鎌倉駅西口から海蔵寺に至る道の途中に
「十六夜日記」の著者 阿仏尼のお墓と伝わる石塔があります。
道沿いにあるやぐらの中に
「阿仏尼墓」
安嘉門院に仕え、その後和歌・蹴鞠を家業とする藤原為家の
側室となった阿仏尼は、「続古今和歌集」など勅撰集に51首の
和歌を収載された優れた歌人だったということです。
彼女が亡くなった場所についての確証は無いそうです。
が、鎌倉に所縁のある冷泉為相の母として
供養墓がここに建立されたのかもしれませんね。
この辺り 扇ヶ谷は、駅周辺の賑やかさから少し離れて緑も
多く、落ち着いた雰囲気があるので時々歩きたくなります。
流鏑馬で知られる「武田流弓馬道教場」
いかにも鎌倉☆
化粧坂の方へ行ってみることにしましょう。
坂の途中、左側の崖に
「悪兵衛 平景清の墓?」
壇ノ浦の戦いに敗れ捕らえられた平家の武将 平景清が
鎌倉で首を刎ねられてこの地に葬られたと伝わります。
また別の説では、景清が入れられた岩屋(牢)跡だとも。
景清伝説には諸説あり、謡曲では;
屋島の合戦で「シコロ引き」の武勇の誉れ高い荒武者で
壇ノ浦の合戦の後、日向に配流の身となりますが
鎌倉からはるばる訪ねてきた娘の人丸と、奇跡的に
再会、そして永の別れをするのです。
「化粧(けわい)坂」
「気生坂」「木生坂」「形勢坂」などとも書かれたようです。
七口切通しのひとつで、嘗て鎌倉の出入り口として
中世山城の形態を持つ重要な防御地点でした。
1333(元弘3)年 新田義貞の鎌倉攻めの激戦地で、
義貞の大軍を以てしても、突破できなかったとか。
此処が、いかに重要な坂であったかが偲ばれますね。
短い距離ですが岩だらけの急勾配で、濡れて滑り易いので要注意。
この辺りは、紅葉の頃も綺麗です。(人も多いですが・・笑)
坂を登りきって左へ行くと、美男の頼朝公像が待つ「源氏山公園」、
右へ少し行った先で左の道を行けば、「銭洗弁天」へ。
左の道は人が多かったので、今日は右へ。
「葛原岡神社」を過ぎて道なりにどんどん歩き、昼なお薄暗い
木立を抜けて尚も行くと、小川に沿って住宅が静まりかえる山ノ内。
そのまま道を下って、やがて鎌倉街道に出ました。
右手に少し歩くと、JR「北鎌倉」駅です。
「光泉」の名物いなり寿司をお土産に
本日のお散歩は、16,475歩
萩の花で有名なお寺を訪ねてみました。
花はもうほぼ終わっていましたが、参拝客は大勢☆
「扇谷山 海蔵寺」
臨済宗建長寺派のお寺。
鎌倉時代は七堂伽藍を誇る大寺でしたが、幕府滅亡時に焼失。
1394(応永元)年 足利氏満公の命で、管領 上杉氏定が再建しました。
開山: 心昭空外(くうげ)禅師
「本堂」
木造 空外禅師坐像(南北朝期)が祀られています。
本堂の裏手には、斜面を活かした庭園
「仏殿(薬師堂)」
北鎌倉の浄智寺から移築されたものとか。
ご本尊の薬師如来坐像(啼き薬師)などが祀られています。
薬師如来は胎内に、禅師が土中から掘り起こした古い薬師仏の
仏頭が納められているとか。 60年に1度のご開帳。
子育てにご利益のある仏さまだそうです。
仏殿の裏手奥にある鎌倉期のやぐら(岩窟)の中に
「十六ノ井」
直径50cmほどの丸い穴16個。金剛功徳水と呼ばれる
湧水が、溢れることも涸れることもなくたたえられています。
穴は、弘法大師が独鈷で掘られたと伝わっていますが
納骨穴の跡ではないかともいわれます。鎌倉十井の一。
「十六の 井その名所や をほろ月 」 金子一峰
山門の右手にあるのは、
「底脱ノ井」
嘗て無着禅師が参禅された折、水を汲もうとして
卒然と解脱されたと伝わります。鎌倉十井の一。
「千代能が いただく桶の 底ぬけて 水たまらねば 月も宿らず」
安達泰盛娘 (上杉家尼との説も)
「桶の底」は「心の底」か?
