小田急・多摩線「栗平」駅は高台の駅。 南口を出て
住宅の間の階段を下りて行くと、谷戸の風景が広がります。
R137を跨いで進んで行くと
アオギリ
え、もうミカン?と思って近づいてみたら・・
カラタチの実でした
「 からたちの棘は痛いよ 青い青い 針の棘だよ
からたちも秋は実るよ まろいまろい 金のたまだよ ♪ 」
でしたっけ? ( 北原白秋 )
鼻歌交じりにぶらぶら歩いて行くと、立派なお寺がありました。
「稲荷山 常光寺」
浄土真宗のお寺。
創建: 1558(永禄元)年
開山: 乗念(親鸞上人の高弟で
成然・常念とも)
本尊: 木造阿弥陀如来立像
創建から400年余の古刹ですが、江戸中期に焼失してしまいました。
現在の建物は、明和年間(1764~1771)に再建されたもので
江戸時代の典型的な浄土真宗寺院建築様式を残す貴重なものとか。
道を挟んで竹藪・畑・民家が並ぶ 長閑な散歩道☆
ツルボ ルコウソウ
南方に大きな台風が来ているというのが、嘘みたいな青い空に
綿アメを手でちぎって飛ばしたような雲☆
新しい住宅が建ち道路ができ、開発が進められているようです。
この辺りの景観も、どんどん変わっていくかもしれませんね・・
今夕の空
夕食の支度をしていたとき キッチンの窓がいやに明るいので
ちょっと庭に出てみたら・・
西空を覆う一面の雲が金色に!
暫く 見ていると・・
みるみる 真っ赤っかに燃えだして ☆
大きな台風が近づいているとか・・・被害が心配です
京急がやっと復旧したのにナ
月下美人が また咲いてくれました
今年2回め ☆☆
今回は 蕾が全部で14
夕べ そのうち4つが咲き 今日も午後から 蕾がだんだん膨らんできて・・
咲くぞ 咲くぞ
夜 8時過ぎに
あっち向き こっち向き・・
家じゅう濃厚な香りが漂って もう酔っぱらってしまいそう (笑)
明日の夜も また咲きそうでーす
横浜駅隣のデパートで買い物をしたあと、
以前にもご紹介したことのある ビルの屋上庭園でちょっとひと休み
陽射しは強いけれど、木蔭を吹きぬける自然の風が
空調嫌いの‘猫’にはちょうどいい感じ☆
台風一過、暑さが束の間戻ってきた一日でしたね。
皆さまのお宅の方では、台風の被害はありませんでしたか?
「はなの国」に、コスモスは咲いたか見に行ってみましたが
100万本といわれるコスモス花壇は、まだ青々としていて・・・
10月に入ったら、また行ってみることにしましょう。
なワケで、今日は、久々に海岸まわり☆
「久里浜港」から
海水浴シーズンが終わった浜は静かで、の~んびりしています。
久里浜~千葉・金谷を結ぶカーフェリーが停泊中。
高い煙突は、東京電力の火力発電所でしょうか。
R212の東電正門前を過ぎてトンネルを抜けると、長ーい海岸線が続きます。
ふりかえって
「ビッドル広場」
ペリー来航の7年前の1846(弘化3)年、アメリカ合衆国東インド艦隊の
コロンバス号・ビンセンス号の2隻が、この海岸の数キロ沖合にやって来ました。
合衆国の公的使節として日本に通商を求めましたが、幕府がこの要求を拒絶。
艦船は引きあげて行きましたが、幕府の根幹を揺るがす衝撃的な出来事でした。
艦船は武器・乗員とも桁外れの大船で、備えた大砲は幕府が江戸湾に設置した
全ての台場の大砲を上回る数で、台場があまり役立たないことを思い知らされました。
停泊したのはこの広場の目の前だったといわれ、艦隊司令官の
提督の名前に因んで、「ビッドル広場」と呼ばれているそうです。
春先には水仙がたくさん咲き、広場いっぱいに芳香が漂います。
護岸工事が続けられています。
道の左右あちらこちらに、ヒガンバナが咲いていました。
あぁ、秋だなぁ~
16,381歩
今日は朝から雨のせいもあるでしょうが、
涼し~☆ うれし~☆
汗の心配がないと、俄然ヤル気が出ます
で、
お彼岸の「おはぎ」を作りました。
小豆を煮て粒あんを作り、もち米を炊いて半搗きにして・・
完成!
