沖縄へ行こう!

家族4人で沖縄へ行こう!

2022/06/28

2022年06月28日 20時06分00秒 | Weblog



子供のパンツ第二弾!
この前、3着作ったのだけどそれでも足りなかったので
5枚作ってみました。ヒロヒロさん、今回もありがとうございますーー!

まっすぐミシンで縫っているとき、心が静かーーーになりました。

夢中な時間は幸せです❤️

暑熱順化

2022年06月28日 10時09分35秒 | Weblog
相変わらず、無茶なことばっかりやっているようです。

今年の夏こそ、元気に過ごしたいのでウォーキングをしたり、テニスをしたり、

沖縄でキレイに写真にうつりたいからダイエットを始めてみたり。

午後にはダウンしてしまうのだけど、

それですべてをやめてしまうと、結局いつもとかわらない虚弱体質のまま、自分を責め続けることになる。

だからって。ねえ。

おひるごはんをかき氷で済ませてはいけないし、

10時半近くまで計算問題に付き合って頭をフル回転させていては睡眠の質も悪くなるだろし。

太平洋高気圧が真夏のようにでばっているような日に、朝からテニスをするのも、よくなかったね。

吐きそう、と思いながらテニスをするなんて、現役のすることです。

あれから四半世紀たってるから。


友達に話すとどうも無茶をしているようなので、無理なく1日を送れるような暑熱順化、したいものです!

34度を超えたら、順化なんかできるのか?という気にさえなるけれど、

私はこの夏は、沖縄へいきたいのだ!シュノーケルをするのだ!!自転車をこいで、朝日も夕日も見に行くのだ!!



琵琶湖でサップも。


障害者の避難に役立ちたい

2022年06月16日 11時58分00秒 | Weblog
今まで私もという人間は、人に助けられ助けられてようやく生きてこれました。

でも人を助ける余裕がなく‥て思ってたけど、そんなんは心の持ちようやった。

私は、誰かを助けるという視点をもってなかった。事実。

けど、
神様がいるかどうか、正直わからないけど、
見えない力が働いてくれているのを、とてもとても感じる。おばあちゃんの亡くなったときから感じてる。

身近な人が亡くなる前後ってすごく、人生を左右するような視点や思考の変化のあることがある。

友達の話を聞いた。
それだけでも、ありがとう、すごい気持ちが楽になったよと言われた。

私は、障害のある子供がいる家族が災害にあったとき、役に立てるノウハウをもった防災士、予報士になる。

するとまた別の友達が、グループホームを作るからそこで避難しよう、と言ってくれた。

動いてる。確実に動いてる。

あとは私が難関を突破すること
この気持ちを忘れないようにすることだけだ。

あれから

2022年06月06日 20時59分25秒 | Weblog
おばあちゃんのお葬式が終わって。

あれから、なんだか元気だ。

コロナで、ガッツリ体を安られたからもあるだろうが、

昔から、おばあちゃんの家に行った帰りはいつも、自信に満ちた気持ちになったものだ。

私は、愛されていて、ここにいてよくて、幸せな人間なんだと。

日常に紛れてまたすぐ自信をなくす私だけど、

また数か月後には、同じような、満ち足りた気持ちになった。


そういう感じ。

わたしは、愛されてた。

それは、地面に大きく広がった根のように、私をきちっと立たせて、支えてくれる。

愛ってそういうものなんだなと、改めて思う。

おばあちゃん、ありがとうね。

ある瞬間から突然おばあちゃんがいなくなるのではなくて、

私の頭の中にはいつでもおばあちゃんとの記憶があって愛された記憶があって

それはいつまでも消えることはない。

私にとっては、それがわかるための3か月だったのかもしれない。

おばあちゃんが亡くなった

2022年06月06日 18時50分29秒 | Weblog
おばあちゃんが亡くなりました。

私にとっては、私の心の支えで、軸とも根っこともいえるものを作ってくれ、無条件な愛情を注いでくれた、おばあちゃんでした。

だからこそ、そのおばあちゃんが亡くなるなんてずっと昔から、あってはいけないことで、どう考えても、いつか来ることなのに覚悟も何もできない恐怖だった。

2月末体調を崩し、余命1か月と言われた。次電話がかかってきたらもう危篤だと。

私はパニックになって心が混乱して泣いて泣いて涙が止まらなかった。とうてい、受け入れられるものじゃなかった。

でも、

いい病院に移してもらったことで、

少しずつ、希望がもてる状態になった。栄養がとれる方法が見つかったと。

それまでは、コロナで一切会えなかったけど、

会えるようになった。

だからすぐに、会いに行った。

それでわかった。もう、おばあちゃんがだいぶ、終わりの近くにいること。

その皮膚や状態から、納得せざるをえなかった。

おばあちゃんはすごく健康な人だったので、長生きをして、最後の最後まで、その体を使い切ろうとしていると感じた。

そこから、3か月。字を声に出して読んだり、娘たちの名前を読んだり、自分の誕生日を言えるようになった。

驚異的な追い上げ!

