アイリス あいりす 

社会問題 日々雑感 家庭料理 健康管理

米財務省 今度はプーチンの汚職避難を始めた<3455>

2016-01-26 23:48:25 | 社会問題 日々雑感

2016年01月26日 22:15 スプートニク日本より転載しました

米財務省が証拠もなくプーチン大統領を名指しで非難したことは同省事態に影を投げかけ、証拠を要求するもの。ロシア大統領府のペスコフ報道官はこうした声明を表した。

 

「私が言っているのは米財務省報道官のコメントだ。こうなると状況はもう別で、これは公式的な非難となる。これは第1に、誰が指揮者の棒を握っているかを明確に物語っている。第2に証拠を必要とする。なぜなら米財務省のような、こうした省庁機関からのこんな非難が具体的証拠もないまま出されたということは、この省自体に影を投げかけている。」

これより前、外国のマスコミはBBCテレビの番組「パノラマ」に、対露制裁問題を担当する米財務省のアダム・シュビン報道官がロシア大統領を「汚職の権化」と非難する映像が流れたと報じた。シュビン報道官は、プーチン大統領の汚職の事実は米国政権には前から知られているとまで語っている。



続きを読む http://jp.sputniknews.com/russia/20160126/1496550.html#ixzz3yMT3Zv4n

~~~~~~~~~~~

♫ 最後のあがきがこれでしょうか?まだまだ出る可能性もありますね。

追いつめられて吠えている犬のようです。アメリカの背後には、以前いたネガティブの程度の低いエイリアンたちがいたようですが、それらはポジティブ宇宙人によって、排除されてしまいました。

その結果彼らはお金だけが頼りなのです。今の石油市場は真っ暗闇の状態です。

株価も下がっていますが、これは下げ止まるかどうかもわからないようです。行くところまでいくかもしれません。

そのことで、発狂しそうなくらいに追いつめられているのです。

彼らが暴発しないことを祈ります。それについては、宇宙人の介入がされるはずです。

 

地球人類の奴隷解放はもうすぐ!!!!


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ラブロフ外相 ケリー国務長官ヌーランド次官補と会談の場で<3454>

2016-01-26 23:39:16 | 社会問題 日々雑感

Lavrov Snubs Blood-Soaked Neocon Witch Nuland Before Meeting with Kerry in Zurich

♫ 今月の会談の場での、ラブロフ外務大臣の素晴らしい対応をみました?

ウクライナを直接あのように画策した要注意人物です。偽ユダ屋です。

当たり前ですよね。ヌーランドはこの後、「戦争が始まった」などと、不可解なことを言いだしたようです。

 

 

 


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グルメはロシアを目指す<3453>

2016-01-26 23:22:10 | 社会問題 日々雑感

2016年01月26日 12:53 スプートニクより転載しました

ロシアでは欧米、トルコからの輸入制限を行なったために国内産の食料品のレンジが拡大。ロシア料理が再び独自の魅力を回復したおかげでモスクワは欧州で最もグルメな街になってしまった。ニューズウィーク誌のこの報道をロシアのイノTVが伝えた。

ニューズウィーク誌の指摘する対露制裁の思わぬ効果、モスクワは今やグルメの中心に 

ニューズウィーク誌は、イタリアのパルメザンチーズ、スペインの生ハム、ギリシャのオリーブはモスクワのスーパーマーケットから姿を消したが、そのかわりに「母なるロシアの大地にある農場、草原、森が育てた食料品」が取って代わっている、と報じている。

ニューズウィーク誌の記者は、クレムリンの発動した制裁の呼んだ「思いがけない」効果のひとつにロシア料理の「驚くべき、奇跡的なルネッサンス」を挙げている。

 

「ヒップスターたちにインスピレーションを得た手工芸的な革命が起こったおかげでモスクワは欧州で一番おもしろいクイジーンが楽しめる首都になってしまった。」

地元で取れた生産物しか口に入れないという厳格な食事制限をしく地産地消(ちさんちしょう)の動きは世界中で高まっている。その一方で地産地消を実行することは、実際は大半の国では容易い選択ではない。ところがロシアの場合、これは普通に実現できることなのだ。

「自分の住んでいる土地が自分を食べさせてくれる。これは実にシンプルで美しいアイデアです。モスクワでの仕事はスリリングな体験でした。コックたちは全てをゼロから発想する意欲に燃えています。」先日までモスクワのレストランにシェフとして招かれていた仏の料理家のジェロム・ロメルさんはニューズウィーク誌に対してこう語っている。

ロメルさんは「肉とじゃがいも」ばかりを食べてきた街でベジタリアン・グルメを確立した。こうしたメニューはロシア固有のものではないものの、食材はロシアのあらゆる土地から集められたものばかり。

「私たちはロシア中をくまなく探し、食材を集めています。ロシアの様々な地域を讃え、それぞれから食材をモスクワへと運び、この国にどんなものがあるのかをみんなに知ってもらう手助けをしているのです。」ロシアの農場コーポレーションで、シベリアのトナカイの肉や有名なロシア版ギョウザ「ペリメニ」など、国産のおいしい食材だけを扱っている店、「ラーフカラーフカ」の代表はこのように語っている。



続きを読む http://jp.sputniknews.com/culture/20160126/1488456.html#ixzz3yLJ3E6t6


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♫ 生クリームの乗ったパンケーキに


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100年前のUボート残骸みつかる 英南東沖 <3452>

2016-01-26 18:45:29 | 歴史

♫ 100年も前にすでに潜水艦が作られていたのは知りませんでした。第一次世界大戦時ですから。それよりも以前から、作られていたのでしょうね。

もう戦争は沢山です。海底探検ができる潜水艦だけで充分ですね。

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http://www.cnn.co.jp/fringe/35076675.html より転載しました

英南東沖の潜水艦の残骸、100年前の「Uボート」と判明

2016.01.23 Sat posted at 12:04 JST

(CNN) 英国沖の海底で発見された軍用の艦船の残骸について、100年前のドイツ軍の潜水艦「Uボート」であることがこのほど明らかになった。オランダ海軍のダイバーが調査に当たった。

この潜水艦の残骸は2012年9月、英エネルギー企業のスコティッシュパワー・リニューアブルズが南東部ノーフォーク州とサーフォーク州の沖合で洋上風力発電施設の建設に向けた海底調査を実施している際に見つかった。現場海域は沖合約90キロの地点で、濁った水質の影響で調査が難航し、発見から4年近くが過ぎてようやく艦船の特定が可能になった。

当初は1940年に行方不明となったオランダ海軍の潜水艦である可能性があるとみられていたが、同軍が調査したところ、第1次世界大戦中のドイツ軍のUボートだと判明した。

潜水艦の名称は「U-31」。大きさは全長約57.6メートルで、幅は約4メートル、高さは約4.6メートルある。スコティッシュパワーによると、艦の前部と後部にそれぞれ損傷があり、元々はもう少し長かった可能性がある。損傷を受けた箇所以外はかなり原形をとどめているという。