まずは ご先祖さまに
こちらは 生き神サマ用~♪
こんなにたくさんできちゃった!
一体 誰が食べるんだろ・・
海沿いの遊歩道を歩いて、R215「白山神社」バス停の先で右へ入ります。
「仲川橋」を過ぎると、右手に石の鳥居が・・
「白山神社」
祭神:伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)伊邪那美尊(いざなみのみこと)
嘗て白山比(ひめ)命を祭神とする「白山宮」が菊名海岸の浜の宮にあり
この辺りを領していた菊名左衛門重氏の守り神だったのを、江戸時代になり
現在の地に移したといわれています。 此処では、毎年 秋祭りのときに
神奈川県無形文化財指定の民俗芸能「菊名飴や踊り」が奉納されます。
社殿左から裏へまわると、背後の山の斜面に
「切妻造り妻入形横穴古墳」
内部は思ったより広く、奥行きもあります。
幅2.7m 高さ1.7m 奥行き5.4m
切妻風の天井や浮彫の柱など手の込んだ造り、壁面の朱塗り跡などから
奈良時代頃のこの地方の豪族の墓だろうと推測されています。
先程の道を更に進むと、右手に
「菊名山 法昌寺」
曹洞宗のお寺。
中興開山: 機宗禅師(逗子・海宝院)
中興開基: 長谷川七左衛門長綱
もとは「「潮客寺」と称するお寺でしたが、荒廃していたのを
江戸時代に代官となった長谷川氏が再興したといわれます。
琴音の磯辺の海中から浮き上がったという像高1尺3寸の
観音菩薩坐像が、本尊として祀られています。
門前に、古めいた石塔が1基。
「三浦札所 第九番」 「宝暦十二年(1762)」の刻銘。
当寺は、三浦三十三観音霊場第九番御札所です。
本堂の左側から裏手の墓地にまわると、最奥の岩肌に
やぐらがあり、複数の五輪塔が浮き彫りされています。
草木が覆い被さるように茂っていて判りにくいですが・・
鎌倉~室町時代頃の墳墓だろうといわれています。
古墳を利用した三浦一族の墓だとも。
「仲川橋」まで戻って、その先を右折。 すぐ左の山道を上っていくと
「菊名左衛門重氏碑」
菊名左衛門重氏は三浦氏家臣の武将で、北条早雲との戦で
三浦義同の孫 虎王を救出せんと奮戦しましたが無念にも討死。
昔 重氏の屋敷「浜の宮」があったとされ、今も「浜御殿」と呼ばれる辺りの
民家の裏に、五輪塔を祀る‘やぐら’があり重氏の墓と伝えられていました。
1922(大正11)年に現在地に移されたそうです。
さて再びR215に戻り、「白山神社」バス停から
京急バスで5つ目の「岩浦(いわぶ)」まで
バス停の目の前の階段を上ると・・
三浦義村は、三浦氏第6代当主で三浦義澄の子。 相模・河内・紀伊・土佐の
四ヶ国の守護や侍所司・御厩別当・評定衆などを歴任し、平安末~戦国時代に
関東で勢威を誇った三浦一族の中でもこの時期が最も隆盛を極めたといいます。
1239(延応元)年に病死。
伝「三浦義村墓」
この五輪塔は、関東大震災のときに崖が崩れて
海中に落ちたのを拾い上げて組み立てたといいます。
武将の兜のように見えますね。
「岩浦山 福寿寺」
臨済宗のお寺で、鎌倉・建長寺の末。
創建: 1212(建暦2)年
開山: 慶叔大考禅師
開基: 三浦駿河守義村
本尊: 聖観音菩薩(行基作)
本尊の観音菩薩坐像は、玉眼の寄木造で像高48cm。
