食べて、笑って、旅をして

ニュージーランドにいたときに書き初め、いまではテーマはいろいろ。旅、グルメ、高知、鳥、ダイエット、英語。徒然思うこと。

会いたいと思う人に会う

2017-08-17 | Friends
涼しくなったら集まろうと
そんな話が出た。

私は生まれも育ちも高知だけど
ほうぼうで生活したので
友人は北海道から九州まで。

仲のよい友達はほぼ県外。

だから会おうとなっても
何だかんだ数ヶ月後になるのはざらだ。
下手したら年単位。

6月に、『明日行くけど会える?』
と岡山の友達に言って
それが実現できたのは珍しいパターン。

それに一対一ならまだしも
グループになると日程調整だけでたいへん。

と、会えない言い訳をしているのではなく、

会おうよって話が出て
その予定をたてて楽しみに待って。
まだまだと思ってたら
あっという間にその日がくる。

それがうれしい、という話。

だから、涼しくなったら集まろう、
も日程調整すらまだだけど
いまから楽しみ。


会いたいねって社交辞令は言わない主義。

会いたいと思わない人には
もうたぶん会わない。

会いたい人に会いたいと言う。
そして会う。訪ねる。

それだけ。

経験は財産

2017-08-15 | Job
今日が一次納期の
データ入力のものをいったん納品。

しばらく一人で黙々とやっていた作業だったけど、
途中から合間合間でできる人が参入してくれた。

人が増えると進むけど、
その分管理も大変になるのは当たり前。
慣れない(人間関係も含めて)中で、
調整しながら
なんとかやっていけたのは
やはりこれまでの経験のおかげ、かな。

明日からも第2次納期に向けて
続きはあるけど、ひとまずの〆。

明日からもまたがんばろ。

でも、この作業は別事業所の
ヘルプで、ふってわいたもの。
研修中だったところを中断して
始めたので、この2週間は
研修から離れてしまっている。
本業を忘れそう。
もうすぐ入社して1ヶ月だけど。

大丈夫かな、わたし。
とりあえず、目の前のことがんばるしかないか。



仕事するってことを思い出した

2017-07-28 | Job

2013年11月に、Uターン転職で

高知に戻って働き始めた会社は

地元の中小企業で

人数も20名に満たない会社だったが

売り上げ17億という

びっくりするような規模だった。

1人約1億!がんばらねば!

と思って足を踏み入れた。

が、しかしだ。

初日、いきなり忠告を受けた。

「がんばるだけ無駄ですよ。」

それが、役員(上司)に対して

「アピールするな」という牽制なのか

「気負わなくていいよ」という気遣いか

判断しかねた。

ただ、出鼻をくじかれた、そんな気がした。

社員のみんなは仲が良かったし

1人1人真摯に仕事をしていたが

役員に対して恨みつらみが多かった。

私が面接をした当時の専務は、

社員のことをほめていたけど

彼自身はすっかりみんなに嫌われていた。

2年間仕事をする中で、その理由がわかった。

「言ったことを守らない」

「自分は言いっぱなしで

 社員に大変な思いをさせる」

「もっともらしいことを言ってるようで

 中身がない」

「外には社員のことをほめるけど、

 その実、ちっとも信用していない」

 

そして私は会社を去った。

失業保険をもらいながら考えた。

38歳の私。

正直、就職活動をする意欲はなかった。

臨時職員でつないでいこうか、

と考えたりした。

1年や3年とか有期雇用でも

それをつないでいけばいいのではないか。

土日祝休みで、残業もなく、

プレッシャーを感じることもなく。

挑戦心が持てなかったのは、おそらく

自信がなく諦めていたからだ。

果たして4月から1年間、

情報関係の臨時職員をした。

するとこれが意外に面白かった。

いい仲間にも出会えた。

その仲間たちが頑張っている姿を見て

また意欲がわいてきた。

「仕事」への意欲。

ああ、忘れていたな、この感覚。

小さい頃から、私は「全力投球」だった。

何事にも。

小学校のときの担任の先生が

母に面談で言ったらしい。

「Cちゃんはかわいそうなくらい一生懸命だ」

と。いわく、遊ぶ時も一生懸命、

何をするにも一生懸命で痛々しいくらい、

だったそうな。

自分でもわかる気がする。

そして、「先生ってすごい」と思った。

 