英イングランドの海事考古学者、マーク・ダンクリー氏はU-31について、イングランド沖を航行中に機雷の爆発を受け、将校4人を含む乗組員35人全員を乗せたまま撃沈したと考えられていると説明した。

 


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琴奨菊が初優勝!日本人力士10年ぶり(平成28年1月24日)<3451>

2016-01-26 18:27:08 | 動画

【高画質映像】琴奨菊が初優勝!豪栄道下し1敗死守 和製力士10年ぶり賜杯(平成28年1月24日)

♫ 会場の熱気が伝わってきますね。おめでとうございます、琴奨菊関。

テレビで体を鍛えているところを、見ました。あれだけやったのですから。素晴らしいです。

年齢も31歳ですが、まだまだいけそうです。

お父さんが泣いて手にしていたのは、相撲取りになることを、勧めたお爺さんの写真だそうで、相撲を教えてくれたのも、御爺さんだそうです。褒められたことはなかったと言っていました。

皆、人生には、色々なことがありますが、こうして今年の初場所は琴奨菊の優勝で、幸先がまた楽しみですね。

琴奨菊「土俵の上は孤独です」、そうですよね。誰も助ける人はいないのですから。

そうやって、勝ち取った優勝は本当に素晴らしい物でしょう。可愛い奥さんをご両親と同じように、大切にしてくださいね。

あなたの宝は家族だと思います。

優勝 おめでとう 琴奨菊関!!!!!


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誰もあんたの言う事なんて信じないって<3450>

2016-01-26 17:55:20 | 社会問題 日々雑感

2016年01月26日 15:20 スプートニクより転載しました

今日読売新聞に発表されたインタビュー記事の中で、森元首相は「安倍首相は、ロシアと西側諸国の間の対話を構築する上で、仲介者の役割を果たす事ができるだろう」との見方を示した。

森氏によれば「安倍首相は、5月のG7サミット前に参加各国を歴訪するだろうが、ロシアのどこか地方都市も訪れる可能性がある」との事だ。

 

森元首相は、次のように述べた―

「安倍首相は、サミット参加諸国を歴訪するが、サンクトペテルブルグも訪問するかもしれない。もし彼が、先進7か国とロシアの間をつなぐという気持ちを持って、サンクトに立ち寄るなら、それは良い事だ。

安倍首相には、仲介役を果たすという良いチャンスがある。ロシアと西側は、中東や『IS(ダーイシュ,イスラム国)』との戦いといった問題において、協力すべきだ。

また領土問題をめぐる交渉を前進させるためには、安倍首相とプーチン大統領の間に、より一層良い関係を築く必要がある。」



続きを読む http://jp.sputniknews.com/japan/20160126/1492924.html#ixzz3yL0sM9cg


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♫ 自分の言及がボンボンアベバカチンを補佐出来ると思っているようですから、笑い話です。

読売はさすがにゴミ売りと言われるだけのようですね。

東京オリンピックでも、懲りていませんし反省など、とんでもないです。これはボンボンアベバカチンと同じです。

西側との仲介役としてって。希望をいっているだけで、出来ることを言っているわけではないのでしょう。まるわかりです、ロシアも笑っているでしょうね。

持ち上げてもらうにも、人選が大切ですけど。そういうお友達もいないのです。(お金がらみの付き合いはあっても、本当の友人はいないのではないでしょうか?)

世界のG20でも、日本のボンボンアベバカチンは、人気ないですよ。会談の申し込みがほとんどないようですよ。以前はイランだけでしたね。(信用ないからです、誰も期待していません)

日本人として、ニホン政府が恥ずかしいです。このような人を選んではダメですね。




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ソマリア沖の海賊出現で自衛隊が始めて司令官に<3449>

2016-01-26 14:09:07 | 社会問題 日々雑感

https://ja.wikipedia.org/wiki/ソマリア沖海賊の対策部隊派遣 より転載しました

♫ すしざんまい社長の事から、過去のソマリアの海賊について調べてみたら、なんだか、策略の臭いがしますね。アルジェリアの人質事件の時もそうでしたが、海外のこのようなことが偶然起きるとも、思えないです。

自衛隊の海外派遣はこうして、策略に乗っ取ってされているのです。ばればれ。日本のメディアがすしざんまい社長の事をあまり取り上げてこなかったことも、これでわかりますね。

そして、偶然かどうかわかりませんが、ジブチ訪問していたアベ。なんでかなあ?

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概要[編集]

2007年ごろからソマリア沖やアデン湾にて海賊行為が頻発していた。

2008年9月25日にウクライナの貨物船「ファイナ」号が襲撃された。この船には戦車を含む武器が多数積載されており、荷物の行き先がダルフール紛争の続くスーダンであったため、単なる海賊事件ではなく安全保障上の事態として重大視したアメリカ合衆国EUロシアはこのファイナ号事件を境に対策を強化する[2]

この流れを受けて日本政府海上自衛隊のソマリア沖への派遣を検討し始め、2009年3月13日、ソマリア沖・アデン湾における海賊行為対処のための海上警備行動を発令した[3]。翌3月14日、海上自衛隊の護衛艦2隻をソマリアに向けて出航させている。

2009年6月19日に海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律(海賊対処法)が成立したことから、新法施行の7月24日以降派遣部隊は護衛活動の根拠法を自衛隊法等に定められた海上警備行動から海賊対処法に切り替えて当該海域で警備行動を行っている。

ソマリア沖の海賊に対処する多国籍部隊としては第151合同任務部隊(CTF151)が編制されており、2013年12月以降は、自衛隊は派遣水上部隊のうち護衛艦1隻をCTF-151に編入させ、2014年2月以降は派遣航空隊もCTF-151に編入させて警備を行っている[4]。また、2015年5月31日には[4]、第7次派遣海賊対処行動水上部隊指揮官を務めた海上自衛隊の伊藤弘海将補がCTF-151司令官に着任した。自衛官が訓練でない実際の多国籍部隊の司令官に着任するのは初となった[5]


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すしざんまい社長が海賊に直談判していた武勇伝は本当です<3448>

2016-01-26 12:58:57 | 社会問題 日々雑感

♫ あのすしざんまい社長の武勇伝のソマリアの海賊に漁業を教え、船も出資していたおかげで、海賊は漁業をするようになり、ソマリア沖の海賊の被害がここ何年もゼロでした。

社長は多分在日ではないのでしょう、ずいぶんと叩かれているのです。

このような考えを思いつき行動できるのは、日本人の心を持つからです。、

武勇伝は嘘だと称するノンフィクション作家もいますし、新築地の移転問題では、社長は無念にも断念せざるを得ないほど、東京都は何かしたのではないでしょうか?

知事は在日です。

このように素晴らしい日本人がいたのです。この人の心は、在日にはわかりません。

