昨日から目が痛くて、かなわない。起きたら9時を過ぎていた。なかなか熟睡できない日が続いていたので、少々良くなっているのだろう。
昨夜から「全共闘からリブへ」(女たちの現在を問う会編:インパクト出版会 1996刊刊)を何気に読み始めた。あの時代だから私が生きた時代と少々重なっており、時代背景を多少でも知っているから、ふむふむと読んでいる。書き手には、直接知っている人も少なくないし、著書を読ませて頂いた人は多数いる。「戦後」が終わり、新たな時代への転換点での、ぎくしゃく、もみくちゃの中で、ウーマン・リブが生まれたのだ。
文字通り「個人的なことが政治的なこと」を生き抜いた女たちのうめきが充ちている。この「個人的なことは政治的なこと」は、あれから50年あまり後の今、私は沖縄で実感している。この1年にわたる苦闘の果てに、新たな形にできるのか、できないまま沈没するのか、まだ予断を許さないが、私ごとき者が個的な努力をしても、始まらないようだ。むろん個的な努力なくして何も生み出せない。これは大前提だ。
崩壊した穴を埋めることは、私の個人的な努力では埋められない。もはや、そんなことをやる意味はないだろう。だとすれば、昨日書いたことだが、「写真を撮る人」の一人として動き、集まる「世界」をつくることが先決だろう。信頼関係をつくるのは難しいが、風通しのいい関係を広げなければどうにもならない。
東京のような空虚な世界と違い、沖縄にはまた別の固い岩盤があり、難しい。だが、ひとまず自分で新たな世界を作る努力を始めなければいかんともしがたいと、私は悟ってきた。昨年の8月以降の苦闘の末にやっとここまで理解できた。ケセラ・セラ。ひとまず私は自分が生きる道・条件を探し、作り出していくことを重視していかざるをえない。
沖縄に蒸し暑い季節がまた戻ってきた。