河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

歴史33 大正――人情大相撲①

2022年12月25日 | 歴史

昭和40年代(1965~)のジャイアンツ(巨人)は強かった。
長嶋・王のON砲に加えて川上監督が就任し、昭和40年から48年にかけて日本シリーズ9連覇(V9)を成し遂げた。
もう一つ(一人)強かったのが大鵬だ。
昭和36年11月場所で横綱に昇進してから昭和46年5月場所で引退するまで、優勝32回(6連覇2回)、45連勝などを記録した。
「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉が流行るほど、とにかく強かった。

その年も巨人・大鵬は強かった。
巨人は、二位の中日に13ゲーム差をつけて優勝。三位阪神とは25ゲーム差だった。日本シリーズでも4勝2敗で南海を下してV2優勝した。
大鵬は、初場所こそ柏戸に負けたものの、その後6連覇を果たしている。

その年の九州場所の千秋楽、14勝0敗の大鵬と10勝4敗の横綱柏戸との結びの一番をテレビで見ている時だった。
「ごめんやで?」と玄関で声がした。
一緒にテレビを視ていたオトンが、
「今、ええとこや! 上がって来て」と言った。
「じゃまするで」と言ってフスマを開けたのは春やんだった。
「おお、千秋楽か。大鵬の全勝優勝がなるかならんかやな!」
行司式守伊之助の軍配が上がる。はっけよーいのこったの声がして、両横綱ががっぷり四つに組んだ。
しかし、そのまま大鵬がぐいぐいと寄って、あっけなく柏戸を寄り切った。
「大鵬は強いなあ! しかし、春やんとこの兄さんもえらい強かったらしいな!」
「ああ、あいつかいな。大鵬とまではいかんでも明武谷(小結)くらいはいってたやろなあ」
「ええ、川面に相撲取りがいたんかいな!」と私が言うと、
「四股名を篠ヶ峰(しのがみね)というてな、わしの兄貴や!」
オカンが気をきかせて、コップ酒と里芋の炊いたのを持ってきた。
コップの酒を一口飲み、春やんが話し出した。

わしは七人兄弟の六番目や。篠ヶ峰はわしより四番上で次男あった。
兄貴は背の高い人で、15歳の時にすでに170㎝ほどあった。というて太ってるわけでもなく、さつき言うた明武谷のような筋肉質の体あった。
米俵の二つくらいは軽々と持ち上げるという力持ちで、喜志の宮さんの春秋の宮相撲では負けたことがなかったほどや。
当時(大正時代)は五人勝ち抜きの相撲で、17歳くらいの時は、強すぎるのをねたまりたり、うとまれたりするのがいやあったんか、四番勝ったあとの五番目はわざと負けてたということや、
あんな優しい人はいてなかったなあ・・・。

せやけど、体が大きいさかいに食べる量もはんぱなかった。朝の炊いた後の釜底から御焦げの握り飯を五、六個作り、食前にぺろりと平らげる。
その後、お膳に向かって何杯食うたかわからんほど食べ、食後に御焦げの握り飯をまた五、六個や!
そんなん続けていたら家の米が底ついてしまう。オトンもオカンも嘆いてた。
そこで兄貴は考えよった。
今は日本相撲協会というのが興行してるが、当時は東京・名古屋・京都・大阪(大坂)・広島なんかの大都市ごとに相撲の興行をしていたんや。
その大阪相撲を引退した力士が村に帰って頭取(親方)となって相撲部屋をつくってた。そんな相撲部屋がいくつか集まり組合を組織して、神社なんかで興行したり巡業したりしてたんや。
喜志村には「八卦の又」という親分さんがいたはって、大っきな屋敷の庭に土俵を造って勧進元(世話人)になり、大坂相撲を引退した大碇(おおいかり)というのを頭取にして興行をうったはった。
このままでは兄弟が食べる米も自分が食いつぶしてしまうと考えた兄貴は、八卦の又の親分さんの所へ相談にいったんや。まだ18歳の年の暮れあった。
優しい兄貴あったなあ・・・。