日本人なら彼の心がすごくすっきりと、身体に染みるのです。そして「ああ、良かった、いいことしてくれて、良かった」と胸のすく思いがするのです。

でも在日は、彼を叩きまくるのです。

このような人を、国民は守るべし!!本当のヒーローここにありです!!!

行ける人は、寿司はすしざんまいへどうぞ!!!

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http://hbol.jp/77362より転載しました。

すしざんまい社長・木村清氏の心意気「ニッポンのマグロは私たちが守る!!」

  

’01年に第1号店を東京・築地場外市場に「すしざんまい 本店」をオープン。現在では北海道から九州まで、51店舗を展開。その多くが年中無休24時間営業で、本格的な寿司を手ごろな価格で楽しむことができるという、それまでの寿司屋の常識を覆したのが、株式会社喜代村の木村清社長だ。

木村清社長 日本の正月の新た風物詩ともなった、「すしざんまいの社長」による、築地初セリでの、クロマグロの競り落し合戦。14年には1億5540万円での落札となり、単なる「話題」を超え、喧々囂々の議論の種にさえなった。名物社長の、マグロと商売にかける思いとは。

35坪で年間10億を売り上げる驚異的な寿司屋


――市場といえば「朝」のイメージですが、今の築地場外市場は、平日の昼過ぎや週末でも人通りが絶えませんね。特に最近では外国人観光客の人数もぐんと増えた印象を受けます。

木村:そう。ものすごい人でしょ。でもほんの10数年前は、業務筋の買い出しが終わる昼前にはもう人通りが絶えていました。まるでシャッター通りです。見かねた私の知人が、場外市場に人を集めてほしい、ちょうど空き店舗があるから何かやってもらえないかという話を持ち込んできました。それが「すしざんまい」のきっかけだったんです。「あんなところで今さら寿司屋をやっても」という人もいましたが、私には勝算がありました。実際、35坪、40数席の店で、年間売り上げは10億円、1日の客回転率が23.5という、驚異的な店ができたわけです。うちの店を目当てに人が集まるようになり、市場らしい賑わいも戻ってきました。気がつけば「築地で買い物をして寿司を食べる」というのが東京観光の定番コースになっていたというわけです。

――勝算とは?

木村:築地といえばやっぱり、新鮮な魚でしょ。場外市場にはいろんなものを売っていますが、一般の人が期待するのはやっぱり魚だし、寿司なんです。ところが、いざ足を運んでも、昼近くになればほとんどの店は閉まっていて、「なんだ、築地に行けばうまそうなものがあるかと思ったが、何もない」と思われてしまう。これじゃあ廃れても当然ですよね。だから私は、年中無休24時間営業で寿司屋をやろうと思ったんです。いつ行っても、うまい寿司が手ごろな価格で食べられる。しかもそれが築地にあるとなれば、絶対にお客が集まってくるはずだと考えたわけです。築地の場外にどういう店があったらお客が喜んでくれるかを考えて「すしざんまい」をつくったのです。

築地市場の初競り

北海道から九州まで51店舗を展開する「すしざんまい」。築地市場の初競りで報じられる木村社長の姿はお正月の風物詩。



次ページ木村清社長「日本のマグロ漁と中国のマグロ漁は違う!」

日本のマグロ漁と中国のマグロ漁は違う!


――最近、中国のマグロの漁獲量が増えています。「日本の食文化を守る」とおっしゃっている木村社長としては、「すしざんまい」を訪れた中国人がマグロの美味しさを知って、中国でのマグロ人気がさらに高まってしまうと、忸怩たる思いもあるのでは?

木村:その認識が間違っているんです。中国人がいくらマグロを好きになるといっても、毎日寿司を食べるわけじゃないでしょ。刺身としてマグロを食べる量なんて、たかが知れているんです。どんどん食べてもらえばいいじゃないですか。問題なのは、生食用のマグロじゃないんです。ツナ缶用のマグロなんです。彼らが獲っているマグロの9割はツナ缶用にまわされています。しかもそのマグロは、「幼魚」と言ってもいい、まだ小さいサイズのマグロ。ツナ缶で油漬けにしてしまうなら、マグロの大きさなんか関係ないですからね。だから、小さいマグロまでどんどん獲ってしまうんですよ。あと3年泳がせておけば10倍の大きさに育つのに、それを待たずにどんどん獲ってしまう。そういうところをちゃんと見ないで、マグロ資源の保護だとか、漁獲量の制限なんてことをやっていると、おかしなことになるんじゃないですか。

――確かにクロマグロは一時減少しましたが、ICCAT(大西洋まぐろ類保存国際委員会)の漁獲規制などで資源量が回復し、今では漁獲規制が緩和されていますね。

木村:そう。でも、だからといってまだ小さいマグロまで獲っていいのでしょうか。私たちは、クロマグロの備蓄システムを開発・確立し、15年掛けて、現在、北大西洋では一日で一年分の二万数千トン獲れるようにしました。漁獲規制で「とにかくクロマグロを獲るな」というだけでは、何の解決にもならないと思います。

――まるで木村社長が日本の水産行政を担っているようです。

国別マグロ類の漁獲量

国別マグロ類の漁獲量

木村:好きでやっているんじゃないですよ。水産資源のことをもっと皆が時間をかけてちゃんと勉強し、とことん議論を尽してないから、一部の狂信的な自然保護団体の理不尽なクレームに右往左往してしまうのではないでしょうか。彼らの言っていることが、本当の自然保護につながっているのでしょうか? 私はちゃんと調べて、筋の通ったことを言っているつもりです。だから私が言っていることも、彼らは納得してくれています。

 インタビュー中の木村社長の話し方は、ひと言ひと言が力強く、圧倒的な説得力を持ち、熱い思いがヒシヒシと伝わってくる。しかし、決して「乱暴」な話し方ではない。自分の言いたいことや思いが次から次へとあふれてくるのだ。このパワーが、好調に出店を続ける「すしざんまい」の原動力となっているのだろう。

波瀾万丈!木村清氏の来歴


1952年:千葉県東葛飾郡関宿町木間ヶ瀬(現 野田市)に生まれる。4歳のとき、父親が他界する。

1968年:中学校を卒業。F104のパイロットをめざして航空自衛隊第4術科学校生徒隊に入隊するも、通信兵を養成するための学校だったことを知る。失望するも、厳しい訓練の毎日に耐える。

1970年:大検に合格したことで、航空操縦学生になる資格を取得。

1972年:中央大学法学部(通信制)入学。司法試験合格を目指し、通信教育で学ぶ。

1973年:事故で目を患い、パイロットを断念。同年、航空自衛隊退官。

1974年:中央大学入学後、2年で司法試験の択一式試験に合格するも、学費を捻出するため、百科事典の訪問販売など、数々のアルバイトに精を出す。その後、大洋漁業(現・マルハニチロ)の子会社で、冷凍食品などを扱う新洋商事に入社。3か月間のアルバイトの予定だったが、水産や食材に深い興味を持ち、正社員に。

1979年:それまでの経験と知識を活かし独立、木村商店を創業。お弁当・寿司ネタなどの開発・製造・販売、世界各国の海産物の輸入・販売ガリの製造から本マグロの漁獲販売までを手がけるほか、カラオケボックスレンタルビデオ店、コンビニなども経営。手がけた業種業態は90に及ぶ。同年、中央大学卒業。

1985年:株式会社喜代村を設立。それまで多角化してきた事業を「水産食品」「弁当」「寿司」「商品開発」の4部門に絞って経営。順調に事業を拡大するも、バブル崩壊でメインバンクの裏切に合い、止むなく、事業を縮小。最後に手元に残っていた資金300万円で、築地に「喜よ寿司」を開業。

2001年:日本で初めての年中無休、24時間営業のすし店「すしざんまい本店」を開業。またたく間に店舗数を増やす。

2006年:寿司職人の養成学校「喜代村塾」開校。