胎内に、像高14cmの仏像を内蔵しているそうです。
1184(寿永3)年 一の谷鵯越の山道で道に迷ったとき、日頃信仰する
地蔵菩薩が現れて義村を導き、「この坂を下るべし」というお告げにより
叔父 和田義盛と共に坂を馳せ下って勝利に貢献したと伝えられます。
当寺の南 南向院には「勝軍地蔵尊」が祀られているそうです。
義村ゆかりの鞍や鐙が、寺宝として伝わっています。
今回の三浦一族ゆかりの地をめぐる旅は、ひとまず此処まで。
今日は途中でバスにも乗ったし・・
18,437歩
今日は晴れました~
前回に続き、今回は京急「三浦海岸」駅からスタートしました。
「三浦海岸」交差点からR134に入ってすぐの二叉路を左へ。
旧道らしい長閑な感じの道を歩いて行くと、ほどなく右側に
「閻魔堂」
金ピカの閻魔さまが祀られています。
境内の木陰で、どこかの飼い猫が長々と寝そべっていました。
傍らの小堂には、船に乗った「岩船地蔵」
たくさんの庚申塔も
なかでも、ひと際立派な明治32年建立のこの1基は
「青面金剛」と刻まれてなければ、お墓と見まがうような・・
やがて、行く手の右奥に
「正覚山 専求院 十劫(じゅうごう)寺」
浄土宗のお寺で、三浦不動尊第8番御札所。
開山: 厳誉(江戸芝・西応寺)
開基: 松原新左衛門(地元の豪族)
本尊: 阿弥陀如来
もと「真常寺」を、1615(元和元)年に松原氏が再興し改称したそうです。
寺前の大イチョウは、樹高20m 幹周り4.5m
三浦市の保護樹林となっています。
本堂左手の不動堂には、「笹塚不動明王」が祀られています。嘗て市内の
笹塚陣屋に祀られていた室町時代の不動尊で、像高76cm 玉眼寄木造の坐像。
1567(永禄10)年 北条氏綱が房州攻略の際、風雨のため方向を見失ったとき
土地の豪族 松原新左衛門が海岸で火を焚いてこれを助けました。松原氏はその
功により士分に取り立てられ、お礼に不動堂前で神楽を奉納したということです。
境内に、「マカセの墓」と呼ばれるものがありました。
マカセ網を使った漁法で魚を獲る漁師達が、魚を追って来て
この地に移り住み、「マカセ」と呼ばれていたそうです。
そうした人たちに所縁の墓標でしょうか。
「十劫寺」を出た所にも、9基の庚申塔が並んでいました。
形も建立時期もさまざまで、つい見入ってしまいました。
中で一番目を引かれたのが、明治5年建立のコレ☆
体に蛇(龍?)を巻きつけ、迫力みなぎる憤怒の形相!
踏みつけられた邪鬼の下に刻まれている三猿は
互いの耳・目・口を塞ぎ合った珍しいポーズです。
石工さんの遊び心かな?
海側に出て、R215を下って行きます。
砂浜沿いに続く舗装された遊歩道をブラブラと・・♪
「琴音岩」
三浦道寸義同が、その子荒次郎義意の家臣 菊名左衛門重氏とこの磯辺りに
通りかかると、どこからともなく美しい琴の音が潮風に乗って聞こえてきました。
その音に誘われ駒を進めると、それは海中の岩間から湧き出す清水の音で
言ってみれれば、まさに天然の水琴窟だったんですね。
道寸らが聞きほれていると、海中から1体の観音像が浮かび上がってきたとか。
それよりのち、ここは「琴音(根)岩」と呼ばれるようになったそうです。
折しも、乗馬クラブの人達でしょうか。 馬も人も気持ちよさそう~☆
三浦同寸さん達もこんなふうに・・・かな?
