ブログは久しぶり。
独身最後のひと月は、ほんとにばたばたと過ぎていく。
3月19日、卒業式だった。
3年間受け持った子どもたち。この子たちを卒業させるのが念願だった。
・・・が、卒業式本番でも、練習なんじゃないかという気になり、不思議と
別れを意識することはなく、2年前のように号泣することもなかった。
式が終わって教室に返っても、いつもどおりはしゃいでいるだけで、
しんみりしないなーー、と思っていた。幼いなあ、って。
けれど花道を通り抜けた後、色んな子たちが手紙や手作りのお菓子、花束を次々に渡してくれ、その中にファイルが。
子ども達ひとりひとりからのメッセージがつづられたものだった。この子たちだけの力で、こんな立派なのを作れるようになったんだ。
いつのまにこんなことができるようになったんだろう・・・・
私が思ってるより、この子たちは成長してたのかもしれない。
実は卒業式の前日、おじいちゃんが亡くなった。
それで、私の感情はマヒしていたのだと思う。
亡くなった次の日が、これまた卒業式だった。
夜中子ども達へメッセージを必死で作る。
そして早朝、着付けへ。
で、卒業式。で、すぐおじいちゃんとこへ、みたいな。
おじいちゃんは、10月の手術で足が動かなくなった。
超亭主関白でおばあちゃんは私から見てもとても苦労していたけど
足が動かなくなった時点で、おばあちゃんは、今までのことを全部水に流せたという。
そこからは交代で、お見舞いに行っていた。
時々ものすごく苦しそうで見ていられないこともあった。
見舞いに行くと、おじいちゃんは色んな話をしてくれた。
アイスが食べたいと言って、食べさせてあげると「うまいわ~うまいわ~」
といって食べてた。スプーンを二つもらってきて、アイスの真ん中に線を引いて
私も一緒に食べた。
意識があるおじいちゃんと最後に会ったのは
創立記念日の日だった。
・時間には余裕をもって動け!
・東京に行っても幸せにならなあかん!
・添い遂げろ!
ということがおじいちゃんの私への遺言になった。
リハビリ室についてくるかといい、一緒にリハビリをさせてもらった。
わがままだったけど、結局いつもみんなの心配をしていた。
そしてそれが最後になってしまった。
突然脳内出血で意識を失い、そこから10日間生きた。
意識を失ったときは親戚じゅうが集まり、みんな泣いたけど、
生命力というか根性を最後まで見せてみんなを驚かせた。
呼吸をして、かすかに胸が動いていたのが、生きている証だった。
命の火が小さくなっていっているのは誰の目から見ても明らかだったけど、
もう苦しまなくていいんだなと思った、それだけが救いだった。
18日、親戚が私の結婚祝いをしに来てくれているとき、電話がなり、
とうとうもう危ないことを知った。
そして私たちが病院に向かう車の中で、息を引き取ったことを知ったのだった。
18日、19日、20日はおじいちゃんを家に連れて帰って
みんなで一緒に過ごした。
楽しい親戚達なので、おもしろいことを言っては大笑いし、
一日に何回かだけ、しんみりすることもあった。
「おまえらうるさい」っておじいさん絶対怒ってるやろなーーといいながら
3日間は、小さい頃のように、いとこや親戚のおばちゃん達と楽しく楽しく過ごした。
ずっとこのままやったらいいのに。もう葬式とかええやん。
と何度も言った。
お通夜の会場に行っても、楽しかった。
おじいちゃんはそこに寝ていて、親戚が集まっていつものように楽しく盛り上がってる、という感じ。あくまでおじいちゃんと一緒に過ごしている時間だった。
カラオケをしたこと、
竹馬を作ってもらったこと
作ったスイカを食べさせてくれたこと
入院したとき、テレビを買ってくれたこと
おじいちゃんが買ってきた天津甘栗
いろんなことを思い出した。
おばあちゃんほど、べったりといつも一緒にいたわけではないけれど
私は、確かにかわいがってもらっていたとわかる。
だから今日のお別れは、めちゃくちゃ悲しかった。
おじいちゃんとお別れして今思うことは、
こうやって、色んな人から愛情をかけて育ててもらって、
愛情をかけてくれた人はどんどんいなくなっていってしまう。
だから、せめて私は一日一日を大事に生きようと思う。
朝早く起きて、夜は遅くまで、親戚と過ごしたこの何日か。
これでまた、去りがたくなってしまった。
出発まで、10日を切った。