2013年:初競りで、大間産の本マグロを1億5540万円で落札し話題に。アフリカ・ソマリア沖の海賊問題解決と、同海域でのマグロ漁場開拓のため、ソマリアの新政府に、民間による漁業支援を申し出る。

2014年:築地市場が豊洲に移転するのに合わせ、同地に新たな「場外観光拠点」として、応募した「千客万来施設」が採用される。

2015年:「千客万来施設」建設・運営の辞退を発表。

― すしざんまい木村清社長「ニッポンのマグロは私たちが守る!!」 ―

 

「すしざんまい」が年間300件の海賊被害をゼロに

 

魚の買い付け

木村社長は、ソマリアだけでなく、漁場の開拓に、魚の買い付けに、自ら世界を飛び回る。

――「『すしざんまい』の社長が、アフリカのソマリアで、元海賊とマグロ漁をやっている……と話題になったことがありましたね。

木村:今でもやってますよ。ソマリアの沖というのは、キハダマグロのいい漁場なんです。ところが海賊が出るようになり、危なくてマグロを獲りに行けなくなってしまったんです。しかし、聞いてみると誰も海賊とは話していないという。おかしいじゃないですか。海賊といったって相手は人間なんですから。それでさっそく、伝手を頼ってソマリアの海賊たちに会いに行きました。そこでわかったことは、彼らだってなにも好き好んで海賊をやっているわけじゃないということです。だったらこの海で、マグロを獲ればいいじゃないか。自分で稼いだ金で家族を養うという、誇りを持った人生にしなくちゃいかん――と、彼らと話し合ったんです。

――ソマリアの人たちは、内戦で国を失い、無法地帯となった彼らの海が荒らされたため、海賊になったと主張しているそうですが、自力では対抗できなかったのでしょうか……?

木村:口で言うのは簡単ですが……、まず彼らは、マグロ漁の技術をもっていないし、船もありません。マグロを獲ってもそれを入れておく冷凍倉庫が使えなくなっている。獲ったマグロは売らなければなりませんが、そのルートをもっていない。IOTC(インド洋まぐろ類委員会)に加盟していないから、輸出ができなかったんです。じゃあ、仕方がない。うちの船を4隻もっていった。漁の技術も教えましょう。冷凍倉庫も使えるようにする。ソマリア政府にはたらきかけてIOTCにも加盟する。獲ったマグロをうちが買えば、販売ルートも確保できる。こうやって一緒になってマグロ漁で生活ができるようにしていったんです。

――「民間外交」の枠を超えた貢献ですね。なぜそこまで?

ジブチ滞在中の木村社長

ソマリアの隣国のジブチにも赴き、漁業分野の合意書を締結した。’13年に安倍首相がジブチを訪問した際には、ジブチ滞在中の木村社長が首相を表敬訪問するなど、まさにジブチと日本の民間外交の主役となっている

木村:いろんな国や国際機関も援助をやっていますが、どれも上滑りのことばかりであまり役に立っていないことも少なくありません。相手の視線に立って、相手の悩みに気がついてあげることが必要なんです。ソマリア沖じゃ一時は年間300件、海賊による被害があったそうですが、うちが行くようになって、この3年間の海賊の被害はゼロだと聞いています。よくやってくれたと、ジブチ政府から勲章までいただきました。

――そこまでして、事業として採算はとれるんですか。

木村:んー。まあ、正直言って今のところまだ採算はとれていませんね。しかし、将来的にはきちんと利益が出る目論見はたっていますよ。それに商売というのは、目の前の利益、儲けのことを第一に考えていたんではうまくいかないものなんです。まず考えなくてはならないのは、どうやったら喜んでもらえるか、何を求められているかということ。それに応える算段をするのが「商売」なのではないですか。

次ページ木村清社長「世界に唯一で最高の市場を私たちがつくる」

――儲けと言えば、築地市場の豊洲移転に関連して、大和ハウス工業と共同して大型商業施設の進出を計画されたものの、最終的に断念されました。会見で「私利私欲でやったことではない……」と涙を流されました。

築地市場

現在の築地市場。開発が進み新しいビルが建ち並ぶ隅田川対岸の勝ちどき地区と比べると、まるで時代が止まっているかのような印象を受ける。

木村:「築地市場」という文化を守りたかったんですよ。考えてみてください。世界中どれだけ探したって、生で食べられる魚をこれだけ扱っている市場は築地だけですよ。そのことを私たちはもっと誇りに思うべきでしょう。ご存じのように築地市場というのは、卸売市場である「場内」と、一般客向けの「場外」とで成り立っています。2016年の11月に「場内」は豊洲に移転し、「場外」は基本的には築地に残ることが決まっています。それはそれでいいけれど、やっぱり「場内」と「場外」がセットになった良さもあったほうがいいと、私は思うんです。豊洲移転を成功させ、東京、ひいては日本の魅力を国内外に発信していくためには豊洲に新たな「場外」を作ることが必要なんです。ならば、かつて寂れかけていた築地場外に「すしざんまい」を初めて開店させたときと同じ気持ちで私が豊洲に「場外」を作ろう、そう考えていたのです。

 いろいろな問題があり結局実現させられませんでしたが、これからも「日本の食文化と市場は私たちが守る!」という気持ちに、今も変わりはありません。

築地市場移転問題とは


 いわゆる「場内」である築地卸売市場は1935年に開設されたもので、施設の老朽化が進んでいる上、貨物列車による輸送を前提とした建物の配置が非効率になっている。一方、輸送の主力がトラックに変わったにもかかわらず、駐車場が狭小で、ピークの時間帯には市場近くの道路に入場待ちの車がずらりと並ぶほどであった。さらに施設の規模そのものが、世界最大の市場と言われる扱い量をさばくにはあまりにも手狭となっていたため江東区豊洲の、東京ガス工場の跡地への移転計画が持ち上がった。

 予定地の土壌が汚染されていることが判明したことなどで移転反対運動が起こったが、2012年に移転が正式に決定。2016年11月の新市場開所が決まった。

豊洲市場

建設中の豊洲市場

 公設の市場である「場内」の移転が決まる一方で、一般の商店街と同じ扱いの「場外」の動向が注目されたが、これまで通り都心の飲食店関係者が日常的な買い回りを続けられるよう、築地に残ることになった。しかし、建物の老朽化が進んでいるのは場外も同じ。そのため、隣接地に新市場を建設し、場内の移転と時期を合わせ「築地魚河岸」の名称でオープンする予定で整備が進められている。

 なお、豊洲の新市場では、隣接地に「新たな場外市場」ともいうべき商業施設「千客万来」を、喜代村と大和ハウス工業が共同で設置すると発表されたが、その後、条件面での折り合いがつかず、計画は撤回された。



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国連がシリア問題の仲介となれるかどうか?<3447>

2016-01-26 12:18:12 | 社会問題 日々雑感

2016年01月26日 00:42スプートニク日本より転載しました

国連のデミストゥラ・シリア問題特使は、ブリーフィングで「シリアの諸勢力間の直接交渉は、1月29日に開始される」と発表した。


デミスゥトゥラ特使は「私の見るところ、我々がシリアの在野勢力の代表者達に招待状を発送する状態となる明日に、まずそれがなされ、代表者達による交渉の期日は、29日になるだろう」と伝えた。

 先に、そうした交渉は、ジュネーブで25日に始まるものと期待されていた。先週の金曜日、国連は「実際上の理由から」交渉開始の日付けが延期される可能性があると伝えている。



続きを読む http://jp.sputniknews.com/middle_east/20160126/1490872.html#ixzz3yJgYdIAt