3月に期間満了を迎えた私は

「仕事」について今一度向き合った。

在宅ワーク、会社、起業。

向き合う中で、

これまでの仕事をふり返り、

気付いたことがあった。

私は一緒に働きたいと思える「誰か」(仲間)

がいて、そこで力を発揮できる。

「誰か」が認めてくれることで私は頑張れる。

そういう環境で楽しく働くことができる。

SEのときも、ITオタクでも

開発が好きでもなかった私は

認めてくれる上司や仲間がいたから

頑張りたいと思ったし必死でやった。

Uターン転職したところでは、上司はともかく

仲間が信頼してくれることが嬉しかった。

1年いたところでも、「ありがとう、助かる」

と言ってくれる方たちに

もっと価値を提供したいと思った。

 

会社で働くことを否定的にみるフリーランスや

ノマド的なワーカーが増えてきたけど

だから私は、「会社に入ろう」と思った。

とはいえ、もうすぐ40。

母が遅く産んでくれたおかげでぎりぎり30代。

響きがね、ちょっと違う。

とにかく、こんな地方では正直厳しい。

「年齢不問」と書いていたって形式的なモノ

と訝る。

実際、書類でダメだったところもあった。

「とりあえず会って話を聞いてよね」

って思う。

会わないとわからない。

これ、恋愛と同じだな。

会ったら会ったで、こっちが(会社を)

嫌だって思うかもしれないけど。

だけど、入る前にぴしゃりとドアを閉められて

会う機会さえないのは、けっこう凹む。

こんな思いしている人は

五万といるだろうけど。

だいたい、会社なんて入ってみないと

ホントのところわからない。

どんなにHPでよさそうに書いていても

実態はわからない。

だからいいこと書いてあるほど、

疑う変な癖がつくもんだ。

何度も変わりたくないから、

入ってみて「あちゃー」って思いたくなくて

慎重になる。

でも、その判断は面接だけではわからない。

お互いに言えることなのだろうけど。

 

たまたま今の会社に巡り合って、

そして信頼できそうな上司に会えた。

何より業界のことを何もしらない私を

これまでの経験とキャラクター(?)をみて

迎え入れてくれた。

感謝である。

そして、いま丁寧に業務を教えてくれている。

だからひとまず、信じて頑張ってみよう。

 

「それはこの後説明します」

先走って質問する私を制する上司。

自分自身に苦笑。

「ちょっと待って、それこれから

 説明するとこやき」

新人のとき、そうやって

何度トレーナーに言われたことか。

逸る気持ちが空回りしないように、

しっかり吸収。

そんなことを思い、2週間が過ぎた。

 

 

 

 


不動産話と友人Aのこと

2017-07-26 | Living

新しく始めた仕事の業界は「不動産」

いままで全く知らなかった世界。

今は業務の勉強中。

勉強しながら、4年前にいなくなった

友人Aを思い出していた。

彼女は34歳でマンションを購入(契約)した。

 

私がAと初めて会ったのは2010年1月。

共通の友人に前々から

「絶対気が合うと思う」

と言われていて

複数名集まる飲み会の場で会った。

同い年で同じグループ会社で

学生時代吹奏楽部で

言われた通り気が合った。

それから数か月後に数名の飲み会で会い、

8月下旬にジョンウィリアムズの音楽の

コンサートに2人で一緒に行った。

それからはしばらく、SNSの投稿で

お互いの動向を知るくらいだった。

たまにネガティブな投稿を見ると

同業者として

「仕事大変なんだろうな、大丈夫かな」

と心配したりしていた。すると

2011年の夏、なんだか不穏な投稿を目にして

メールを送るも宛先不明で戻ってきて

不安に駆られ、共通の友人に連絡したりして

彼女に何とか連絡をとると、

拍子抜けするくらい普通に無事。

メールアドレスの連絡漏れだった。

「あれ?(変更メール)行ってなかった?」

 

 