(続)
荘厳寺を後に 左へ坂を上り、右手に「津久井小学校」の
校舎を見ながら 車道を左の方へ歩いて行きます。
クリやナツメの実が たわわに実っていました☆
刈入れを終えた田んぼの向こうに、こんもりした小山。
「峰屋敷」
三浦大介義明の弟 津久井次郎義行が築いた「津久井城」跡です。
義行ー高行ー義道ー高重と4代にわたる居城でしたが、高重の時
「承久の乱」で京の上皇側についたため 滅んでしまいました。
現在は住宅や耕地になっていて、入ることはできないようです。
この辺りが「津久井」という地名の発祥だそう。相模原にある湖で有名な
「津久井」の地名は、義行の子 津久井為行が築城したのに因むとか。
辺りには イチゴ栽培のビニールハウスが並び、季節にはイチゴ狩りの
観光客や武山へのハイカーなどでにぎやかになるようです。
ハウスの向こうに、お寺が見えてきました。
「七宝山 医王院 東光寺」
真言宗のお寺。
縁起によると、天平年間(729~749)に僧 行基が諸国行脚の途次
この地に草庵を結び、地蔵像を祀ったことに始まるということです。
本尊は、行基作と伝わる高さ67.6cmの薬師如来。
ある夜の夢枕に三浦富士(武山)から来たという老翁が現われ
行基は、そのお告げに従って武山山頂に石室を設けて神を祀り
下山後に、薬師如来と日光・月光菩薩並びに十二神将像を刻み
一宇を建立して祀ったと伝えられています。
その後 荒廃していた寺を津久井義行が中興して祈願所とし、
三浦富士の鎮守として、明治初期の神仏分離までは11社の
神社を管理する名刹であったといいます。
1747(延享4)年に鋳造された 像高173cmの銅製の仁王像は、
資金捻出のために鶴見・総持寺に売り出され、さらに海外へと
転売される寸前のところで、無事に当寺に戻ることができたとか。
「賓頭盧像」
釈迦の弟子で神通力に優れ、「獅子吼第一」と称されました。
我が国では 「おびんずるさま」と呼ばれて、病を取り除く
撫で仏として親しまれている仏さまですね。
昔の面影をとどめているという 可愛らしい本堂の裏手には、
伝「津久井義行墓」
どれでしょう・・?
朝出かける時は晴れていたのに、早くも怪しげな黒雲が・・・
外干ししてきた洗濯物が心配・・・大急ぎで
撤収~~!
11,554歩
横須賀・ 「京急長沢」駅前に並ぶ一大マンション群の中を通り、
左の方へ抜けきって坂を下っていくと、読経の声が聞こえてきました。
「安戸山 荘厳寺」
臨済宗のお寺です。
創立: 年代不詳
開基: 岳雲禅師
本尊:十一面観音菩薩
本堂に祀られている不動明王像は、三浦大介義明の末子で『平家物語』の
「鵯越の逆落とし」の武勇で名高い佐原十郎義連の守護仏と伝わっています。
三浦一族最後の砦 三浦・新井城に祀られていたもので、運慶作ともいわれ
胸部に合掌する愛染明王像が納められていて、腹籠り不動とも称されます。
境内の六地蔵さんの前を通って石段を上ったところに、
「長藩田中則久墓」「安政」の刻銘のある墓石。
幕末の長州藩士が、どのような経緯で此処に葬られたのでしょうね・・・
門前に、こんな石柱が
当寺は、三浦不動尊第12番御札所であり
三浦地蔵尊第9番御札所でもあるそうです。
荘厳寺のすぐ前に、7基の庚申塔がズラリと。
(続)
珍しい花に出会いました。
空き家らしき家の塀の中に群生していました。
圧巻!!
