河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

水が運んだ俄

2022年09月03日 | 祭と河内にわか

 現在、大阪府内で俄という芸能が残っているのは南河内の一部の地域だけだ。

 南河内という限定された土地に、なぜ俄が残ったのか。そのヒントとなるのが物流だ。



 図は大阪南部の江戸時代にあった主たる街道である。

  河内長野市にはほとんど俄が残っていない。
 河内長野市は南北に通る四つの街道の合流地点で、陸路で大阪とつながっていた。
 対して、河内俄が残っている地域は、大和川の支流石川の水運によって大阪とつながっていた。

 江戸時代、喜志村には剣先舟の船着き場(喜志の浜)があった。喜志より上流は水流が強いため、喜志の浜から富田林、河南町、千早赤阪村へと物資が運搬されていた。喜志の浜から米・木綿・酒・油・材木・綿花などを積み出し、石川、大和川を経て大阪へと運び、帰りは大阪からの塩・肥料(干鰯)・荒物・大豆などを積み喜志の浜に下ろしていたのである。
 元禄5年(1692)頃に大和川を運行していた剣先船は300艘ほどで、石川を行き来する船は26艘で、古市村に8艘、喜志の浜には18艘有ったという。
 剣先舟の船着き場があったのは、石川に架かる河南橋の西詰めから北側(川下)で、そこには「みやでん」と呼ばれた大きな廻船問屋があり、向かい側には出水で船便が停まったときのための船宿が二軒あったという。また、東西の浜には石川を渡る人々を運ぶ「川面の渡し場」があり、竹ノ内峠を越えて来た旅人や大阪・堺から上り下りする人々で終日賑わっていたという。南河内の中でも外部者との接触が最も多かった場所である。

 人間の生活と水との関わりは深い。大陸の文化を大和の国に伝え、大和の文化を大阪に伝えたのは大和川だった。京の文化を大阪に伝えたのは淀川である。川が文化を伝えた。
 南河内に、あるいは大阪に俄を伝えたのもまた、大和川・石川の水運だった。
 大和川以北の中河内・北河内に俄が残っていないのは、宝永元年(1704)の大和川付け替えによるものだ。大阪俄の発祥は享保末(1735頃)で、その頃の中・北河内は新田開発が進み、剣先舟は運行していなかったからである。
 俄を伝えたのは川だった。


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