それから2012年を迎え、

私の結婚も散った頃

たまたま、SNS上のやり取りをして

それで急きょ会うことに。

私と彼女は1駅隣という近さに

住んでいた。

そして、彼女の駅で待ち合わせ

電車に乗って志楽の湯という

温泉施設に行った。

久々&会うのが3回目ということもあり

「わかるかな?目印いるかなー」なんて

言ってたわりに、行先が温泉、という。

そこでたっぷり3時間。

不思議とのぼせなかった。

湯につかりながら私の話を聞いてもらい

Aの話を聞いた。

それからAの行きつけの串カツ屋さんにいき

私にしては珍しくカラオケへ。

「時代」を熱唱してた記憶がある。

その夜は彼女のうちに泊めてもらい

翌日はランチ、そして私の住む駅にある

温泉へ(!)、夜ご飯を食べて別れた。

密度の濃い、不思議な再会となった。

その日を境に、

私たちはよく会うようになった。

 

この再会の約束をするきっかけとなった

と思うのが、たまたまのメールでAが

「マンションを買った、春には引っ越さないと」

ということだった。

なんとなく、私には

Aが恋愛に興味なさそうに映っていたので

「お!一人で生きる決心をしたのね」

と月並みなことをリプライした。

 

”独身女がマンションを買う=結婚しない”

というステレオタイプなことを言った

浅はかな自分をいまでも切なく思い返す。

一人に戻ったばかりだったあの頃の私は

何となく仲間意識みたいな、

そんな気分もあったのだろう。

それに対しAは言った。

「ちがうよ。別に私諦めてない」

それからなんだか自分の境遇とか

Aの境遇とかやり取りしているうちに

「会おうよ」となったのだ。

 

 

彼女はマンションを買うにあたり

沿線、駅(街)の環境、駅からの距離、

いろんなことを考え、

いずれ売るにしても、貸すにしても、

売り手や借り手が付きやすいことで

選んでいた。

不動産関連の勉強をしている今、

それがぼんやりとわかる。

いま、そのことをAに伝えたい。

「すごいね。」と言いたい。

そんなことを思った日だった。

 

 

 


不惑の年に

2017-07-24 | Living

初めていった海外旅行は

1998年の香港だった。

それから、タイ、バリ島、ロス、イタリアなど

行って海外旅行は趣味のひとつになった。

そんな私に高校の同級生が言った。

「旅行という何日かで

 海外を知ったってつまらない」

 

27のとき、会社を辞めた。

そしてそれをきっかけに

海外に行ってみようと思った。

海外に行こうと思って会社を辞めた

のではなく、

会社を辞めて、どうしようか

と思っていたときに

「そうだ、旅行じゃなくて

 海外に住んでみたい」

とふとそんな考えが舞い降りて

行くことにした。

同級生の言葉が

ずっと引っかかっていたのかもしれない。

 

