http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/singapore/singa2/ameyuki.htm より転載しました
あめゆきさんの歌
山田わかの数奇なる生涯
山崎朋子の「サンダカン八番娼館」に続くアメリカに渡った日本人女性娼婦に関する著書
山崎朋子は1975年10月にアメリカに行き、在留邦人向けの講演会の講師をつとめた。
ホテルの近くの日本料理店でのレセプションで、近くに座ったある老人から
戦前に女流評論家として活躍した山田わかのことを知っているかと尋ねられた。
女性史研究者を自認する山崎は、とうぜん山田わかのことは知っていて
山田わかは社会学者山田嘉吉の妻であり、山田わかの著書を4,5冊もっていると答えると
その老人は、山田わかがサンフランシスコで白人専門に客をとっていた売春婦で
アラビヤお八重という名であったということを教えてくれた。
驚いた山崎は、山田わかのことを調べて本に書きたいと思い、後日その老人に会いに行く。
この老人は北米毎日新聞社長の清水巌であった。
彼は山崎が「サンダカン八番娼館」を書いたので、山田わかについて関心をもち
きっと山田わかの伝記のような本を書くだろうと思ったのだった。
清水巌は、山田わかを知っている人として、
娼館が軒をつらねたチャイナタウンでホテルを経営していた90歳の北野基次と
94~95歳の日本料理レストランを経営していた泉イエを紹介してくれる。
アメリカ講演を終えていったん帰国した山崎は、ふたたびアメリカに来たのは
その年の12月だった。
サンフランシスコ空港には、清水から紹介された川瀬泰一という初老の男が迎えに来ていた。
そして、その日の朝に北野基次が急死したことを告げられる。
がっかりした山崎はともかく泉イエに会うが、結局泉イエは山田わかの具体的なことは
何一つ知らないということがわかる。
山崎朋子が10月の講演を終えて12月に再び渡米するまでの間に日本において
とりあえず山田わかについて調べる。山田の生まれ故郷の久里浜にも行ってみる。
また彼女は市川房枝から、山田わかのことを聞く。
山田わかは過去のことはどこにも書いていないが、一度だけ
岡崎の宿で一緒に泊まった平塚らいてう(らいちょう)に少し話をしたことがあり
平塚らいてうから市川房枝が聞いたので、その話を山崎は市川房枝から聞く。
さて、サンフランシスコで、山崎朋子は
せっかく教えてもらった北野基次は急逝して会えず
もう一人の泉イエに会うが、泉イエから山田わかの具体的なことは何一つ聞くことはできなかった。
がっかりした山崎朋子は清水に報告すると
清水は日本人の読みそうな新聞数紙に山田わかのことを知りたいと新聞広告を出す。
広告を見た日本人からホテルに泊まっている山崎のもとに何件かの電話があり
とうとう、山田わかの過去のことがわかる。
「サンダカン八番娼館」では、天草でからゆきさんのことを地元の人に聞いても
誰も口をつぐんで教えてくれなかったが、小さな港町の食堂で運良く北川サキに会い
サキの家について行って、やっと念願の話を聞くことができたのだった。
それにくらべると
山田わかも彼女を知っている人もほとんど生きていないかったのだが
彼女のことをまとめた新聞記事があって、それを保管してあるカリフルニアの大学に行って
コピーをとってからは、比較的容易に伝記を書くことができた。
さすが作家なので
苦労の末やっと手がかりをつかめたという経過を書いて
読者の興味をつなぐように上手に書いている。
むかしサンフランシスコで出ていた「アメリカ新聞」の発行者は岡繁樹で
彼が山田わかの一代記「アラビアお八重出世物語」を書いて載せた。
「アメリカ新聞」のバックナンバーはカリフォルニア大学の図書館に保管されてあった。
以下に、「アメリカ新聞」の「アラビアお八重出世物語」のコピーをもとに
山崎朋子がまとめたもののなかから手短に紹介する。