大きな葉 燃え立つような鮮やかな緋色☆
高さ2mくらいの、初めて見る花です。
興奮して(?)ブレちゃった・・
「緋桐(ヒギリ)」という花だと 教えてもらいました。 クマツヅラ科
インド・東南アジアに分布している植物だそうです。
酒匂橋を渡りきって、その先の「ビジネス高校入口」交差点を左折。
突当たりにある案内図に従って進み、駐車場横の細い道を入って行くと・・
「新田義貞公首塚」
小さな児童公園の奥にありました。 ( 画像右手の石塔 )
建武中興の柱石 新田義貞は、1338(延元3)年 越前国(福井県)藤島で討死。
足利尊氏によって晒されていた首級を家臣の宇都宮泰藤が奪い、義貞の本国
上野国(群馬県)に葬るため東海道を下りましたが、不幸にもこの地で病に倒れ
やむなくこの地に首級を埋葬し、自身も此処で没したと伝えられています。
R1に戻って旅の続きを歩きます。
やがて「山王橋」を渡ると、橋のすぐ右側に
「山王神社」
祭神: 大山祇(づみ)命 少彦名命 大山咋(くい)命
もとは海辺近くにありましたが、暴風の高波で社殿が全壊したため
1613(慶長18)年 現在地に遷座されたということです。
「星月夜の井戸」
社殿の移転に伴って移され、再現されたもの。
奥に見えるのは、「林羅山歌碑」
神社でひと休みしてからまた歩いて行くと、道沿いに
「山王口は『江戸口見附』とも呼ばれ、小田原城から江戸に向かう出入り口で
あるとされています。 また、ここは東海道小田原宿の入口でもあり、江戸
日本橋から山王口までは、約83kmの距離となっています。」と。
「浜町二丁目歩道橋」袂の左側に
「江戸口見附並一里塚址」の標柱
(歩道橋からパチリ と ・・)
歩道橋を渡った右側に
小田原城江戸口見附であり、また江戸から20番目の一里塚でもありました。
『相模国風土記稿』には;
「江戸口の外南側にあり 高六尺五寸 幅五間ばかり 塚上に榎樹ありしが
中古槁(か)れ 今は松の小樹を植ゆ 古は双堠なりしに今隻堠となれり
けだし海道の革(あらた)まりし頃 一堠は海中に入しならん 」と。
1590(天正18)年 豊臣vs北条の小田原合戦の際は、町全体を約9kmの
堀や土塁で囲う総構えと呼ばれる戦国最大級の城郭が築かれていました。
この付近はその最南部にあたり、合戦の時 徳川家康は山王川の対岸に
陣を張っていたといいます。 江戸時代になって総構えは壊されましたが
東海道の東の出入り口として、重要な役割を担っていました。
(パネルの写真)
そのままR1を進み「新宿」交差点で左折、さらに右折していくと
「万町(よろっちょう)」
「町名は古くから『よろっちょう』と呼ばれ、町内には七里役所と
いう紀州(和歌山)藩の飛脚継立所があった。江戸時代末期には
旅籠が五軒あり、小田原提灯つくりの家もあった。」と。
このような昔の町名を刻んだ標柱が 街のあちこちに立っています。
説明を読んで、小田原宿の往時の様子を想像しながら歩く と
宿場歩きがさらに楽しくなるという おもしろい工夫ですね☆
この辺りには、ご当地伝統の商品を扱う老舗が点在しています。
明治初期創業の蒲鉾店
「かまぼこ伝統舘」の看板があります。
明治26年創業の鰹節店
「かつおぶし博物館」の幟が見えます。
このような「街かど博物館」が市内のあちこちにあり、見学しながら
スタンプを集めると、何やらいいものが貰えるとか。
ここも有名な蒲鉾の老舗
建物は大正13年に再築されたもので、看板は欅の一枚板とか。
230年続くという元祖小田原蒲鉾の店
通称「かまぼこ通り」を行ったり来たりしながら、
本日の〆は、やっぱりショッピングに~~♪ ♪
次回は、JR「小田原」駅周辺から市街をもう少し歩いてみようかな
国府津~小田原で、500mlの飲み物が4本
そして歩数は 26,227歩
国道1号線に戻って、西へと歩いて行きます。
「日本橋から79km」の標柱
沿道の所々に 松の木が植えられています。
暫く歩いていくと、
「小八幡三丁目」の信号を過ぎた左側に 目立たない説明板を発見。
「東海道小八幡の一里塚」跡
江戸・日本橋から19番目の一里塚が この辺りにあったようです。
「相模国風土記稿」には;
「東海道中の東にあり 左右相対せり 高二間 舗六七間 塚上に松樹あり 上は
小田原宿入口一里塚 下は淘綾(こゆるぎ)郡山西村小名梅沢の一里塚に続けり」と。
松並木が続いています☆
街道の右側に、目を引く木造建築☆
現役の建物のようです。「酒匂市民集会施設」とか?