独身最後のひと月は、ほんとにばたばたと過ぎていく。
3月19日、卒業式だった。
3年間受け持った子どもたち。この子たちを卒業させるのが念願だった。
・・・が、卒業式本番でも、練習なんじゃないかという気になり、不思議と
別れを意識することはなく、2年前のように号泣することもなかった。
式が終わって教室に返っても、いつもどおりはしゃいでいるだけで、
しんみりしないなーー、と思っていた。幼いなあ、って。
けれど花道を通り抜けた後、色んな子たちが手紙や手作りのお菓子、花束を次々に渡してくれ、その中にファイルが。
子ども達ひとりひとりからのメッセージがつづられたものだった。この子たちだけの力で、こんな立派なのを作れるようになったんだ。
いつのまにこんなことができるようになったんだろう・・・・
私が思ってるより、この子たちは成長してたのかもしれない。
実は卒業式の前日、おじいちゃんが亡くなった。
それで、私の感情はマヒしていたのだと思う。
亡くなった次の日が、これまた卒業式だった。
夜中子ども達へメッセージを必死で作る。
そして早朝、着付けへ。
で、卒業式。で、すぐおじいちゃんとこへ、みたいな。
おじいちゃんは、10月の手術で足が動かなくなった。
超亭主関白でおばあちゃんは私から見てもとても苦労していたけど
足が動かなくなった時点で、おばあちゃんは、今までのことを全部水に流せたという。
そこからは交代で、お見舞いに行っていた。
時々ものすごく苦しそうで見ていられないこともあった。
見舞いに行くと、おじいちゃんは色んな話をしてくれた。
アイスが食べたいと言って、食べさせてあげると「うまいわ~うまいわ~」
といって食べてた。スプーンを二つもらってきて、アイスの真ん中に線を引いて
私も一緒に食べた。
意識があるおじいちゃんと最後に会ったのは
創立記念日の日だった。
・時間には余裕をもって動け!
・東京に行っても幸せにならなあかん!
・添い遂げろ!
ということがおじいちゃんの私への遺言になった。
リハビリ室についてくるかといい、一緒にリハビリをさせてもらった。
わがままだったけど、結局いつもみんなの心配をしていた。
そしてそれが最後になってしまった。
突然脳内出血で意識を失い、そこから10日間生きた。
意識を失ったときは親戚じゅうが集まり、みんな泣いたけど、
生命力というか根性を最後まで見せてみんなを驚かせた。
呼吸をして、かすかに胸が動いていたのが、生きている証だった。
命の火が小さくなっていっているのは誰の目から見ても明らかだったけど、
もう苦しまなくていいんだなと思った、それだけが救いだった。
18日、親戚が私の結婚祝いをしに来てくれているとき、電話がなり、
とうとうもう危ないことを知った。
そして私たちが病院に向かう車の中で、息を引き取ったことを知ったのだった。
18日、19日、20日はおじいちゃんを家に連れて帰って
みんなで一緒に過ごした。
楽しい親戚達なので、おもしろいことを言っては大笑いし、
一日に何回かだけ、しんみりすることもあった。
「おまえらうるさい」っておじいさん絶対怒ってるやろなーーといいながら
3日間は、小さい頃のように、いとこや親戚のおばちゃん達と楽しく楽しく過ごした。
ずっとこのままやったらいいのに。もう葬式とかええやん。
と何度も言った。
お通夜の会場に行っても、楽しかった。
おじいちゃんはそこに寝ていて、親戚が集まっていつものように楽しく盛り上がってる、という感じ。あくまでおじいちゃんと一緒に過ごしている時間だった。
カラオケをしたこと、
竹馬を作ってもらったこと
作ったスイカを食べさせてくれたこと
入院したとき、テレビを買ってくれたこと
おじいちゃんが買ってきた天津甘栗
いろんなことを思い出した。
おばあちゃんほど、べったりといつも一緒にいたわけではないけれど
私は、確かにかわいがってもらっていたとわかる。
だから今日のお別れは、めちゃくちゃ悲しかった。
おじいちゃんとお別れして今思うことは、
こうやって、色んな人から愛情をかけて育ててもらって、
愛情をかけてくれた人はどんどんいなくなっていってしまう。
だから、せめて私は一日一日を大事に生きようと思う。
朝早く起きて、夜は遅くまで、親戚と過ごしたこの何日か。
これでまた、去りがたくなってしまった。
出発まで、10日を切った。