スニーカー履いて

‘猫’も歩けば・・・今日はどんな出会いが?

旧東海道・川崎宿②

2009-11-08 | 旧東海道


それではまた、東海道の旅を続けましょう
()


R15第一京浜道路沿いにあるお寺は
瑠璃山 真福寺
    
真言宗のお寺です。ご本尊の薬師如来は眼病などの病にご利益が
あると信仰されています。境内にある庚申塔(右上の画像)には
「寛文五年(1665)」の銘があり、市内最古で最大のものだとか。



旧東海道の道筋と京急線線路の中間辺りの赤い鳥居は
川崎稲荷社

社殿が戦災で焼失し、創建年代は不明。現社殿と鳥居は
1951(昭和26)年再建されたものです。鳥居前の道は
「稲荷横丁」と呼ばれ、紀州藩主徳川吉宗公が江戸へ
入城される旅の途中に此処で休息されたと伝わります。



その少し先にあるお寺は
専修山 一行寺
    
閻魔様が祀られており、別名「閻魔寺」。江戸時代の
ご開帳日には境内に屋台が並んで賑わったそうです。



瑞龍山 宗三寺

宇治川先陣争いで名高い佐々木高綱がこの辺りを領して
いた頃、菩提寺として栄えました。その後衰微しましたが
戦国時代この地を知行した佐々木氏ゆかりの間宮氏が
中興し、その頃に臨済宗から曹洞宗に改宗したようです。

境内の墓地にひっそりと佇む遊女の供養塔
        
大正時代に川崎貸座敷組合がこの地で亡くなった遊女達の
供養のために建立したもので、台座には当時の見世(店)だった
玉木屋・豊多楼・三浦屋などの屋号が刻まれています。(画像左)
「紅燈巷女萬霊供養塔 川崎今昔会」とあります。(画像右)



街道沿いにある、なまこ壁の土蔵を模した建物は
砂子(いさご)の里博物館

川崎宿をテーマにした資料館です。約200年前の
宿場の縮小模型などの資料が展示されています。
日・祭日休館   入場無料

訪れたときは、「江戸から明治・大正・昭和の
浮世絵に見るお月見展」が開催されていました。
目の保養をしながら暫時休憩☆

歌川広重         小原古邨         葛飾北斎
        
二代目歌川国貞

歌川芳年

(いずれもパンフレットの写真から)


江戸から川崎宿までは四里半の道のり。
当時の女性の足でも、その日のうちにこの宿場まで
歩く者が多かったそうです。早朝に江戸を出立すれば
ちょうどお昼どき? 賑わう様子を想像しながら歩きました。
   
(続)

コメント (2)

武術太極拳フェスティバル

2009-11-07 | 雑記

「川崎宿」の続きはお休みして、今日は同じ川崎市内で
行われた太極拳フェスティバルに参加してきました。


フェスティバルは、多摩川に沿って広がる「等々力緑地」の
中にある「とどろきアリーナ」で行われました。

等々力緑地
敷地の広さが38万㎡もある県内屈指の大きな公園です。


園内には、サッカーJリーグ川崎フロンターレのホームスタジアム
でもある陸上競技場や等々力球場、テニスコート、屋内競技場の
「とどろきアリーナ」などの運動施設のほか、釣り池や日本庭園、
「ふるさとの森」など自然を楽しむことの出来る施設が揃っています。

これまで何度か訪れていますが、園内をゆっくり楽しむ
機会がまだ全然なくて・・・そのうちいつか!