山田わかは横浜でだまされて、アメリカの娼館に売られ シアトルのアロハハウス娼館から、新聞記者立井信三郎の決死的協力で足抜けをする。 立井と山田はポートランド経由でコロンビア川を河口のアストリアまで下り 追っ手の及ぶであろう陸路をさけ、太平洋を南下してサンフランシスコに到達した。 そこで二人は別れることになる。 彼はサンフランシスコの宿屋の世話で、わかをサンフランシスコの娼館に売った。 しばらく稼いでから、資金を貯めて結婚しようというのが彼の考えであったのだろうか。 それはともかく、わかは突然姿を消す。 わかはどこで知ったのか、サンフランシスコの厚生施設キャメロン・ハウスに逃げ込んだ。 わかはキャメロン・ハウスから時々、牧師坂部多三郎の手芸教室に通っていた。 キャメロンハウスに探しに来た立井は彼女に会えず、牧師坂部の所にやっと行ったが会わしてくれず 絶望して毒薬を飲み自殺する。 立井の死後、わかはキャメロン・ハウスのキャメロン女史の指導を受け キャメロン女史の手伝いをしたり通訳をするようになった。 そのうち学力をつけるため山田英学塾に通うようになり、私塾経営者の山田嘉吉と知り合い結婚したわけである。 山田嘉吉は小学校しか出ていなかったわかの素質を認め、熱心に教育し彼女の天分を引きだしたのであった。 山田嘉吉はわかの教師であり、父親であり、夫であったと言えよう。 山田嘉吉は、わかに決して過去の話を誰にもしてはいけないと厳命した。 だから、わかは娼婦だった過去のことは何にも書いていない。 わずかに名古屋に講演に行ったあと紡績工場で女工の働く姿を見てから 岡崎の安宿で、一緒に泊まった平塚らいてうに少しだけ話したことがある。 その話が市川房枝を通じて、山崎朋子に伝わったのである。
「アメリカ新聞」の「アラビアお八重出世物語」の最終にあたる第五回目の記事の末尾に 1938.3.20 岡繁樹記と署名があり、後書めいた短文が載っている。 筆者は、此稿を終るに臨んで、山田わか女史に一言のお詫びの挨拶を書かねばならぬ。 現在のあなたの名声と地位に対して、前身を洗ふが如き事は誠に申訳がない。 あなたの事に関して兎に角と考へて居る人達が多いが、それを知る由もないのであった。 もしあなたの死後に間違ふた話が伝へられる事は尚更遺憾ではないか。 筆者は決してあなたに悪意を持ち、あなたを傷つける為めに此一文を書いたのではない。 筆者は、一度行く道を過った人でも本人の考へ方一つで、勇気と決心さえ起せば、 あなたの様にエライ人になれると云う事を教へる為めにおなたを手本としたのである。 同時現在暗黒街に身を落としてゐる人達の為めに反省の機会を与へたい為めである。 此あなたの記事について或は誤聞があるかもしれん、又あなたとしても此記事によって 忘れてゐた昔を偲ばれる事もありはせぬかと思ふ。 もしあなたの為めに訂正の要もあれば、申込んで貰ひたい。 どうぞ、大海の様なあなたの心でこの妄言を許して下さい。
決して過去を語るなと戒めた夫嘉吉は昭和9年に亡くなった。
彼女は主婦の友社の企画で、昭和12年10月から12月まで渡米して
日米親善のため講演をしたり、大統領夫人をはじめとして米国婦人団体の代表者らと会見・懇談をしている。
特に米国の最後の講演をシアトルで行った。
おそらく夫が生きていたら実現しなかったアメリカ講演であったろうが
彼女は平塚らいてうに語ったように、自分は過去のことにはこだわっていなかったようだった。
シアトルでの講演はやじがあったが、彼女の真面目な講演はやがて聴衆に深い感銘を与え、そのときの感激をある老婦人から山崎朋子は聞いたのだった。
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♫ 「天皇のまんざい」は蓄財だけではありませんでした。このようにうら若い日本女子を海外へ売りとばしていたのです。
これが天皇の正体です。
笑顔の正体は、隠しているからだったのです。
ロス茶の血筋の可能性のある、今上天皇なら直の事、この忌まわしい歴史がわかって
くるはずです。日本人は騙されています。明治維新はテロでした。滑稽なことに時代を作ったと、もちあげているのです。明治明治と、バカバカしいですね。
多くの歴史本がありますが、よいしょ本が多い事はなぜなのか、これでわかりますね。
嘘がまかり通る、そういう政治を今もしているのも、同じ田布施Sです。
あめゆきさんのひとりであった、山田わかは、成長著しく悲惨さから抜け出たひとでしたが、多くの人はどうだったのでしょう?