1年後に日本に戻り、

29のとき、またシステムエンジニアとして

働き始めた。

場所は地元高知ではなく、東京で。

仕事も、プライベートも楽しかった。

でもだんだん、

満員電車と休日までも仕事が気になる生活に

疑問を感じ始めた。

そして、2011年3月の

東日本大震災にあった。

幕張の20階建てのビルは

免震構造で崩れはしなかったけど

ゆらゆら大きく揺れて、壁は少しはがれた。

そして何より、心細かった。

町全体も暗く落ち込み心も沈んだ。

そんな日々の中で、仕事に対する疑問が

どんどん大きくなった。

そんなとき、それまで結婚願望がゼロの私が

結婚しようと誓い合う相手に出逢った。

33にして、初めて結婚が現実味を帯びた。

震災の影響は大きかったと思う。

震災婚なるものが増えたけど、

私たちもそのうちの1組だと

2人で笑いあった。

でもふってわいたこの浮かれ話は霧散した。

それも記入の終わった婚姻届を持ちながら。

目の前にあるいくつかの壁を

私たちは越えられなかった。

しばらくは、周りへの報告をするたびに

心が沈んだ。

「何があった」と聞かれても

ちゃんと答えられなかった。

「結婚ヤメタ」それだけだった。

でも沈んだ心は、

疑問に思っていたはずの仕事と

その仲間に救われた。

寝込むことも、泣き叫ぶこともなく

ただゆるゆると時は流れて私は

まったく病むことなく元気だった。

それはきっと、彼女Aのおかげもあった。

以前から知り合いだった同い年のAと

たまたま頻繁にやりとりすることになり

話を聞いてもらったことで

救われたのだと思う。

一緒に温泉につかったり、

パンケーキを食べたり、映画をみたり。

私の悲しさや辛さをAがくみ取り、

Aのやるせなさや悔しさを私が受け取った。

そんな2人の関係が1年10ヶ月ほど続いた。

いろいろ考えて、私は前に進むためにも、

高知に帰りたいと思い始め、

そんな中、ひょんなことで

Uターン転職があっさり決まり

高知に戻ることになった。

Aを置いて行くのは

ちょっと心配だったけど。

なぜならその頃、

彼女は私に少し依存していた。

わかっていたのに、私は手を離してしまった。

彼女は平気そうな顔をしていたけど、

ホントはいっぱいいっぱいだった、と思う。

私はもうすぐ36という頃に、高知に戻った。

そしてその1ヶ月後に

36の誕生日を迎えたAは、

約1週間後にいなくなった。

東京を離れる前日、

「またね」と言って別れたのに。

「東京来るときはホテルに泊まらないでね。

 私のところに泊まらないと許さないよ。」

と言っていたのに。

高知で仕事を始めたばかりの私は

涙を流す以外、何もできなかった。

どんなに涙を流しても、現実味はなかった。

 

東京にいたころ、彼女はよく言っていた。

「36の独身女はイタオモよ」

痛くて重い。

新しく恋愛を始めるには、

イタオモなんだ、と。

「そんなことないよ。まだまだ」

そんなことを笑い話にしながら、

ホントは一緒に歳を重ねたかった。

 

あれから私はUターン転職した会社を

2年で辞めた。

休みがとりづらくて自由度が少なかったこと、

経営者の考え方についていけなかったこと。

何よりそうやって

会社の不平不満を言いながら働くこと

それが、ストレスだった。

会社の不満そのものよりも、

愚痴っぽくなってしまうことが嫌だった。

地方の中小企業なんて

どこも旧態依然としていてストレスフル。

諦めて、とりあえず1年の

有期雇用の仕事をした。

働くことは嫌いじゃない。

働くなら、全力投球で楽しく働く。

そうして頑張ったら、その職場でも

ちゃんと評価してもらえ、

それらがまた自信になった。

1年だったけど、

素晴らしい人たちに出逢えた。

それも私の財産。

そして、人生の旅人(無職)のときも

「どうするの?ちゃんとしなよ」

とかも言わず見守ってくれた人たち。

「ちゃんと考えることができることを

 知っているから大丈夫」

と言ってくれた恩師に心温まった。

 

期間満了の仕事を終えてから、

クラウドワークスなど在宅の仕事なども

選択肢として考えた。

でもたまたま失業保険認定日で

ハローワークに行ったとき

合同面接会のチラシをもらった。

それが、先週から働き始めた新しい職場に入る

きっかけとなった。

 

何がしたいとかわからなかった。

スキルも極めているものはない。

でも、やってみたらできないことはない、

と思う自分がいる。

それは、これまでの経験からくる

自信のようなもの。

いつも前向きに全力投球する姿勢。

だから、入り口のドアを閉めないで、と思う(笑)

とりあえず仲間入りさせてくれたら

力を発揮します、と。

 