フェスティバルが行われた「とどろきアリーナ」


メインアリーナとサブアリーナがあります。
メインアリーナ: 広さ2,872㎡ 天井の高さ20m 観客席6,500席
サブアリーナ : 広さ1,525㎡ 天井の高さ12m 観客席 340席

1階正面には、川崎にゆかりのある岡本太郎画伯の壁画
「風」


「マラソン」



   
フェスティバルは、神奈川と東京から20団体が参加して
メインアリーナを会場にさまざまな演武が披露されました。
    



私達の団体も「楊式太極拳」を表演しました。広い会場で
音楽に乗って、みんな気持ちよくのびのびと演じていました☆
(例の如く、画像は私達ではありません)

また特別表演として、神奈川武術隊の若い選手達による
凄い技が次々繰り出される溌剌とした演武がとても印象的でした。
(写真を撮りたかったのですが動きが速いのと、つい見とれてしまって・・)
   

今日は思いのほか暑かったですね?
いい汗かきました☆

コメント (2)

旧東海道・川崎宿①

2009-11-06 | 旧東海道

先日の品川宿の続きも気になってはいるのですが
今日は、その先の「川崎宿」を歩いてみようと思います。


京急「六郷土手」駅から小路を入っていくと、石の鳥居がありました。

止め天神


説明板によると;
この近くに将軍家指南役柳生家の留守居役の屋敷と厩がありました。
或る時、第8代将軍吉宗公のご乗馬が暴走しあわやというとき、将軍の
落馬を止めた北野天神のご加護にあやかったものと伝わります。
天神さまは学問の神といわれますが、また乗馬の神でもあるとか。

この天神さまの評判は旅人達によって広まり、大名・武士達が
「落馬止め天神」として信奉したそうです。いつしか名も「止め天神」と
呼ばれるようになり、災難がふりかかるのを止め願い事が決して落ちない
天神さまとして、今も多くの人々に親しまれているということです。



    

境内で、受験生のお孫さんのためにお参りにいらしたと
いう中年のご婦人にお会いして立ち話をしましたが、
これから、こうした受験生のお参りが多くなるそうです。
「決して落ちない天神さま」は心強い味方ですよね!

「学業成就塚」             「日本橋へ四里半」
    

「鶴亀石」
江戸時代 天神さまの祭礼の時に、氏子達が担ぎ上げて
力自慢を競ったという力石が残されていました。

村人達は千年石を「鶴さん」、万年石を「亀さん」と呼び
撫で合って生涯達者で働けるように願ったということです。


天神さまの裏手は、すぐ多摩川の土手です。


六郷橋
渡し舟の装飾がユニークですね!


記録に残る最初の橋は、1600(慶長5)年に初代将軍
家康公により架けられましたが洪水で流失。その後も架橋は
悉く失敗し、1874(明治7)年まで186年間 「六郷の渡し」と
呼ばれる渡し舟の時代が続いたということです

現在の橋は、1984(昭和59)年に架けられたもの。
(説明板の写真)


六郷橋を渡ると、いよいよ「川崎宿」に入ります。




川崎宿



「川崎宿」は、1623(元和元)年 第3代将軍家光公のときに
追加制定された宿場町です。街道筋には旅籠62軒をはじめ
さまざまな商いの店368軒が軒を連ねて賑わっていたそうです。

1761(宝暦11)年大火に遭い、その後も火災や地震・空襲と
度重なる災害で江戸の面影は全て焼失し、わずかに古寺の
石造物から往時を偲ぶだけとなってしまいました。

「万年屋跡」
(説明板より)

六郷の渡しから宿場に入ると、万年屋・新田屋などの旅籠や
茶屋がありました。奈良茶飯が名物の「万年屋」は宿場最大の
茶屋で、名物奈良茶飯はあの弥次さん喜多さんも食べたとか。
やがて宿泊もまかなうようになり、幕末には大名のほか皇女
和宮様や駐日総領事ハリス氏も宿泊したそうです。

「六郷渡れば川崎の~万年屋、鶴と亀とのよね饅頭~♪」と
歌っていた子供のころ、万年屋はお饅頭屋と思ってたなぁ(笑)


六郷橋を渡ってすぐ右手の道が「旧東海道」の道筋のようです。
    

街にはこんな案内板が掲げられてありました。
とても分かりやすく親切!


