日本の“茶の湯”は抹茶を喫するが、中国のお茶は明代(1368〜1644)には煎茶が主流となっていた。
日本には隠元禅師(1592〜1673)が黄檗宗とともに江戸時代前期に煎茶文化をもたらし、売茶翁(1675〜1763)が中興の祖としして煎茶を広めた。
売茶翁は本名、柴山元昭といい、禅僧であるが、当世の禅寺、禅僧の在り方に反発し、京の大通りに座り一杯の煎茶を売り、客と清談を交わした。そのため“売茶翁(ばいさおう)”と呼ばれる。
売茶翁は応挙、若冲、池大雅、木村蒹葭堂などの文人墨客と交流し、京都、大阪の芸術家に影響を与えた。
【参考】
売茶翁は、『「・・・袈裟の仏徳を誇って、世人の喜捨を煩わせるのは、私の持する志とは異なっているのだ」と述べ、売茶の生活に入ったという。』
当時の禅寺、禅僧の在り方(お布施出安定した収入)、形式化した茶道に反発し、街に出て衆生と茶(煎茶)を喫し、語らう事で本来の禅を実践したとも云われる。
煎茶道は、江戸時代後期から幕末に大流行した。売茶翁は、当世の安逸に流れる禅寺、禅僧を批判し、その象徴でもある形式化された“茶の湯”に対抗するため煎茶道を奨めたが、彼の死後、皮肉にも茶道具に対する崇拝、儀礼、作法などの形式に支配されカルト化したと云われる…
売茶翁に影響された、池大雅、木村蒹葭堂の薫陶をうけたのが青木木米(1767〜1833)である。
文政6年(1823)
京都の裕福な商家に生まれた木米は、永樂保全、仁阿弥道八と共に京焼幕末の三名人とも呼ばれる陶工で文人画(南画)もよくする。
加賀前田家の招聘を受け九谷焼の再生に尽力したことでも有名。
展示構成は、
第一章 文人・木米、やきものに遊ぶ
第二章 文人・木米、煎茶を愛す
第三章 文人・木米と愉快な仲間たち
第四章 文人・木米、絵にも遊ぶ
(会場は撮影禁止のため写真はネット画像借用)
煎茶道の道具は“茶の湯”に比べると質素で小振りだ、茶碗も酒盃ほどの大きさの磁器で、手触り口当り、釉の景色を愛でるという感じではない。
“茶の湯”が唐物から和物に変遷して、市中の山居“侘び寂び”の文化に収斂するのに対して、煎茶はあくまで古代中国の仙境の“風流”に還ることを理想とする。
“茶の湯”には、「茶禅一味」の真髄はあるが、「見渡せば花も紅葉もなかりけり」の華やかな記憶もある。
そこに道具のバリエーションの違いを感じました。
★★★☆☆
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