「桶に水が溜まらなければ、心にわだかまりも無い」ということか?
現在は普通の溜池で、もちろん底があるようです。
今、夜の9時過ぎ。
部屋中に、濃厚な香りが漂っています。
今年2度目の‘美人’が、ちょうど開花したところです。
今回は、4人姉妹☆
濃厚な香りも ×4 !? 家中に漂っています
花柄の付き方が、ホントに変わっています・・
一夜限りの‘美人薄命’・・
絢爛と 咲きほこりたる 月下美人 一夜の命と 聞くがあはれさ
中島彦治郎
街なかを歩いているとき、あるお店のショーウィンドウに
展示されている 古いミシンに出会いました。
凝った形ですね! 右側に手回しハンドルがついています。
1880(明治13)年製
「シンガーミシン」といえば、言わずと知れた世界で最も古い
そして、世界で最もよく知られたミシンのブランドですね。
1850年にアイザック・メリット・シンガー氏が、実用ミシンの特許を
得て、「I.M.シンガー社(のちのシンガー社)」を設立しました。
1865年に開発されたニューファミリー型は、ハンドル1回転で
3針縫えるしくみのミシンで、その後もデザインを変えながら
世界中で400万台以上が販売されたそうです。
では、我が国とミシンの関わりはどうだったんでしょう?
1854年(嘉永7) あのペリーさんが2度目に来航した際に
徳川13代 家定公に贈ったのが、日本で最初のミシンとか。
日本で最初にミシンを扱ったのは、天璋院だそうです。
1877(明治10)年に西南の役が勃発。
政府は官軍の軍服を作る為、大量のミシンを輸入しました。
また、1880年頃から貴婦人達の間で夜会服が流行し始め
やがて宮中での洋服着用が認められるようになったのを
きっかけとして、洋服が徐々に普及していきました。
鹿鳴館時代になると、横浜・神戸でミシンが輸入・販売され
外国人から使用法を習得、次第に一般家庭にも広がりました。
当初は輸入品だけでしたが、やがてそれらの修理を通じて
技術を取得した日本人達によって徐々に国産を開始☆
1881(明治14)年 東京で開催された「第二回内国勧業博覧会」に
国産第1号ミシンが出展されたそうです。
そのほかにも、何台かの古いミシンが展示されていました。
これらは、大正時代(1912-1926)のシンガー・ミシン
これは、イギリス製の輸入ミシン
これは?
これは、足踏み式のミシン
これは「国産初期ミシン」とありますが、ハンドルがありませんね。
足踏み式かな? 何年ごろのものか、わかるといいのですが・・
‘猫’などは、古いミシンといえばせいぜい足踏みミシンしか知りませんが、
こうしてみると、ミシンの‘来し方’にも興味が湧きますね!
里山の秋
いつもの散歩コースも、景色はすっかり秋めいて☆
これは・・・山ブドウ?
高い所から、こぼれそうに鈴なりです
だいぶ色づいてきました
そろそろ季節ですね!
ジュズダマに黄色い花
刈り取られた稲が干されています。
あの黒い点々は・・・?
お米を狙って集まって来たスズメたちでした~
ネット越しじゃ、無理かな?
秋のお彼岸のころに咲くので「彼岸花」。
でも今年は、あの暑さでセンサーに狂いが生じたか
10月に入っても、まだあちこちで咲いています。
幼いころ、触れると死ぬ「死人花」だと聞かされ
知らずに触ってしまった自分はいつ死ぬんだろう・・と
本気で心配したことがありましたっけ(笑)
ひと気なき 畦に群れ咲く 曼珠沙華 毒気炎の 如く立つべし
木村流二郎
はるか昔、稲作文化と共に中国から渡来した花らしいですね。
突然 ニョキニョキと花茎だけが伸びて花を咲かせ
花後に葉が出てくるという変わりもの。
曼珠沙華 咲く野の日暮れは 何かなしに 狐がでると思ふ 大人の今も
木下利玄
ミステリアスで、そして どこか懐かしさのある花に
今年も出会うことができました☆