水無月より

つれづれなるままにブログというものを書き綴ってみます。

さんざんな午前中

2010-08-10 22:20:29 | 日記
今朝、末っ子が部活に出かけようとしたとき
「K中ってどうやっていけばいいの?現地集合なんだけど…」と
「えーっ、学校じゃないの?自転車で15分はかかるし、間に合わないよ」
すでに8時20分ぐらいでした。台所の冷蔵庫に部活の予定表を貼ってあるのですが、それによると9時~12時 学校とありました。
1年生は30分前行動らしく、8時30分まで着けばよいのですが、予定変更だったそうです。しかも、その詳細を書いたプリントが見あたらないとのこと。
「まさか、お弁当がいるんじゃあないよね」
末っ子「わかんない」
「集合時間も違うんじゃあないの?」
末っ子「わかんないっ!」
まだダンナが家にいたので、急いで車で送ってもらいました。私は、末っ子の自転車に乗ってK中まで向かいました。
ようやくK中にたどり着くと、ダンナが車で待っていました。
信号全部に引っかかりながらも、8時30分には着いたらしいのですが、もうみんな集合して挨拶をしているところだったそうです。
ダンナは車の中で私が到着するのを待っていただけで、何時終了か確認していませんでした。
すでに練習試合が始まっていましたが、末っ子を見つけて「何時まで?」と尋ねました。
娘は隣にいたお友達に確認して「12時」ということがわかって、一安心。お弁当はいらなかった。
ピアノのレッスンも今日の午後に変更になっていたので、これもOK。午後まであったらダブルブッキングでした。
自転車を置いて、ダンナの車で帰宅しました。朝から大汗をかきました。


長女が午後から友だちと出かけるというので、午前中彼女と買い物に出かけました。
店内で、車の呼び出し放送がありました。
「えっ、私の車だ」と何だろうと思いつつカウンターへ向かいました。
すると、女性の方が待っていて、駐車場で私の車にバックしてぶつかったということでした。
早速現場に向かい、ダンナに電話して保険屋さんを呼んでもらいました。
ダンナも駆けつけてくれて、相手に保険屋さんと連絡をとってほしいと依頼しました。あとは保険屋さん同士におまかせしようということだったのですが…。
保険屋さんが到着すると、相手の女性も「あっ」と声をあげました。同じ保険屋さんだったのです。
工場はもう休みに入っているので、お盆明けの修理となります。
駐車場で当て逃げする人もいるようですから、良心的な人でホント良かったです。

そんなこんなで、もうお昼をまわっていました。

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浦上天主堂で祈る人々

2010-08-09 14:30:10 | ニュース
浦上天主堂で祈る人々=長崎原爆忌


長崎は9日、65回目の原爆の日を迎えた。爆心地に近い平和公園で「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」が営まれ、被爆者や遺族らが参列し、原爆死没者の冥福を祈る。写真は浦上天主堂で早朝から祈りをささげる人たち 【時事通信社】


浦上天主堂
1945年(昭和20年)
8月9日、長崎への原爆投下により、爆心地から至近距離に在った浦上天主堂はほぼ原形を留めぬまでに破壊された。投下当時、8月15日の聖母被昇天の祝日を間近に控えて、ゆるしの秘跡(告解)が行われていたため多数の信徒が天主堂に来ていたが、原爆による熱線や、崩れてきた瓦礫の下敷きとなり、主任司祭・西田三郎、助任司祭・玉屋房吉を始めとする、天主堂にいた信徒の全員が死亡している。後に浦上を訪れた俳人、水原秋桜子は、被爆した天主堂の惨状を見て「麦秋の中なるが悲し聖廃墟」と詠んでいる。

1958年(昭和33年)
被爆した天主堂は翌年までに瓦礫を撤去し整備されたが、一部外壁の廃墟などは原爆資料保存委員会等の要請で被爆当時のまま仮保存されていた。保存の市民運動が起こり、長崎市議会も保存を決議したが、結局は撤去され、遺構の一部は近隣の平和公園内に移設された。


※貴重な原爆遺構の破却に至った経過については2つの事情があった。
浦上教区の信徒で編成された「浦上天主堂再建委員会」は現地に再建を決定、信徒からの浄財及び寄付金によって再築計画を明らかにする。だがその動きを覚知した原爆資料保存委員会は、『旧天主堂は貴重な被爆資料である故に遺構を保存したいので、再建には代替地を準備する』と提案するが、当時の長崎司教・山口愛次郎は、『天主堂の立地には、江戸時代のキリスト教迫害時代の由緒ある土地を明治時代に労苦を重ねて入手したという歴史的な背景があり、保存委員会の意向は重々理解できるが移転は信仰上到底受け入れることはできない』という意思を決定した(浦上天主堂公式サイトにも同様の経過が記載されている)。
当時の長崎市長・田川務は、米国セントポール市との姉妹都市締結を機に今後の日米関係など政治的背景を重視し、1958年の市議会で「原爆の必要性の可否について国際世論は二分されており、天主堂の廃墟が平和を守る唯一不可欠のものとは思えない。多額の市費を投じてまで残すつもりはない」と答弁し、議会決定に反して撤去を決定した。
被害当事者である浦上教会と、結果的にアメリカへの配慮を優先した田川市長の意向が共に破壊撤去を選択したため、旧天主堂の廃墟は撤去されてしまった。一部の遺構は保存されたとはいえ、広島県広島市の『原爆ドーム』(旧広島県産業奨励館)の様に爆心地付近の惨状をありのままの姿で後世に伝えることが出来る遺物を残さなかったこと、また原爆ドームが史跡やユネスコの世界文化遺産に登録されたこと等から、取り壊されたことを惜しむ声も未だに多い。
ただし、浦上教会信徒会館2階には再建時に発掘・収集された被爆物(溶けた聖母像や聖杯・ロザリオなど)を展示する資料室を併設しており、自由に見学が出来る。(Wikipediaより)


