一気に春めいてきて公園の桃の蕾も膨らんできました。そんな季節の移り変わりに関係なくロシアとウクライナは不毛な戦いをやめようとはしません。当事者同士にしか判らない問題。かつて日本も同じ道を歩み手痛い被害を近隣諸国に与え、最後は敗戦を経験しました。
太平洋戦争を思い出すままに 開戦-空襲-疎開-終戦-戦後。(1)
「1945年3月17日神戸空襲編」
1941年4月に新しく出来た国民学校に入学、同年12月8日太平洋戦争が勃発しました。やがて戦況が厳しさを増し日本本土も米軍の空襲を受け始めました。開戦後目に見えて悪化したのは物資、特に食糧でした。給食のパンを頂くまで例え空襲警報が出てもパンの到着を待ちました。
最初の神戸空襲体験は1945年3月17日でした。空襲警報が出て灯火管制下、防空壕にも入らず当時建設途中の山麓弾丸道路の東側沿いにあった住居から外へ出ていると西の方の空が一瞬明るくなり街並みがクッキリと浮かび上がりました。後で判ったのは照明弾が投下されたという事でした。
そうこうする内に海岸方向に次々とB29らしき米軍機が襲来し焼夷弾を投下し始めました。焼夷弾は油脂焼夷弾で最初は火柱状のものが落ちて来て途中でパッと開くと中から焼夷弾が花火の様に散って落ちました。最初は暢気に遠目でキレイだと見ていました。
その内もうどこがどこやら判らないくらい煙が立ち込めてきて、何故か小雪が舞い始めやがて道路の西側のたばこ屋さんと米屋さんに焼夷弾が落ちてから北側にかけて落ちはじめあっと言う間に燃え広がり始めました。
その内の一個が自宅の石垣とモルタル張りの台所の間に落ち物凄い火柱が一瞬立ち上がりましたが勇気ある祖母が掛布団を投げて空気遮断しやっと消火出来ました。不幸中の幸いで今思えば1発だけのこぼれ玉で幸運だったとしか言いようがなく焼失は免れました。
中には自分達だけが家を放り出して裏山へ逃げ後で顰蹙をかったお宅もありました。当家は父が前年出征し、病気の祖父と元気な祖母、母、小生の4人一家でしたが、怪我もなく家も焼けずでした。朝になると焼け出された人々が坂の下から三々五々山の方へ逃げてこられ、隣家に井戸があり奥さんがその方々に水をあげておられました。
その奥さんは広い道路を隔てて焼けた家の煙が次の空襲目標になっては大変と道路を渡りバケツで消火しようとされましたが、徒労に終わりました。その焼け跡で前日夜に仕掛けた竈のお釜さんが無事でご飯が炊けていたという珍事もありました。
翌日か翌々日か定かではないが学校へ行くと、校庭にむしろを掛けただけの焼死体が数体置いてありました。子供だからむき出しの足を叩いたりしましたが、硬くていわゆる焼けぼっくい状態でした。3軒ほど南側のガラス屋さんのご主人は消防活動中に直撃を受けて亡くなられたと後で知りました。
祖母は親類の状態が気になったのか私を連れてまず有馬道で瀬戸物屋をしていた祖父の妹宅へ向かいましたがそこはまる焼けでした。もう一軒の山手の祖父の弟宅へ行く途中、今の神戸大学医学部附属病院の南側の溝にねんねこを着た赤ちゃんを背負ったままの母親が倒れていました。何故か大きな馬が焼け死んでいました。弟宅は無事で大阪で焼け出された親類が避難してきておりました。
私は一人っ子なので祖母が学校に掛け合ってすでに第一陣が集団疎開していたにも関わらず自宅にいました、この空襲で有無を言わさず集団疎開に行くことになりまだ一面焼け野原がくすぶり続けている中徒歩で神戸駅まで行きました。
途中湊川公園の歩道上にずらりと焼死体が無造作に置いてあるのを見ました。後で当時福原遊郭の女郎さんが逃げ出さないようにカギを掛けられて大勢焼死された方々だったと聞きました。今でもそこを通るたびに思い出します。つづく