これはもっともっと生きられるんじゃないかと、みんなが思っていたと思う。

まだ、回復する力がある。おばあちゃんの生命力に、人間てすごい。。。。と思わざるを得なかった。

そんなとき。5月下旬、シャリバン、ギャバン、私の順にコロナ感染。6月3日まで、家から出られない。

そんなとき、おばあちゃんの呼吸が弱くなっていると母から連絡があった。

母たちはすぐに駆け付けた。

1日ハラハラしながら病院にいたけど、落ち着いたので、今日は帰っていいと。

翌朝も、夜も、呼ばれては帰ってを繰り返したらしい。

そして5月30日、おばあちゃんが天国に召されましたと、母からライン。

不思議と。ああ、おばあちゃんもうしんどくないんだねと、思った。

おばあちゃんは、かっこよかった。生き様も、死にざまも、かっこよかった。

たくさんの愛情をありがとう。

でももう会えない。


また連絡があり、友引が一日あるため、お葬式が、3日だという。

「行けちゃうじゃん!」

ほんと???こんな奇跡あっていいの????


コロナ看病を、がんばろう。3畳半で。ギャバンの部屋で。

まずは、シャリバンが解放、続いてギャバン、そして3日、私は外に出られるようになって、

1時からの告別式に間に合うよう、色んな事を片付ける。

シャリバンを学校へ送る。

ギャバンの学校へ行き、今日まで販売の水着を購入、事務手続き、図書館へ本を返す。

約束の時間にギャバンを早退させ、自宅へ。

喪服に着替えて、ダッシュで大阪へ。

遺影・・みたくなかったけど・・大丈夫。

いよいよ対面。

ああ。

最後に会ったとき、すごく死に近づいたんだなと感じたけど、それでも、生きている人と、亡くなった人はものすごく違う。

もう、一段、ステージの違うところにいるんだなということに気づいた。

昭和と、平成と、令和を3年半、全部生きたおばあちゃんの一生が終わった。立派すぎるその人生。

おじいちゃんに会えた??

もう、しんどくないね。

懐かしい親戚に会って、しゃべっているうちに式は始まり、お経を聴いたり唱えたりしながら

おばあちゃんと過ごした時間に思いをはせる。

幸せな気分だ。よかった。おばあちゃんは与えられた命を全部生き切った。体がピンチなときも、ただただ耐えて

乗り越える姿を見せてくれた。みんなに愛されて囲まれて、幸せなおばあちゃん、よかった・・・。



ああまた、頭の中に、モヤがかかりはじめた・・・・

よくわからなくなる。なんだっけ。

お棺が真ん中に置かれ、最後のときがきてしまった。

モヤはかかっているものの、

私の内部が、悲鳴をあげてる。それにときどき負ける。

お別れしたくない。

さんざん泣いた私を、お棺を見送る間、ギャバンがずっと、背中をさすっていてくれる。

ギャバンがいてくれて、よかったな。

そこから先は、あっというま。

親戚とのおしゃべりの時間に助けられ、あれよあれよという間に、すべてが終わった。


帰りの高速は渋滞していて、15年前の喪服はきつくてきつくて、ボディコンみたいに体をしめつけ、苦しい苦しいと思い、15年前のパンプスは内側がとけて足が真っ黒になって、早くお風呂に入りたいなと思った。

ひとときも止まない、お葬式の感想や疑問の、ギャバンの話を聞き続けた。

連れて行ってよかった。ギャバンは、お線香すら知らなかった。たくさんの親戚の顔もしらずに育っている。

そして、私も、ギャバンの優しい手に救われた。

帰ったらYさんが塩をつまんで待っててくれた。

そして、「おばあちゃん、○○ちゃんが最後に会えるように、友引を一日入れてくれたんかなって」私の伯父が昨日のお通夜で

言ってくれてたことを知った。(友引に重ならないように式が一日のびた)

それでなんだか、涙が出た。

目に見えないものを信じられなくなっていた私だけど、

説明できない何かは、あるのかもしれないな、きっとあったんだと、思った。


一日が、終わった。