ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

【拡散願います】衝撃的な新事実が出てきたー宮森小ジェット戦闘機墜落事故から60年後(20240702)

2024年07月02日 | 忘れてはいけないこと

 本日の沖縄タイムス(2024年7月2日)に、「宮森墜落CIA企業絡む」という衝撃的な事実が明らかにされている。この宮森小学校などにジェット戦闘機が墜落したのは1959年6月30日10時40分頃のことだった。この事故は、はっきりいって、起きるべくして起きたようだ。

 事故は、うるま市(当時は石川市)石川に米軍のジェット戦闘機F-100D戦闘機が墜落した。民家を炎上させ、宮森小3教室に次々に体当たりし、破壊炎上し、死者17名(児童11名を含む)、後遺症での死者を含むと18名が亡くなった。また負傷者210名(児童156名を含む)の大惨事となった。

 この事故について私が知るようになったのは、いつからだろうか。ここ10数年のことだろう。2004年8月13日に米国海兵隊CH-53が沖縄国際大に墜落炎上したとき、この宮森小のことは何ら報道されず、私は運動圏にいたが、それでも知らないままだった。当時の私は、東京在住だったからもあるが、過去の米軍統治下の事案について触れることはなかったのだ。いや、類似の事故について、私自身がもっと知る努力を怠っていたのだろう。

 本日の報道によれば、そもそも同機は、機体整備不良で、台湾のエア・アメリカ工場に飛来し、改修を受けたという。しかし改修されたはずだったのだが、結果的にエンジントラブルを直さず、直せずに戻されたという。1959年6月21日、テスト飛行したパイロットがエンジンに多数のトラブルを指摘しながら、6月25日嘉手納基地に戻ってきたようだ。これでは、何のための修理だったのか分からない。

 このエア・アメリカという会社は、米国CIAの息の掛った企業であったようだ。航空機の安全な飛行は、事故を起こさない努力、原因を追及する努力、事故原因等を公開する努力の3大使命が不可欠だと私は考えている。事実を隠蔽し、時に陰謀を企むCIAの息の掛った企業に修理を依頼していたこと自体が、大間違いだったのだ。

 嘉手納に帰還後、6月30日が初のテスト飛行だった。にもかかわらず爆弾を4発も搭載していたのだ。事故前に危険を察知したパイロットは、これを海上に投棄したが、こうした手間がかからなければ、飛行機の針路を海上に向けることはできたかもしれない。テスト飛行に爆弾を搭載しながら飛ぶなど、常軌を逸している。また危険があると承知して飛ぶのがテスト飛行だから、いざというときに備えた飛行進路を計画すべきだったが、これも怠っていたようだ。嘉手納を飛び出して直ぐのエンジントラブルであり、管制官もパイロットもそこに市街地があることを承知していたはずであり、現場でも然るべき対策を打つべきだった。

 しかし空軍当局は、「不可抗力の事故だった」と居直っていたのだ。しかし今見たように2重、3重のミスが重なり大事故に繋がった。空軍当局は下々の命など関係ないと切り捨てながら、事の処理に当たったのだ(若干の賠償金の支払いはあった)。

 当時の沖縄は、米軍占領下であったから、致し方なかったのだろうか?! だが、権力が下々を全く見ていない結果が、こうだとすれば、今を生きている私達はどうなのだろうか? 何が変わり、何が変わっていないのかを考え直すべきだろう。今の沖縄も、私には65年前と余り変わっていない気がしてならないのだ。事故原因を明らかにするためには、証拠保全や関連した情報の開示は、不可欠だ。こうした基本をないがしろにしている日米地位協定・日米関係のあり方を、私達は問い続けなければならないのだ。

 慰霊・追悼とは、ひとり一人の命の営みを重んじ、危険を除去していく努力と共になければ、なるまい。

参考までに以下をご覧ください。

事故の概要 | NPO法人 石川・宮森630会

 

 



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