娼婦として立ちいかなくなる年齢まで、働き日本に帰ることもなく、異国の地でみな過去をかくして、生きざるを得なかったはずです。少しでも幸せな人生があったでしょうか?
天皇の蓄財の為に。このようにして女性が売られてきたのは、事実なのです。従軍慰安婦も同じことです。
私達は、歴史の恥部ともいうべきこのことを、決して忘れてはいけないと、思います。
戦争をしたがっているのは、確かに偽物政府のようにしか見えません。しかも笑顔でテレビに映る姿しか私達は知ることがありません。
だからといって、このような真実がなかったこととして、葬りさられていいのでしょうか?
真実を表に出して国民は知るべきです。そして自分の心で感じて、考えるべきです。
日本と言う国の形を、知るべきです。国民の権利です。
追記=========
フラッシュバックが起こり、私は過去の思い出を思い出しました。それはとてもショッキングな内容でした。
私が中学生の時に、2度目の母の実家に家族で行った時の事でした。二度目の母の妹の一人であるおばさんと一緒に、近くの河原に出かけました。その時おばさんから聞かされた話です。
「〇ちゃんは、人形の洋服を作ったりしているんだって?服を作りたいと思っているの?」
「洋服を作れるようになりたいと、思っているよ。」
「じゃあ、もしも大きくなって、洋裁をするようになって、外国で洋裁の勉強ができるなら、行きたいと思うの?」
「うーん、まだそこまでは考えたことはないけれども、もしできるなら、そうしたいとも思うよ。」
「実はね、〇ちゃん、おばさんの洋裁教室で一緒だった、知り合いのお姉さんのことだけど、そのお姉さんが、天皇の船でアメリカに洋裁の勉強できるメイドの仕事があるからと、船に乗っていったのよね。行く前におばさんも行きたがっていたので、後で手紙を書くから、それから考えてはどう?と言われてね。それでそのお姉さんは、船でアメリカに行ったんだけど、実はその話、メイドや洋裁の話は嘘で、お姉さんは売られたのよ。売られたって、わかる?女郎屋に売られたの。まだ結婚もしていない生娘だったのよ。そのお姉さんからおばさんに手紙がきて、そう書いてあったの。だからおばさんにも船でアメリカに来てはだめだよ。来ないでと書いてあったの。それにお姉さんは自分の家族には絶対に内緒にしておいて、と書いてあったのよ。わかる?この話?」
「おばさんの話は、わかったよ。悲しい話だよね。」
「そうだよ。だからこのお姉さんのように、〇ちゃんもなってはいけないからね。天皇を信じてはダメ!わかった?」
「わかったよ。」
という話を私はおばさんから、直接聞いたのです。この話はそれ以後おばさんからも、2度目の母の家族からも何も聞いていませんが、これは子供心にとてもショックでした。それで私はおばさんの話てくれたお姉さんの事も考えて、誰にもこの話はしていませんでした。
遠く過ぎ去って、「あめゆきさん」 の事を記事で見たときに、フラッシュバックが起こったのです。フラッシュが沢山見えるなか、画像のページが激しく捲れていき、そのおばさんとの会話した土手に、私とおばさん二人が話している場面にストンと画像が出たのです。これがフラッシュバックなのです。
この話は、私の思い出の中では、とてもショッキングな内容でした。ですから心の中にしまい込んで、誰にも話すことはありませんでした。こうしてそれが今蘇った次第です。
真実を私は知っていましたから、ここに記しておきたいと思います。
多くのお姉さんたちがアメリカに騙されて渡り売られたのです。その人達は普通の女性たちです。夢見てアメリカで働こうとしていた若き女性たちです。その人達の事を少しでもわかってあげたいです。その人達は確かにいたのですから。その後調べて見たら、何万人もの被害者の女性がいたのです。この人達のことをいなかったかのようにしていいのでしょうか?
日本人女性はこういったことは、被害を受けても「家族に迷惑となる」などと思い黙って耐え忍んで生きていたのでしょう。そういう国民性を実は天皇たちはしっていたのでしょう。声を上げる国民性をもたない日本人女性たちを、私は忘れないです。