~~~~~~~~~

♫いつも思っていましたが、国連ってすぐに動きませんよね。

見守りすぎですよね。不可解でしょ?

それでも、このように動いたのは、今回が初めてのように思います。

どうなるのでしょうか?

 

 


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天皇まんざーい 山本五十六はフリーメイソン<3446>

2016-01-26 11:58:34 | 歴史

♫ これらの情報を沢山見てくると、やはり八百長戦争であったことは、明白です。この記事もやはり、以前読んで私はなにか、釈然としないものを、感じました。それはお堀の主のことが全く書かれていないからでした。そういうことを、頭にいれて読んで見てください。あなたの裁量で。

他の事では重大な事実が記事になっているので、ご紹介します。山本五十六と言えば、兵隊へ行った父からもその名を聞いた記憶があります。どのように素晴らしい武将だったのかは、何もいいませんでしたが。のちのテレビなどでは、素晴らしい武将としての紹介がありましたけど。

そして、なぜだか、陸軍の戦犯は多いのに、海軍の戦犯が少ないと言う事実も、不可解ですね。

山本五十六はフリーメイソンであったこと、なぜなら、天皇はイル身ナティですから。とうぜんですよね。アメリカのイル身ナティは、ブッシュ一族だといいます。もっともアメリカの大統領はすべて親戚関係者です。アメリカのテレビでも報道されているようです。

あのオバマも実は親戚なんですよね。だから大統領になったのです。親戚でなければなれないのです。大きなバックアップがそこには存在するのです。

八百長の臭いはこれだけでも、プンプンしてきます。人類を将棋の駒のようにして、動かして、ゲームをするかのようにして、人の命を抹殺してきました。それが世界の支配者たちの本当の姿です。

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http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/YamamotoIsoroku04.html

  ミッドウェーは太平洋戦争全体を通じてまさにターニングポイントであった。この敗北以来、日本の帝国陸海軍は苦況に陥るのである。それを象徴するのがミッドウェーの海戦であった。
  「MO作戦」でニューギニアのモレスビー攻略に失敗した日本軍が、米豪を分断するため、次に戦略的拠点として選んだのが南太平洋ソロモン諸島の主島ガダルカナル島である。この島に飛行場を敷設し、強力な基地航空隊をおけば、南西太平洋の制海権(制空権ではない)が得られ、アメリカとオーストラリアの連絡は分断され、オーストラリア北東部は日本軍の攻撃範囲となり、ここに猛攻を加えることによりオーストラリアを厭戦気分に陥し入れ、連合軍からの脱落を誘い、日豪単独講和にもち込むことができればアメリカも戦意を喪失、日米の和平も実現できるのではないかと海軍は考えていた。
  (中略)
  ガダルカナル戦およびソロモン海戦で極めて特徴的なことは、日本軍に戦略というものが全く存在しなかったことだ。山本長官はソロモン海戦においても南雲忠一中将、草鹿龍之助参謀長、原忠一少将、さらにのちのレイテ沖海戦で「謎の反転」を演じた栗田健男中将などの無能な司令官を投入し、日本艦隊の消耗を加速させた。その分、アメリカ側の被害は最小限で済んだのである。
  山本長官はソロモン海戦でも「大和」「武蔵」などの大型戦艦を攻撃隊に加えることなく、戦力の小出し投入を行なった。このため戦艦「大和」はついに「大和ホテル」と呼ばれるありさまであった。
  ガダルカナルの空軍基地からは、山本長官の指揮下にあるすべての空母や戦艦など58隻からなる大艦隊と艦載機を駆使して全力投入していれば、奪還は可能であったのみならず、ソロモン海域全体で大きな勝利を手にすることができたはずであった。
  戦後『大日本帝国海軍』の著者ポール・ダルは、その中で「山本長官はこの会戦をどう考えていたのか理解しにくい」と指摘しているが、山本長官の行動は良心的なアメリカ人にすら全く理解のできないものであった。
  (中略)
  ガダルカナルおよびソロモン海戦で、日本軍は2万3800人におよぶ地上部隊員の戦傷病死を出し、艦艇の喪失も空母1隻、戦艦2隻、巡洋艦5隻、駆逐艦等25隻、それに航空機の喪失は1053機にも及んだ。
  昭和17年12月31日、昭和天皇はガダルカナル島からの撤退を裁可し、翌18年2月1日から7日にかけて、3回の撤収作戦を実施、同島に取り残された飢餓と熱帯病のため生死の境をさまよいつつあった日本軍将兵1万有余人を救出したのであった。
  (中略)
  山本長官は昭和18年4月16日、北ソロモン諸島にいる将兵の労をねぎらい士気を鼓舞するためと称し、前線基地視察を計画した。。

 疑問だらけの死体検案書           [TOP]