八卦の又の親分さんも、喜志宮の宮相撲での兄貴の強さを知ったはったんで、「月に5斗俵3俵付けたるから安心しとけ!」とすぐに部屋入りを了承しやはった。
大碇の親方も兄貴を見るなり「お前は5斗や10斗の器やないわい! 村相撲(素人相撲)ではもったいない」と、くらはった四股名が「篠ヶ峰」や。
ほれ、東にそびえる葛城山、あれを昔は篠ヶ峰と言うてた。それを四股名にくらはったんや。

②につづく

※挿絵は『桂川力蔵 : 少年講談』(国立国会図書館デジタルコレクションより)

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歴史32 大正――創立50周年③

2022年12月24日 | 歴史

日清戦争(明治27年1894)・日露戦争(明治37年1904)に勝利した後、明治天皇が崩御 1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日)。
大正時代になってすぐに第一次世界大戦が始まる。戦争は4年間にわたって続けられた。
ロシア、フランス、イギリスなど連合国と、ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟との戦争である。
日本は日英同盟を理由に8月、ドイツに宣戦布告し、ドイツの植民地だった中国の青島に攻めこみ大国の仲間入りを果たす。
主戦場から遠く離れた日本は、輸出が急増し空前の大戦景気(バブル)がおとずれる。

大正時代を一口で言えば「甘く辛く、楽しく苦しい」が混在した時代だ。
春やんがよく歌っていた『うめぼしのうた』である。

二月三月花ざかり、うぐいす鳴いた春の日の楽しい時も夢のうち。
五月六月実がなれば、枝からふるいおとされて、近所の町へ持ち出され、何升何合はかり売り。
もとよりすっぱいこのからだ、塩につかってからくなり、しそにそまって赤くなり、
七月八月あついころ、三日三晩の土用ぼし、思えばつらいことばかり、それも世のため、人のため。
しわはよっても若い気で、小さい君らのなかま入り、運動会にもついて行く。
ましていくさのその時は、なくてはならぬこのわたし
※『尋常小学読本 巻五(明治43年)』より(現代仮名遣いにあらためた)

春やんが子どもの頃の話をしてくれることはなかった。
大正時代の子どもの頃の話を、昭和時代の子どもの私にしたところで、私の未来を暗いものにするだけだったのだから・・・。
大正時代の雰囲気を伝える「大正ロマン」という言葉がある。その代表が竹久夢二。春やんがよく口ずさんでいた歌だ。

待てど暮らせど 来ぬひとを
 宵待草の やるせなさ
 今宵は月も 出ぬそうな
暮れて河原に 星一つ
 宵待草の 花の露
 更けては風も 泣くそうな
※明治45年(1912)『宵待草』作詞:竹久夢二、補作:西條八十、作曲:多 忠亮

大正ロマンにはどこか切なさ、めめしさがある。ある意味で、個人の心情を吐き出すことができた「大正デモクラシー」の時代でもあった。 

喜志尋常小学校創立50周年を祝い、酔った春やんの歌謡ショーである。

民権論者の涙の雨で 磨き上げたる大和魂(ぎも)
コクリミンプクゾウシンシテ ミンリョクキョウヨウセ
もしもならなきゃ ダイナマイトどん♪
(ダイナマイト節)
高利貸しでも金さえあれば コリャマタナントショ
多額議員でデカイ面 アイドンノー
サリトハツライネテナコトオッシャイマシタカネ♪
(ストライキ節)
箱根山 昔しゃ背で越す駕籠で越す
今じゃ夢の間 汽車で越す
煙でトンネルはマックロケノケ♪
(マックロケ節)

――日本の中心は喜志や!――
と春やんはよく言っていた。
すると、喜志小学校ウェブサイトの校長先生の日記に
――世界は喜志の中にある!!――
春やん、涙ちょちょぎれてるわ。
南にそびゆる 金剛の
峰の緑を 仰ぎては
高く望みを かかげつつ
朝な夕なに たゆみなく
共に学ばん  喜志校 我ら
(喜志小学校校歌1)

 創立150周年!