いつ頃の建築でしょうか。中を見学したい誘惑にかられつつも・・
「酒匂三丁目」信号の右側、長い黒板塀に重厚な門構えの建物。
「社会福祉法人 ゆりかご園」とあります。
説明板のようなものは何もありませんでした。 帰宅後にweb検索して
みたところ、鎌倉時代 酒匂宿の旧川辺本陣跡と紹介されていました。
路傍の道祖神
今回もあちらこちらで、道端の道祖神を見かけました。
街道筋の左右にたくさんのお寺がありますが、何しろこの暑さ!
それに、一か所一か所訪ねていると日が暮れてしまうので・・・割愛
やがて、大きな酒匂川に架かる「酒匂橋」
その手前の右側に
「済度山 法船寺」
日蓮宗のお寺。
説明板によると;
日蓮上人が身延山へ向かう途中 酒匂川の増水で足止めされたとき、
老爺に化身した地蔵尊に導かれて 此処のお堂に一泊したといいます。
境内の地蔵堂には、御手引地蔵尊が祀られています。
五重塔は、1993(平成5)年に建立されたそうです。
ミニチュアではありますが、総檜造り本瓦葺の立派なもの。
酒匂橋手前の道を 川沿いに右へ少し行ったところに
「酒匂川の渡し碑」
酒匂川の渡しは東海道五十三次道中の難所の一つといわれ、古くは船渡しが
行われていましたが1674(延宝2)年に禁止。 徒渉(かちわたり)が施行されて
冬川(冬季)は仮橋が架けられて往来できましたが、夏川(夏季)は必ず有料で
川越人足の助けを借りて手引・肩車・輦台などで渡らなければなりませんでした。
この制度は、1871(明治4)年に廃止されたそうです。
2級河川 「酒匂川」
ここからの富士山の眺めを期待していたのですが・・・
今回も大ハズレ~ どうも富士山に嫌われちまったらしいや
川を渡って、小田原市街へと入って行きます。
(続)
ご無沙汰しておりマス(笑)
「白露」も過ぎたというのに、依然厳しい連日の暑さ・・
blog更新をついついサボっておりますが、
‘猫’はまずまず一応元気です
さて、朝晩は涼風が心地よく 虫の音も夜毎賑やかになってきた今日この頃
そろそろ遠出もよきかなと思って、旧東海道の続きに挑戦してみました。
前回に続き、 JR「国府津」駅からスタートします。
まずは、海にごあいさつして・・・今日も暑くなりそうだナ
いざ、出発~~
駅からほどなく、R1沿いの左側に 「御勧堂(おすすめどう)跡」碑
親鸞上人が教化の旅から京へ戻る途中、ここに草庵を結んで
7年間 地元の人々への教化活動を行ったということです。
そこから200~300m先の右側に
「勧山 信楽院 真楽寺」
浄土真宗のお寺。
その昔は、聖徳太子が建立したと伝わる天台宗のお寺でしたが
のちに住持の性順が、関東教化の帰途に立ち寄った親鸞上人に
帰依し、上人から寺号を与えられ改宗したといわれます。
帰命堂
上人が名号を書いたとされる「帰命石」が収められているそうです。
「帰命尽十方無碍光如来」(十字名号) 「南無不可思議光佛」(八字名号)
車の往来が激しいR1ですが
所々に街道らしい歴史を感じさせる家並も見られ・・
「岡入口」の信号で右折し、曽我街道に入ってみました。
JR東海道線と御殿場線のガードをくぐると、すぐに
「菅原神社」
創建: 伝994(正暦元)年
祭神: 菅原道真
天照大神ほか7柱を合祀
境内には、「とおりゃんせ」発祥の碑や曽我兄弟隠れ石などいろいろなものがあります。
「撫で牛」 「茅の輪」
ご神木のムクノキ
推定樹齢 800年 市の天然記念物になっています。
「新編相模国風土記稿」にも記録が見られるとか。
(続)