  こうして昭和18年4月18日、ブーゲンビル島ブインの航空基地視察のためと称して山本長官は午前6時ラバウル東飛行場を一式陸攻で離陸した。宇垣参謀長らを乗せた二番機もほぼ同時に離陸したが、これを護衛するのは第204航空隊の零戦わずか6機だけであった。
  この日、山本長官はなぜか正式な連合艦隊司令長官の軍服ではなく、生まれて初めて着る草色の略装である第三種軍装を身にまとい、護衛機の数を増やすことにも強く反対したという。
  山本長官の前線基地視察スケジュールの情報は事前に暗号電報で前線基地に予報された。連合艦隊司令長官の詳細な行動予定が、視察の5日も前に前線基地に伝えられるのは異例のことだった。
  ショートランド第11航空戦隊の城島少将は、不用心な暗号電報に憤慨したと言われるが、ご丁寧にもこの暗号電報を受け取った現地指揮官ひとりは、わざわざ儀礼的に低レペル暗号の無電で関係先に知らせたともいう。
  米軍はこの暗号を解読して山本長官搭載機撃墜計画を練ったとされるが、むしろ山本長官自身ないしはその側近が、事前に何らかの方法で米軍に詳細な行動予定を知らせていたというのが真相だろう。山本長官はすべての役目を終了し、ルーズヴェルト大統領との約束に基づいて姿を消すことにしたのである。
  山本長官を乗せた一式陸攻は高度2500メートルでゆっくりと飛行、6機の護衛戦闘機はその500メートル上空を飛行していたが、ブーゲンビル島南端のブイン基地上空にさしかかったところ、ガダルカナル島ヘンダーソン基地を飛び立ったミッチェル少佐の指揮するP-38米攻撃機28機が午前7時33分、正確に山本長官機と出合った。ミッチェル隊はP-38の航続距離からしてわずか10分間という許容時間で攻撃を開始、山本長官機を撃墜したのであった。
  右エンジンに弾丸を受けた長官機は火災を発し、黒煙を吐きながらジャングルの中に落下していった。2番機はモイラ岬沖の海上に不時着、宇垣参課長ら3名は助かったが、長官機は翌19日午後2時頃陸軍の捜索隊によって発見された。
  山本長官の遺体は機外に投げ出された座席に腰かけ、軍刀を握りしめたままであったとされているが、その死には深い謎がつきまとう。
  大本営発表の「死体検案書」(死亡診断書)と「死体検案記録」(死亡明細書)によれば、死亡日時は「昭和18年4月18日午前7時40分」である。傷病名は「顔面貫通機銃創及び背部盲貫機銃創」であり、末尾には「右証明ス 昭和18年4月20日 海軍軍医 少佐 田淵義三郎」として署名捺印がある。
  ところが墜落現場を最初に発見した浜砂陸軍少尉は次のように証言している。
  「長官はあたかもついさっきまで生きていたかのような風貌で、機外に抛出された座席上に端然として死亡していた……その顔面には創はなかったし、出血の痕もなかった。その発見は墜落後実に30時間前後も経った頃である」
  同様の証言は陸軍軍医・蜷川親博中尉も行なっている。蜷川中尉は長官機遭難現場近くの歩兵第23連隊の次級軍医として勤務していた。このため、中尉は救難捜索行動に参加し、長官死体の検視も行なっている。
  にもかかわらず、山本長官の秘蔵っ子と言われた渡辺中佐参謀は、事故のあと19日、ラバウルより現地に急行、20日夕刻掃海艇上に運び込まれた長官の遺骸を検死して大本営と全く同一内容の証言をしている。渡辺参謀の証言内容とは「20日夕の時点で顔面貫通機銃創と背部盲貫機銃創は共にあった。4月18日、機上での戦死は間違いない」というものである。
  前出の田淵軍医は「私が検死した時点では顔面に創はあった」「姐(うじ)の侵蝕とは考えられぬ」とし、さらに重要な証言「死後の作為が加えられたかどうか判らない」と言いながらもその可能性を強く示唆している。

 戦死が狂言であったこれだけの証拠     [TOP]

  山本長官の「死」は明らかに狂言であろう。その穏された真相は次の如くであると推測される。

1.山本長官は太平洋戦争前半における帝国海軍崩壊のためのすべての役割を完了した。

2.そのため急遽姿を隠す必要が生じ、側近の宇垣纏中将(連合艦隊参謀長)や渡辺中佐
  (参煤)と共謀し、あらかじめ暗号をアメリカ側に漏洩した上で長官機撃墜の一大ペテン
  劇を演出した。

3.当日、山本長官はわざわざ草色の第三種軍装を身にまとい、ジャングルを逃亡の際目
  立たぬよう略装にした。

4.米軍機攻撃の際、いち早くパラシュートで脱出、地上よりかねて打合せの場所からガダ
  ルカナル島米軍基地へと逃亡した。

5.捜索班が事故機を発見したとき、長官の身替りとされた男(恐らくは風貌の似た人物)を
  座席に縛りつけ毒殺した。

6.従って発見時には顔面の創も背部盲貫機銃創も存在しなかった。

7.その後、山本長官を「機上死」であると捏造するため、遺体に拳銃か鋭利な刀物で人工
  的な死後損傷を加えた。


  事実、田淵軍医が検死をしている最中に長官のワイシャツを脱がせようとしたが、渡辺参謀から突然大声一喝され、「脱がすな、これ以上触れてはならぬ!」と怒鳴られ制止されているのである。人工的な死後損傷であったとする証言も数多く存在するが、これらのすべては黙殺され、渡辺中佐の命令下、虚偽の「死体検案書」と「死体検案記録」は作成され、「機上壮烈なる戦死」という大本営発表となるのである。

 戦後、「山本五十六を見た」という多くの証言    [TOP]

  ここで「運よく」助かった宇垣纏中将とは何者かを知らなければならない。(中略)
  三国同盟締結の折は賛成派に回ったため山本長官にうとんじられているとも言われたが、どういうわけか昭和16年8月、連合艦隊参謀長に任命され、山本五十六大将を直接補佐することになる。以後、連合艦隊の旗艦「大和」上の司令部内で山本長官の影武者に徹して常にその意向を尊重し、補佐してきた。
  あれほど傲岸不遜な宇垣がなぜ山本長官に寄り添い続けたのか。そのわけは宇垣がユダヤ・フリーメーソンに入信したことにあろう。
  山本・宇垣のコンビは真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル、ソロモンと呼吸を合わせ、日本海軍の崩壊に尽力した。
  ブーゲンビル上空で山本長官逃亡の手はずを整えたのも宇垣である。宇垣もしっかりと生きのびており、昭和17年11月には中将に進級、昭和20年8月15日の終戦詔勅渙発を知るや、沖縄の沖合に蝟集する米艦隊めがけて突入すると称して部下の操縦する飛行機に搭乗、そのまま行方を絶った。日本の敗戦を見とどけて姿を消したと言うべきか。
  戦後、山本長官の姿をどこやらで見かけたと証言する人もおり、太平洋戦争を敗北に導いた功労者の多くは「世界支配層」ユダヤ・フリーメーソン陣営によって手厚く保護されるのである。

 ルーズヴェルトの命令を忠実に守ったから        [TOP]