※写真「大正時代の心斎橋」(大阪市立図書館あーかいぶより)
※絵は竹久夢二(国立国会図書館デジタルコレクションより)
※版画は『清親畫帖(大阪本町大丸)』小林清親(国立国会図書館デジタルコレクションより)

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歴史32 大正――創立50周年②

2022年12月23日 | 歴史

春やんが酒に酔ったとき、たまに歌うことがあった。

♪国求(ま)ぎましし大国の
神をまつりて幾千歳
和邇の大池すめらぎの
恵みたたえし喜志の古郷(さと)♪
♪春北山に桜咲き
秋石川に菊かおる
茅原ひらけて稲の波
中にそびゆる喜志の学びや
♪忠と孝とは国の華
つとめ励まんもろともに
御祖(みおや)の勲(いさお)慕いつつ
いざ起(た)ちゆかな学び子我ら

爆弾の破片の入った目をしくしくさせて歌い終わると、破片の入った膝をさすりなから帰っていった。

喜志村にある喜志小学校の戦前の歴史である。
明治5年8月14日 富田林村内の興正寺別院・妙慶寺の本堂で、富田林村・毛人谷村・新堂村・ 中野村・喜志村・新家村の6ヶ村連合により『河内国第27区郷学校(富田林郷学校)』が開校 。
※通学不便のため、新堂村は光盛寺・圓光寺に、喜志村は明尊寺(桜井)に富田林郷学校教授出張所がつくられた。
明治6年(1873)2月25日、河内国第22番小学校として誕生した。
明治8年5月、校名が喜志小学校と改められた。
明治13年1月。堺県管内石川郡公立喜志小学校と改称
明治14年11月、石川郡第一学区公立喜志小学佼と改称。
※この頃お寺を校舎lこしていたが、明治15年4月、明尊寺の北東に仮校舎出来た。
明治20年4月1日、校名を喜志村立尋常小学校と改められた。
※当時は尋常小学校(4年)を卒業すると、富田林高等小学校(2年または4年)に入学した。
明治20年8月5日、現在位置(木戸山)に建坪87坪の新校舎が完成。
明治40年から、教育義務年限が6年となった。就学率は96%。
大正6年4月、高等科(2年)が併設され喜志尋常高等小学校ができた(校舎は美具久留御魂神社)。
※尋常小学校は義務教育だが、高等小学校は義務教育ではなく授業料を徴収していた。進学率は15%。

今年(2022年=令和4年)、富田林市立喜志小学校は創立150周年を迎えた。
1973年(昭和48年)が創立100周年。
1923年(大正12年)が創立50周年だった。
春やんが通っていた頃である。
この年、4月13日に大阪鉄道(河南鉄道を改称)の大阪天王寺駅が開業。
9月1日には関東大震災が発生した。
③につづく

※スケッチは川面出身の鶴島さんのものを借用。

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歴史32 大正――創立50周年①

2022年12月22日 | 歴史

――日本の歴史を考えるときは〈神仏習合〉〈神仏分離〉〈神社合祀〉というのを頭に入れとかんとあかん――
これもまた春やんがよく言っていた言葉である。
明治という時代は神と仏の大転換期だった。
古来の日本では、岩や海、大木、大岩など様々なところに宿る神(国津神・地祇)を信仰する自然崇拝があった。
それと、大和朝廷が編纂した「古事記・日本書紀」の日本神話に出てくる神々(天津神・天神)を信仰する神道があった。
そこに、中国から伝来した仏教が加わる。
この時、仏像を巡り崇仏派(蘇我氏)と排仏派(物部氏)との争いはあったものの、しだいに、神道と仏教を同一と見なすようになる〈神仏習合〉
お寺の中に神社があり、神社に仏像を置きお経をあげても不思議でない生活が1000年も続いていた。

ところが、明治政府は(神仏習合)を禁止し(明治3年)、神社と寺院を分離してそれぞれ独立させた〈神仏分離〉
神社に奉仕していた僧侶には還俗を命じる。
神道の神に仏具を供えることや御神体を仏像とすることも禁じた。
この政策から仏教を排撃し、神道を極度に重んじようとする過激な運動が起こった〈廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく)〉。
市民や神官などが仏教にまつわる様々なものを破壊。転売されて貴重な文化財が海外に流れた。
お寺の半数が日本から消えた(後に復活したものもある)。
古くから惣村(そうそん=自治的共同体)を成していた喜志村では大きな騒動はなかったようだ。