地図でおおよその位置を頭に入れて
さて、どっちへ行こうかな~?

(続) 

コメント (2)

病院へ

2009-11-05 | 雑記

‘木枯らし1号’やら‘初雪・初氷’やらのニュースが届き始めましたね。
急に冬が近いことを実感する今日この頃です。
(自作のイラスト「雪」を久しぶりに使ってみました~)
         
そんななか、今週初め市内の病院へ行ってきました。
といっても、どこか具合が悪くなったのではなく、この時期
恒例の季節性インフルエンザの予防接種のためです。


毎年近くの医院で受けていたのですが、先月予約のを入れると
「現在通院中の人しかお受けできません」と言われてしまいました。
ほかの心当たり数箇所の病院でも、回答は似たりよったりです。
えーっ!

この冬は、新型インフルエンザワクチンの製造が優先されるため
「季節性」ワクチンの製造は例年の80%程度だそうで、全国で
2,250万本と少なく、どこも予約が難しい状況になっているとか。
加えて今年は「新型」流行のせいで、みんなの予防意識が高まり
接種希望者が増えている可能性も・・(これは私の推測デス)

毎年やっていることをやらないのは どうも落ち着きません。

「11月に入れば○○病院で受けられる」と聞きつけたので
とにかく行ってみようと、この日の次第と相なったわけです。


で、当日のこと;
「受け付けて貰えた順に」と聞いたので、とにかく朝早めに家を出て
まずは初診受付カウンターで書類を書いて診察券を発行して貰い
広い院内を歩いて指示された場所まで行くと、入口に張り紙があり
「予防接種は10時からです。始まるまで入らないでください」と。
まだ2時間近くあるじゃないの・・・

病院の中で待つのはどうもねぇ・・と、近くのコーヒーショップで
時間を潰し、40分くらい前にさっきの場所に戻ってみると
あらら、すでに行列ができておりました。
ひぇ~!
病院慣れしていない哀しさ・・やることがすべてドジってます(苦笑)

慌てて列に並び、何とか‘№11’の番号札を貰いました。
窓口が開くのを待っている間にも続々と人が集まってきて
長い廊下のずーっと先まで、行列はどんどん伸びていきます。
通りがかったリネン運搬中のおじさんが、「今日は何事?」

「いったい何人まで受け付けて貰えるのかしら?」
「行列しても受けられないなんて、日本って先進国じゃなかった?」
「こんな事態は予想できたでしょうに・・何とかならなかったの?」
ガヤガヤ・・・ガヤガヤ・・・

やっと窓口が開き番号順に・・というより、みんな先を争うように
して受け取った書類に記入し、受付に提出したあと問診を受け
やっと接種を受けることができました。 ふぅ~疲れた・・


でも・・ご存知でしたか?
新しいインフルエンザの勢いが強いと、これまでのインフルエンザは
それに負けて駆逐されてしまう可能性があるそうですね。実際 過去に
「アジア風邪」と呼ばれたインフルエンザが流行した際、その前の「スペイン
風邪」は消滅し、その後「香港風邪」で「アジア風邪」は消えたそうです。

ということは?
今回の「新型」の猛威で、「香港」「ソ連」A型は消えてしまうかも・・
じゃあ、今日の‘お疲れさま’は無駄骨?
あら~

私たち、幸いにも健康体だから「新型」の接種は年明け以降。
それまでせっせと「うがい&手洗い」で自衛しなくちゃいけないのね・・


コメント (2)

いつもの海岸

2009-11-04 | 散策

    
いつもの海岸通りを散歩しました。


浜辺の鮮やかな黄色はイソギクですね。



今日は風が強くて白波が立っています。

沖に白波が立っている様子を、子供の時分には
「今日の海は白馬が跳んでる」なーんて言っていました。


こんな日は‘サーファー日和’なのでしょうか。

いつもほど数は多くありませんが、今日の人達はスゴく上手で
誰も‘沈没’なんかしません。 見ていても気分いいですね~
(速くてなかなかカメラで追えません・・笑)