Coming 40にして、新しい分野のお仕事。

「不惑の年:狭い枠にとらわれることなく、

 物事を見ることが出来るようになり、

 何が起きても、それを受け入れる

 自由さを持つ」


働き初めて1週間が過ぎ、

まだ会社の業務とかを習得中。

向き不向きはわからないけど、

ダメだとは思わずに挑戦。

これまでだってずっとそうだった。

久しぶりにワクワクしている自分がいる。

どうなるかわからないけど、

不惑の年にもらったチャンス、

何が起きても、受け入れて前に進もう。

 願わくば

「大変だけど楽しいよ」

そういって働けたらいいと思う。


ぬけがら

2017-07-11 | kochi


セミの鳴き声はあまり聞かないけれど
数週間前から、ちらちらと
セミのぬけがらを
みかけるようになった。

いつの間にか
こんなところまで
よいしょよいしょと
よじ登って飛び立っていった
セミ。

地上に出てからが
圧倒的に短いセミの一生。


脱皮しても飛べずに転がっている
そんな姿も目にすることがある。

セミを見ると夏の始まりを感じ
鳴き声がわんさか聞こえる頃には
夏まっさかり。
子どもの頃の夏休みを思い出す。

うちから飛んで
どこかの木にとまり
楽しい一生を
送れますように。


父の誕生日

2017-07-08 | Living
今日は父の誕生日。
仲悪くないけど、
普段ほとんど会話をしない。

共通の話題は、愛犬ぽち。

何か趣味があるとか、
好きなもの(車とか服とか)とか、
そんなものもなくて、
たまにいく競輪の勝ち分は
すべて私たちに渡してしまう。

欲しいものは?と聞いても
何もない、と言う。
豪華なコース料理は苦手。
食べに行くなら
回転寿司か、ラーメンか、うどん。

そんな父だから
子どものときから、
誕生日や父の日の贈り物に
悩んだ。
好きな豆菓子とかおまんじゅうとか
数百円のものを渡したりしていた。


私はいままで、
何か決めるとき、何かあるとき、
たとえば
仕事やめる、とか
ニュージーランド行く、とか
仕事する、とか
東京に転勤になった、とか
高知に戻る、とか
いつも父に直接話したことはない。
母に話して
(それ自体も事後報告だけど)
母が父へ伝える。

口を利くのが嫌なほどキライ
というわけではない。

端からみたら、変かもしれない。
でも、これが私たちのスタンダード。

父が私に対して思ってること、
聞きたいこと、
それを口にされるのが怖くて
避けている、のかもしれない。

口にされると、
答えないといけないから。
嘘をついたり、ごまかしたりできないから。

自分でいろいろ考えて
でも答えが見つからなくて
聞かれると、困る。

その何かをずっと避けているのかも。


そんな私だから、
今日のこの父の誕生日には、
父が好きな駅のケンピを買い、
お昼は父が好きな焼きそばを作った。


アラフォー女子が贈るものではない。
でも、これがうちの父へのスタンダード。

そして、ホントは
一番望んでいることを
与えられない、
口にされると困ってしまう、
と避けている、そんな私は、
罪滅ぼしのごとく現金を渡す。

と言っても、諭吉さんではない。
父はこんな歳になっても
まだ娘からお金をもらうことに
抵抗がある。
だから、多すぎず少なすぎずの
折衷額。

でも、そのうち
答えを見つけたら
今度は父に直接報告しよう。

今月は、ぽちも誕生月。
保護犬なので正確なお誕生日は
わからないけど、おそらく7月。
16歳にして初めて
ぽちも誕生日ケーキ。


再会

2017-07-02 | Living

最近、とても懐かしい人との再会が続く。

4月に遡る出来事になるけど

楽団の友人の結婚披露宴に行ったときのこと。

受付のお手伝いをしたのだけど

そのとき、「担当のプランナーです」

と挨拶に来たのが

中学のときの同級生Sちゃん。

中学2、3年と同じクラス。

高校は違ったけど、高校生のときは

通学途中など会ったこともあった。

だから高校ぶりの再会。

20年以上たつのに、

会った瞬間、「あ!」となった。

そして、連絡先を交換し、

数日後、ランチに出かけ

昔の思い出話+20年の歴史を

語り合った。

その同級生と再会してほどなく、

道を歩いていたら、

中学の同級生Mちゃんに遭遇。

その子とは10年以上前、NZに行く前の

英会話スクールで再会していたので

Sちゃんの20年ほどではなかったけど、

それでもこんなばったりなんて。

高知は狭いとはいえ、おもしろい。

 