神仏分離令の目的は、天皇を頂点とした中央集権化をはかるために、日本の宗教を一つにまとめる〈皇室神道=国家神道〉ことで、国家を精神的に一つにまとめる政府をつくることだった〈祭政一致〉。
そのために、徳川幕府の時代に人々を管理をする役所のような働きをしていた寺院の支配権を奪ったのである。
寺請制度(檀家制度)を廃止し、国民に対して在郷の神社(郷社)の氏子となることを義務付ける宗教政策である。
それによって神社中心の地域社会作りが推し進められていく。
一方では、仏教色が強く非科学的な修験道を禁止。天文や暦を担っていた陰陽道も禁止。
仏教的行事の「五山の送り火」や地域の地蔵盆、盆踊りなども軒並み禁止された(後に実施)。日本史上最大の悪政だった。
このとき、美具久留御魂神社の祭りが、旧暦の9月(今の8月のお盆の祭りでであったのが)であったのが、皇室祭祀の神嘗祭(かんなめさい)に合わせた10月17日になった。あるいは、大正3年の「神社祭祀令」だったのかもしれない。

1906年(明治39年)に神社合祀の勅令が出された。複数の神社の祭神を一つの神社に合祀させ神社の数を減らすというものだ。
良く言えば、一つの村に神社を一つ〈一村一社〉にすることで行政を簡易化するのがねらいだった。全国に約20万社あった神社の約3分の1が取り壊された。
悪く言えば、慣れ親しんだ神社が村からなくなり、遠く離れたところに合祀されると参拝しにくいという反対があった。
幸い、喜志村近辺では比較的スムーズに行われたようである。
美具久留御魂神社に摂末社のうち、次の社が合祀されている。
熊野貴平神社=元は喜志村平にあったものを明治6年に移転し、同36年に社殿を改造。
○郡天神社=西浦村大字東阪田(現 羽曳野市東阪田)の村社だった郡天神社を明治42年に合祀。その元は古市郡(羽曳野市古市)の郡天神様。
○利雁神社=西浦村大字尺度(現 羽曳野市尺度)の式内利雁神社を明治42年に合祀。
○愛宕神社=元は利雁神社の末社。本社とともに合祀。
○大伴神社=大伴村大字山中田(現 富田林市山中田)の大伴神社を明治42年に合祀。
○その他に神明神(喜志村川面より)・金比羅明神(新堂村より)・恵比須神(富田林より)・三十八社(毛人谷より)・稲荷神(木戸山)。

国家神道を国の宗教とする動きは、仏教僧達の力もあって仏教の権威は再興したことで失敗に終わる。
しかし、政府は「天皇を崇敬する神道は日本人の習俗であって宗教ではない」と、神道を日本人の道徳にしてしまう。
明治憲法発布の翌年(1890年)に、道徳の根本、教育の基本理念を教え諭すという目的で「教育勅語」が出される。
学校教育の中に「修身」という道徳、「国史」という天皇家中心の歴史が登場する。
そして、すべての日本国民は、神社や学校での国家儀礼に参加することが強制された。
②に続く

※挿絵は「開花之入口 二編』(国立国会図書館デジタルコレクション)
※写真は「明治末の天王寺公園」(大阪市立図書館アーカイブ)
※神社配置図は美具久留御魂神社パンフレットより

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ちょっといっぷく40 幻の駅

2022年12月21日 | よもやま話

明治31年3月、柏原~古市間が河陽鉄道によって開業。 
翌年5月河南鉄道が事業を継承し古市から富田林、河内長野へと線路を延ばした。
その河陽鉄道設立に際しての「河陽鉄道株式会社目論見書(明治26年)」なるものが国立公文書館に残っている。
その中にある計画当初の路線図である。点線が鉄道。

よく見ると現在のルートとは違う。
東高野街道(一部は旧国道170号線)の東側を通っている。
あるいは石川の堤防沿いに通す計画だったのかもしれない。

だとすれば、川面の浜あたりに駅があったことになる。
太子町や河南町、広瀬(羽曳野市)の人々の便もいいではないか。
だのに・・・オジャン!
そらそやなあ・・・洪水の時は危ないで!

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