいのではないかと思った。

 江戸時代までは「掻きちしゃ=チマサンチュ」を「ぬた=酢味噌あえ」あるいは「おひたし」にして食べていた。
 明治以降から太平洋戦争が終わるまで、様々な西洋レタスが入ってくるが、高級洋食店でしか食べられていない。
 一般家庭では野菜を生で食べることはなかった。食べるとすればキャベツの千切りくらいだった。
 肥料に人の糞尿(人肥)を使っていたからである。

 大正・昭和の小説家である長与善郎が、戦後十年ちかく経ったときに、当時の農民の不満として「天秤棒でカツグ二桶の人肥は一と握りの金肥に及ばざるが如し」と述べている。
 「ただで手に入る人肥の方が、高額な化学肥料より優れている」
 小中学生の頃、「天秤棒で二桶の人肥」を担いで車に乗せさせられた記憶がある。
 歴史カテゴリーの「その十九 戦国 ―― 絶景かな絶景かな」で、よその畑のイチゴを盗んだ話を書いた。
 実は親にばれていてオカンから言われた。
 「あこ(あそこの畑の耕作者)はまだババまいたはるさかいに、あこのイチゴは食べたらあかんで!」
 そういえば、新聞紙の切れ端がイチゴに付いていた。
 当時は新聞紙がトイレットペーパーだった。
 戦後十年から二十年は、まだそういう時代だった。
  ・・・・・・
 生野菜をサラダにして食べることが広まるには、まず、化学肥料(化成肥料)が広まる必要があった。
 次に、生野菜にかけるドレッシングが必要になる。
 1958年、キユーピーが日本ではじめてフレンチドレッシング(赤)を製造・販売する。
 しかし、まだまだサラダは一般的にならない。
 決定打となったのは?

 1970年の大阪万博だった。
 ファミリーレストラン「すかいらーく」、ケンタッキーフライドチキン、ドムドムハンバーガーが開店する。
 翌1971年には、マクドナルド、モスバーガーが開店する。
 多くの人が初めて外国人を目の当たりに出来る時であったとともに、生野菜のおいしさを知った時だった。
 とはいえ、当時のドレッシングはマヨネーズかフレンチドレッシングだった。

 そして、「外食(産業)元年」といわれた1970年から十年経った1980年頃、やっと野菜サラダは一般家庭の食卓にならぶ。
 洋風・和風・中華風と豊富なドレッシングが販売され、サラダのメニューも広がっていった。
 してみれば、野菜サラダの歴史はたかだか40年余りなのだ。
 いまだにサラダバーにいくと、マヨネーズかフレンチドレッシングをかけるのは、そういうことあったんやと納得した。

※挿絵は竹久夢二(国立国会図書館デジタルコレクション) ※『家庭料理法』(明治39 同)

※1984年スカイラークのメニュー(メルカリより借用)

 


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