  ここで山本長官の果たした役割についてもう一度まとめてみよう。
  真珠湾攻撃の計画はもともと「世界支配層」およびアメリカ、それに山本長官の深慮遠謀から生まれた計画であった。
  日本人フリーメーソン山本五十六は、連合艦隊司令長官にあるずっと以前、恐らくは海軍次官の頃からアメリカ側と連絡をとり、もし日米が開戦になった時は先ず真珠湾を奇襲し、アメリカの対独戦を合理化させると同時に、日本へのアメリカ国民の参戦気分を一気に高揚させるという計画を練り上げたに違いない。
 アメリカ側でこの計画を推進したのはもちろんフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領であった。そしてこの計画にはヘンリー・スチムソン陸軍長官、フランク・ノックス海軍長官、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長、ハロルド・スターク海軍作戦部長、そしてコーデル・ハル国務長官が加わっていた。
 日本側でこの計画を知っていたのは、山本五十六以外にはほんのひと握りの人間であろう。それはもと首相や海軍大臣、そして外務省の高官たちなど最高度の機密を保てる者に限られていた。
  山本長官はこの計画を実現させるためにいろいろな手を打った。開戦の年昭和16年(1941年)夏の時点では、真珠湾攻撃で使用する予定の軽魚雷はまだ開発中であったし、9月初旬においても攻撃用の直接部隊は不足していた。山本長官は画策の末、こうした戦術面での問題を11月の末にはすべて解決した。
  ところが肝心の永野修身軍令部総長ら海軍首脳部はこぞって反対であった。海軍上層部はまだ日米開戦に躊躇し、真珠湾攻撃が実際にどれだけ効果をあげられるか疑問を持っていたのである。日本がアメリカを仮想敵国としたのは明治40年(1907年)4月に「帝国国防方針」が制定されてからであるが、日本の陸海軍が立案した正式な作戦計画の中にはハワイ攻略は含まれていない。攻略の対象はせいぜいグアム島どまりだったのである。
  昭和15年(1940年)ルーズヴェルト大統領は米海軍首脳の反対を押し切って、それまで西海岸カリフォルニア州のサンディエゴ軍港にあった太平洋艦隊を年次演習の目的でハワイの真珠湾に進出させた。第2次大戦が勃発し、山本五十六が連合艦隊司令長官として対米戦を計画している最中であった。ルーズヴェルトは山本長官と共謀して、日本側に格好の攻撃目標を提供したのである。

 日本を敗戦に導いた山本の謀略とは
            [TOP]

  山本五十六連合艦隊司令長官が3年8カ月に及ぶ太平洋戦争の中で、実際に艦隊を指揮したのは真珠湾攻撃の始まった昭和16年12月8日からブーゲンビル島上空で「戦死」する昭和18年4月18日までの1年4カ月である。
  この間に山本長官は偉大なる貢献を「世界支配層」ユダヤ・フリーメーソン陣営に行なった。その貢献とは何であったかである。山本長官は太平洋戦争が日本の敗北で終わることを望んでいた。日本を敗北させることがフリーメーソンである山本五十六の役目だったのである。
  そのためには日本が圧倒的優位を誇る連合艦隊を速やかに壊滅させる必要があった。そしてもう1つは、アメリカの太平洋艦隊に対し常に手ごころを加え、その戦力を温存させることであった。このため山本長官が取った手段は次の通りであった。

 海軍軍令部の強い反対を押しきって真珠湾攻撃を強行。
  ただしその攻撃は不徹底なものとする。

    忠実なる配下の指揮官  南雲忠一中将(第一航空艦隊司令長官)
                   草鹿龍之前少将(第一航空艦隊参謀長)
                   源田実中佐(第一航空艦隊参謀)
● 珊瑚海海戦で米海軍に手ごころを加える。米空母「ヨークタウン」撃沈せず。
    忠実なる配下の指揮官  井上成美中将(第四艦隊司令長官)
                   原忠一少将(第四艦隊空母指揮官)
● ミッドウェー海戦で連合艦隊大敗北を画策。
   忠実なる配下の指揮官   南雲忠一中将(機動部隊司令長官)
                   草鹿龍之肋少将(機動部隊参謀長)
● ソロモン海戦でガダルカナル大敗北の原因を作る。
   忠実なる配下の指揮言   三川軍一中将(第八艦隊司令長官)
                   南雲忠一中将(機動部隊司令長官)
                   草鹿龍之助少将(機動部隊参謀長)
                   原忠一少将(軽空母「龍驤」指揮官)
● 「い」号作戦で日本の南東方面航空兵力を潰滅させた。

  いずれの海戦においても忠実なる配下の凡将、愚将、怯将である南雲中将、草鹿少将、源田参謀、井上中将、原中将、三川中将などを長期にわたって使い続け、「攻撃の不徹底」ないしは「手ごころ」を加えさせている。
  さらに大事なポイントは、海軍が使用していた暗号電報をアメリカ側に筒抜けにさせていたことであろう。山本長官はアメリカが日本海軍の暗号電報をすでに解読し、連合艦隊のあらゆる作戦行動を見抜いていたこともあらかじめ承知の上で、作戦を強行したふしがある。真珠湾攻撃のときもそうであるし、モレスビー攻略作戦(MO作戦)における珊瑚海海戦は不充分な戦果に終わった。ミッドウェー海戦(MI作戦)の時も、アメリカ側に充分な情報と対応のための準備期間を与えていたと考えられる。
  長期間に及んだソロモン海戦のときも日本の艦隊や輸送船、飛行隊の動きはすべてアメリカによって把握されていた。結局日本海軍は山本五十六の意図によってその初期戦力を激滅させていたのである。
  この偉大なる「功績」により山本長官の役目は一通り終った。そして姿を消す時期がやってきたのである。ブーゲンビル島上空における「戦死」がそれである。アメリカが暗号解読をしていることを承知の山本五十六は、前線視察と称して連合艦隊司令部から一式陸攻に搭乗してブーゲンビル島のブイン飛行場に向かったのである。
  山本五十六連合艦隊司令長官はこうして戦線から姿を消すのであるが、山本長官とともに1年4カ月の海戦を戦った将官たちは、その極度な無能ぶりにもかかわらず戦後さまざまな戦記作家によっていずれも名将、名参謀としてたたえられている。
  戦後の日本がアメリカに占領され、民族心をことごとく失うまでに洗脳された結果、「世界支配層」に迎合するフリーメーソン作家がこのような日本民族に対する背信行為をするのも、いわば当然であろう。
  日本が開戦したときのアメリカとの国力は1対10の比率であったと言われる。
  このために日本が戦争したのは無謀であったとか、やがては負ける運命であったなどという意見があることも事実だ。だが、日本があらゆる海戦で勝利をおさめていれば(それは可能であった)アメリカの戦意が喪失し、休戦、和平交渉の道も可能だったのである。

 
《目次》 クリックして他のページもご覧ください。赤い文字が当ページです。
 
① 負けるべくして始まった太平洋戦争
② 米国のために重大な役割を果たした山本五十六
③ 日本兵を大量にムダ死にさせた山本の作戦
④ 山本五十六は戦死していなかった
⑤ あの戦争は世界支配層のシナリオだった
 
 
 

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天皇まんざーい A級もBC級も戦犯は釈放されていた <3445>