5月に初めてクルーズ船の通訳ガイドをしたとき

ガイド仲間の一人が高校のクラスメイトのお姉さん。

彼女の近況など聞いたり、不思議な感じ。

そして昨日のクルーズ船ガイドのときには

押し花教室ワークショップを

お手伝いしていた方たちの中に

高校のクラスメイトのお母さん

(小・中も一緒だったのでよく知っている)

と会った。

「cちゃんじゃないですか?」

と声をかけられてびっくり。

加えて、今回のガイド仲間のKさんに

「はじめまして」と挨拶して

しばらくしたときに

「あれ?」と引っかかるものがあり、

記憶が花開いた私は、

ややあって聞いてみると・・・やはり

10年ほど前、半年だけいたデザイン会社のときの同僚。

ちょうど、私が入ってすぐくらいに入ってきた人で

部署は違ったけど、彼女が元IBMということもあり

同じ元SE、そして関東にいた、

と会話をしたことなんかを

話しているうちにどんどん思い出した。

彼女もそのデザイン会社は半年ほどで辞めたらしく

お互いその少しの期間にご一緒した縁。

それがこんなところでまた再会するとは。

 

昨年の職場では、昔の知り合いの友人だったり

たどっていくと懐かしい人とつながっていったり

なんてことが多くあった。

 

この先、交わることもないだろうと

思っていた人や、

記憶の片隅に追いやられていた出会い。

そんな人と出逢い、

なんだか不思議な力を感じるこの頃。

単に、私が職場などもかわり

いろんな場所に身を置いていたから

それぞれで出会いがあったわけで、

いろんな人とつながっている、

というだけかもしれない。

 

それでも不思議だなあ、と思う一方、

いままさに薄れていく縁も確かにある。

だけど10年、20年、それ以上経って

また笑顔で逢える、そんな日も来る、

というものかもしれない。

 

あの道を通ったから

あそこに車を停めたから

あのお店に入ったから

だからこそ

会えた人もいるし

それゆえ会えなかった人もいる。

ただ、それだけ。


ダイヤモンド・プリンセス寄港

2017-07-01 | kochi


今年は頻度の高い客船の高知寄港。

朝~夕方の寄港の間、
オプショナルツアーとは別に
市街地にやってくる方たちのための
英語通訳ガイド。

ひょんな縁から
5月下旬に初めてトライし、
今日、2回目やりました。

前回より客層が若かったけど、
前回のときと同様、欧米の方が
大半を占める。

もっと楽しんでもらいたい。
もっと快適に過ごしてほしい。

ちゃんと伝えられてるかな、

もっともっと …

と、自分の力不足がうらめしい。

そして、ホントは
このビブスをつけてなくても
自然に声かけできるのが理想。


そういや、トルコでもマルタでも、
ニュージーランドでも、
地図を見ながら困ってると
親切に教えてくれる人たちは
別に観光ガイドさんなわけじゃなく
普通の街ゆく人たちだった。

そのためには、英語だけでなく、
高知のことも、もっと
ちゃんと知らないとな、
と思った、そんな1日。






高﨑元尚新作展~高知県立美術館

2017-06-30 | kochi

つい先日6/22に亡くなられた

高﨑元尚氏の作品展に行ってみた。

94歳で亡くなるまで、創作を続けた高﨑氏。

土佐中・高等学校の教諭として

「好きなことをやりなさい」を

モットーとして教えていたそうな。

 

高﨑元尚新作展~破壊COLLAPSE~

会場は2つに分かれていて、まず1の会場から。

入るとすぐにあるのがこれ。

そして

顔を出してみた。

 

 

 

そして会場2の方へ。

 

乗ることのできる破壊されたブロック。

 

この前の奈義町現代美術館と同じように

触れることのできる作品というのは、

美術作品を身近に感じることができる。

テレビや写真で見るのと違って

実際にその空間で感じることって

やはりあるんだな、と

芸術作品に造詣が深くない私でも

エネルギーというか

ここからくるパワーみたいな

そんなものを得た。

 

「誰もやらないことをやる」とか

「英語の勉強をし続けた」とか

94歳!うーん。すごい。

すごい人はすごいんだな。

 

「破壊」を見て

ここからまた始まるモノを

想像する。

私もまたがんばろう。

 

 

 

 


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