原爆ドームのように、後世に残さなかったことは、とても残念に思いました。以前TVの特集番組で、教会のあのような無残な姿を全世界のキリスト教徒に見せたくなかったアメリカの思惑で撤去されたのではと語っていました。田川市長の選択は、絶対間違っていたと思います。



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訪問猫の陰謀?

2010-08-08 23:16:21 | 日記

8月8日、8・8が並ぶとなんか縁起がよさそうな気がするのは、私だけでしょうか。

花火大会が終わると、もうすぐお盆。お盆が終わるとあっという間に学校が始まってしまいます。

今年は、どこにも出かけないで終わってしまうのでしょうか。

宿題の進捗状況も芳しくないようですし…。

14日(土)なら、いいんじゃない。と思いきや、地区の盆踊りがあって、うちのダンナは準備と後片付けにでなければなりません。

それじゃあ15日(日)、ちょこっとドライブでも。後片付けの後の反省会(飲み会)はパスしてもらえば、大丈夫だと思うのですが。




2年ほど前から勝手口に来る訪問者の三毛猫ちゃんは、私が近寄るといつもササッーと逃げて、一定の距離感をとります。でも、今日は

珍しく触らせてくれました。おかしいなと思っていたら、毛がぬける、ぬける…尋常じゃあないぐらいドバッと。

もしかしたら、毛をすいてほしかったのでしょうか。猫ちゃんの陰謀にまんまとはまり、塀に腰掛け、だっこして毛をすいてあげまし

た。逃げるどころか、されるまま、どうにでもしてくださいといった感じでした。おかげで、私の衣服も毛だらけに…。

8時30分までには合唱のレッスンに行った娘たちを迎えに行かなければならないのに、この状態ではとても無理です。猫を抱いたまま

ダンナに、毛だらけで行けないからお願いと頼むと、なにやってんだと言いつつも、行ってくれました。猫とのスキンシップなんて久し

ぶりなので、ちょっとうれしかったです。

首輪はしているので、どこかの飼い猫だと思うのですが、あまり手入れされてるとは思えません。うちの子になってもいいんだよと思う

こともあるのですが、去って行ってしまうので仕方がありません。

猫と一緒にいるとき、外は、夜風が吹いていて、どこからかスイッチョンと虫の音さえ聞こえてきました。

秋の気配をふと感じる夜でした。


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花火大会

2010-08-07 22:48:30 | 日記
          
今夜、地元の花火大会が最上川河川敷でありました。
風もなかったにもかかわらず、水辺のせいか、2時頃のゲリラ豪雨のせいか、あまり暑く感じられませんでした。
7時30分、打ち上げ開始。3000発の花火が夜空を彩りました。

























デジカメで撮影しましたが、あまりうまく撮れていませんでした。




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残暑お見舞い申し上げます

2010-08-07 14:20:36 | 日記
暦の上では今日は立秋です。

残暑お見舞い申し上げます


立秋(りっしゅう)は、二十四節気の1つ。または、この日から処暑までの期間。

一般的な定気法にあっては、太陽黄経が135度のときで8月7日ごろ。恒気法にあっては、冬至から228日目で8月7日ごろ。

初めて秋の気配が表われてくるころとされる。七月節(旧暦7月)。『暦便覧』では「初めて秋の気立つがゆゑなれば也」と説明している。

夏至と秋分の中間に当たり、昼夜の長短を基準に季節を区分する場合、この日から立冬の前日までが秋となる。暦の上ではこの日が暑さの頂点となる[※]。翌日からの暑さを「残暑」といい、手紙や文書等の時候の挨拶などで用いられる。また、翌日から暑中見舞いではなく残暑見舞いを出すことになる。

藤原敏行は「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」と詠んだ。

この日に至っても梅雨が明けない場合は、「梅雨明け」の発表はされなくなる。それゆえに、東北地方などでは、「梅雨明けなし」となることが過去に何度かあった。


※天気予報などで「今日は立秋。暦の上では秋に入りましたが、相変わらず暑いですね」などというコメントがあるが、暦の上では立秋こそ暑さの頂点であり、徐々に暑さが緩むのはその翌日からなので、このコメントはおかしい。一方、手紙等の時候の挨拶などで用いる「立秋とは名ばかりのこの暑さ」の場合は、処暑までの期間を意味しているのでおかしくはない。同じことは立春にもいえる。
(wikipediaより)


 今日、我が市内では水まつりなるイベントが行われています。
先ほど急にものすごい大雨が降ってきました。雷も少し鳴っていました。今はおさまったようですが、まだ小雨が降っています。今夜は花火大会もあるのですが、大丈夫でしょうか?
ちょっと心配です。
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