2016-01-26 11:41:58 | 歴史

 

http://saigaijyouhou.com/blog-entry-9750.html より転載しました

♫ 記事のコメントにあったものです。

 

「日本の国内法」においては「罪人」と見なさないということです。
講和条約発効後の1952年昭和27年6月5日から全国一斉に「戦犯受刑者の助命、減刑、内地送還嘆願」の署名運動が始められました。合計約4千万に達しました。こうした国民世論の後押しを受けて、政府は直ちに国内で服役中の戦犯の仮釈放および諸外国で服役中の戦犯を日本に送還する措置について関係各国と折衝を開始しました。でも、連合国側が戦犯釈放になかなか同意しなかったようですね。釈放の見通しも立たないまま1953年昭和28年に入り、喫緊の課題として、一家の主を失って困窮を極めている戦犯の遺族達への援助問題が浮上してきました。戦犯の遺族達にも他の戦没者遺族と同じく弔慰金などの援助をするべきではないか、そのためには、「戦犯を犯罪者と見なすのではなく、公務で亡くなった「公務死」と認定するべきではないか」、という議論が起こりました。「戦犯」とされた人でも「靖国神社」には戦没者としてお祀りするべきという、意見の前提に「東京裁判は間違った裁判だった。」という認識があることは言うまでもないですね。それで、1953年昭和28年8月、「戦傷病者、戦没者遺族等援護法」の一部が改正されて、困窮を極めている戦犯とされた遺族の人達に対しても遺族年金および弔慰金が支給されることになりました。連合軍により軍事裁判で「有罪」とされた全ての人達は、「日本の国内法」においては「罪人」と見なさないということです。だから、日本には所謂、「A級戦犯」なんてものも存在していないのです。一方、日本政府の熱心な働き掛けにより、受刑者の釈放も徐々に進んでいきました。「A級戦犯」は1956年昭和31年3月31日までに関係各国の同意を得て、全員出所したのですが、「B・C級」の最後の18名の仮出所が許されて全員出所したのは、1958年昭和33年5月30日のことでした。 
[ 2016/01/26 01:16 ] アオリイカ [ 編集 ]
 
 
https://www.facebook.com/yoshito.hori.1/posts/604691139596863より転載しました
堀 義人さんが阿部 鉄弥さんの投稿をシェアしました。

A級戦犯は、1952年に4000万人の署名が集まり国会決議を経て赦免された。一方、国際的にも1956年に関係11ヶ国の同意を得て、A級戦犯は赦免されていた。今、靖国神社に合祀されているのは戦犯なのだろうか?

 
 
阿部 鉄弥

リクエストがあったので、戦犯問題について、長いけど歴史的事実について確認

昭和27年(1952年)に発効したサンフランシスコ講和条約の同講和条約第11条では「戦犯」の赦免や減刑についは、「判決に加わった国の過半数が決定する」と定めていたので、全国で戦犯釈放運動が広まり、当時の成人のほとんどいってもよいくらいの4000万人(当時の日本の人口は8454万人)もの署名が集り、その署名運動により、昭和28年に戦犯の赦免に関する決議が国会で、社会党や共産党まで含めて一人の反対もなく決議された。

そして国際的にも、サンフランシスコ講和条約第11条にもとづき関係11ヶ国の同意を得て、A級戦犯は昭和31年に、BC級戦犯は昭和33年までに赦免し釈放された。
このような赦免運動・決議の結果、すでに処刑されていた戦犯は「法務死」とされた。

いわゆるA級戦犯であった重光葵は、第11条の規定により釈放され、公職追放解除後には外務大臣となり、国連加盟時には加盟受諾演説を行った。

 ●1952年(昭和27年)6月9日参議院本会議にて「戦犯在所者の釈放等に関する決議」
 ●1952年(昭和27年)12月9日衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」
 ●1953年(昭和28年8月3日衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」
 ●1955年(昭和30年)7月19日衆議院本会議にて「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」
 (以上、全会一致。社会党・共産党も賛成)

ちなみに、
サンフランシスコ講和条約
第二十一条
この条約の第二十五条の規定にかかわらず、中国は、第十条及び第十四条(a)2の利益を受ける権利を有し、朝鮮は、この条約の第二条、第四条、第九条及び第十二条の利益を受ける権利を有する。

要するに、中国(そもそも中華人民共和国でない)と朝鮮(韓国でない)は領土の確定や経済協定などについては認めるということ。

第二十五条(後段)
第二十一条の規定を留保して、この条約は、ここに定義された連合国の一国でないいずれの国に対しても、いかなる権利、権原又は利益も与えるものではない。また、日本国のいかなる権利、権原又は利益も、この条約のいかなる規定によつても前記のとおり定義された連合国の一国でない国のために減損され、又は害されるものとみなしてはならない。

要するに、連合国と定義された国以外は口出し無用。

~~~~~~~~~~~~

♫ 靖国神社って、はりぼてだってこと、わかりましたね?国民の操作に使うために作った支配者の思惑神社でした。

なんちゃって戦争でしたね。これを見て皆さんはどう思われるでしょうか?

先の今上天皇の血筋についての情報者のさらなる、情報に会ったA級戦犯の死刑は執行されていなかったと、ありましたが。あり得る話だと思いますね。

すべては、八百長です。なぜあの戦争が行われていたのか。

天皇の周りのエリート達の命は助かったのは、在日エイリートだからです。天皇崇拝を更に強固なものにする為です。

そして、本当の日本人の多くが戦争によって、非業の死をとげています。これはまさしく支配者の驕りによる、日本人の抹殺と言えると思います。

日本人の血を受け継ぐものを、抹殺しているのです。これからの戦争をおこして、大量の日本人を戦場へ送りこみ、拒否すれば、死刑だと国会議員ははっきりと言っていますよ。

日本人の女性の多くを海外へ売りとばして人身売買で大儲けし、男性の多くを海外で戦死させたのは、事実です。戦争だから仕方がない、というのは支配者の策略を知らない人の言う言葉です。 

偽ユダ屋がアメリカから、日本を操作しているのは、確かだと思います。その上にいて、命令を下している人が、日本にいることを、知ってください。

アメリカ軍によるシリアのアサド政権の撲滅を量っているのは、ロス茶の中央銀行の乗っ取りが目的です。これは日本を中心とするNWOです。日本はイル身のてっぺんでしょう。

ロス茶は日本の明治維新に深く関わっており、現天皇家の誕生にも力を貸しています。このようなロス茶と深いつながりのある人が、天皇なのです。

まさか、まさかと思われるでしょう。調べてご覧になってください。

八百長だった、第2次世界大戦。もしかしたら、第1次世界大戦もそうでしょうね。一度あることは、2度あるのです。そして彼らは3度目を画策しているのも、確かです。

日本国民は戦争への靴音がしていることに、気づき始めています。

こんどこそ、このバカバカしい戦争を国民が総出で、阻止できるはずです。

 

これらの真実はやがて明かされる日が来るでしょう。

 

地球人類の奴隷解放はもうすぐ!!!


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