    

カモメも飛ばされないように頑張って(?)いました。


キラキラ~


7,941歩の海岸散歩でした

コメント (2)

野毛散策

2009-11-01 | 横浜


京急線「日の出町」駅前の大通り
を左に歩いて行くと
通りに面したビルの前に美空ひばりさんの像
    
ひばりさんの本格デビューのきっかけとなった横浜国際劇場が
道路を隔てた向かい側辺りにあったそうです。


少し先の野毛坂交差点から、左手の坂を上って行ってみましょう。

交差点の角に、立派な石垣が続いています。
整然と並んだ亀甲がすばらしいです!
野毛山住宅亀甲積擁壁

幕末・明治期の実業家 平沼専蔵氏別邸跡の石垣で
建造は1890(明治23)~1893(明治26)年ごろとか。
横浜市歴史的建造物に認定されています。


石垣に沿って野毛坂を上っていくと、
こんもりした緑に包まれて庭園があります。
野毛山公園

嘗て生糸貿易で財を築いた豪商原善三郎氏・茂木惣兵衛氏の
屋敷があった場所が関東大震災で倒壊し、その後公園として
整備され1925(大正15)年に開園されました。戦後米軍の
接収を経て、現在のような市民憩いの場となっています。

芝生に寝そべる人やスケッチをしている人、小径を散歩する人、
ジョギングをしている人など思い思いに過ごしている人達がいます。

昔、子供の誕生記念に若木を1本この公園に寄付しました。
どの辺りだったか覚えてないけれど・・・今も元気かな?


「ラジオ塔」

ラジオの聴取契約者が100万人を超えたのを記念して
1932(昭和7)年にNHKによって全国41箇所に建てられた
もののひとつで、高さが3mあるそうです。


芝生広場の隅の形の良い石は、中村汀女さんの句碑

「蕗のたう おもひおもひの 夕汽笛」
汀女さんは1900(明治33)年熊本出身の女流俳人で、名は波魔子。
昭和初め 夫が横浜税関長に赴任し、横浜に住んでいらしたそうです。


佐久間象山の碑

碑の説明によると;
1854(安政元)年ペリー来航のとき、松代藩軍議役として横浜村に
いた象山さんは欧米との通商交易を献策。横浜開港に奔走し
今日の国際港都横浜発展の緒を作った人として、開国100年を
記念してここに建立されたものだということです。


石段を下りた所に、大きな池がありました。



隣接する動物園から飛んできたのかな?


野毛山動物園

1951(昭和26)年に野毛山遊園地として開園したもの。
規模は大きくありませんが、入園無料というのは嬉しいですね☆
園内に孔雀などが放し飼いになっています。


ショウジョウトキ
動物は動き回るので撮るのはニガテなのですが
あまりに綺麗な鳥だったので。



「ふれあい広場」はいつも子供たちに大人気。
ハツカネズミ・モルモット・ヒヨコ・・
小さかった子供を連れて何度か来たものでした。





歩道橋を渡って展望広場の方へ行ってみましょう。

展望台から「みなとみらい21」方面

雲行きが怪しくなってきたかな・・


野毛山配水池
横浜市の水備蓄の役割をもつ施設です。



1887(明治20)年日本初の近代水道が創設された際 最初の
浄水所があった場所で、それは大震災で壊滅したそうです。
現在もこの施設から一部地域に配水されているとか。

「近代水道発祥の碑」

水道創設100年を記念して建立された碑。
胸像は英国人のヘンリー・スペンサー・パーマー氏で
建設の顧問工師長として設計・監督に携わった方だとか。



とうとう落ちてきました~
大通りから一本入った野毛の小路を通って・・
    
9,253歩でした

コメント (4)