趙 昌仁(チョ チャンイン)
『あなたが虚しく生きた今日という日は
昨日死んでいった者があれほど生きたいと願った明日』
この韓国小説の題名の「カシコギ」、最初なんのことだろうと思った。
(プルコギならわかるけど・・笑)
「カシコギ」というのは、魚の名前だということが
この小説を読み進めていくうちにわかった。
カシコギのママは産卵したら、さっさとどこかへ行ってしまう。
その産卵された卵がやがて稚魚となり、独り立ちできるまで
ひたすら外敵から守り育てていくのがカシコギのパパだ。
しかし、パパのもとで守られながら育った子供のカシコギも
すぐに独り立ちできる日がやってくる。
子カシコギが旅立った後、役目を終えたパパカシコギは
石に頭をぶつけて死ぬ・・
このような習性のあるカシコギという魚。
この小説に登場する父親の子供に対する愛情、彼自身の生き方は
まさにこのカシコギパパの一生に酷似している。
白血病の息子を命がけで守り、絶え間ない愛情を注ぎ続ける父性の愛情を描いている。
息子を生かすためには、骨髄移植しかない。
そのためには多額の金額を必要とする。
その費用を作るために自分の角膜を売る父親。
そのお陰で息子は生還するが
父親はやがて自らの病、癌に冒され死すべき運命である。
あまりにも運命は残酷で、悲しい。
この小説はあくまでフィクションではあるが、
著者は、不治の病を患う息子を持つ知人の事をこの小説に書き記したということだ。
母の愛を記すドラマや小説は多いが
父の愛を男性の視点で描いているところが新鮮かもしれない。
最初、文頭に書いたフレーズにすごく感銘を受けて本を読み始めた。
でも、読み終えた今はこの本の最後に書かれてあるフレーズに心が揺さぶられる。
「人間は、自分の子どもを世に残す以上は、
死んだとしても、それはまったき死じゃないんだよ」
自分がいつかこの世を去るとき、
子供を一人でもこの世に残せること・・
このことは自分が生きた証であり、
その子の中に生き続けるということである。
『あなたが虚しく生きた今日という日は
昨日死んでいった者があれほど生きたいと願った明日』
この韓国小説の題名の「カシコギ」、最初なんのことだろうと思った。
(プルコギならわかるけど・・笑)
「カシコギ」というのは、魚の名前だということが
この小説を読み進めていくうちにわかった。
カシコギのママは産卵したら、さっさとどこかへ行ってしまう。
その産卵された卵がやがて稚魚となり、独り立ちできるまで
ひたすら外敵から守り育てていくのがカシコギのパパだ。
しかし、パパのもとで守られながら育った子供のカシコギも
すぐに独り立ちできる日がやってくる。
子カシコギが旅立った後、役目を終えたパパカシコギは
石に頭をぶつけて死ぬ・・
このような習性のあるカシコギという魚。
この小説に登場する父親の子供に対する愛情、彼自身の生き方は
まさにこのカシコギパパの一生に酷似している。
白血病の息子を命がけで守り、絶え間ない愛情を注ぎ続ける父性の愛情を描いている。
息子を生かすためには、骨髄移植しかない。
そのためには多額の金額を必要とする。
その費用を作るために自分の角膜を売る父親。
そのお陰で息子は生還するが
父親はやがて自らの病、癌に冒され死すべき運命である。
あまりにも運命は残酷で、悲しい。
この小説はあくまでフィクションではあるが、
著者は、不治の病を患う息子を持つ知人の事をこの小説に書き記したということだ。
母の愛を記すドラマや小説は多いが
父の愛を男性の視点で描いているところが新鮮かもしれない。
最初、文頭に書いたフレーズにすごく感銘を受けて本を読み始めた。
でも、読み終えた今はこの本の最後に書かれてあるフレーズに心が揺さぶられる。
「人間は、自分の子どもを世に残す以上は、
死んだとしても、それはまったき死じゃないんだよ」
自分がいつかこの世を去るとき、
子供を一人でもこの世に残せること・・
このことは自分が生きた証であり、
その子の中に生き続けるということである。