あっと言う間に5日間が過ぎた大相撲、その間コロナ・ウクライナ・東北地震と話題に事欠かない昨今ですが、序盤戦を終わった大相撲大阪場所にも問題が… 上位陣は御嶽海、若隆景、阿炎関が夫々4勝をキープ、高安関が単独5勝をあげ、これからの優勝戦線が見えてきたかなという展開に。
一方あっけない負け方で2敗した横綱照ノ富士、やっと1勝した大関正大、カド番の大関高景勝も何となく不安定。TJ応援の隆の勝関も元気なくはや4敗。幕内中位下位では霧馬山、琴ノ若、千代の国、輝関が4勝。十両は翠富士、北の若、竜電関が5勝。王鵬、矢後関が4勝と続く展開に。
太平洋戦争の記憶「集団疎開編」
奇しくも昨日3月17日が最初の大規模な焼夷弾による神戸空襲の日でした。「神戸空襲を記録する会」に依ると大小阪神地区だけで100回以上の空襲があったようです。やがて全国主要都市すべてに広がり最後は広島、長崎への原爆投下でした。
地域戦争を除き平和が続いた世界にロシアがウクライナへ侵攻したニュースには心底驚きました。TVで見る限り空爆による被害は同じに見えますが、避難する人々はまだ落ち着きがみられるのが救いです。何故早く収束できないのか、TJには判りませんが、世界各国が国連の元もっと早く動けないのかイライラします。
あの恐ろしい空襲の後初めて親元を離れて未知の疎開先へ行くのに、まだ子供だったからか殆どの生徒は意外に明るくてまるで遠足に行くような気分で神戸駅から汽車に乗りました。お結びのお弁当まで頂き楽しく過ごし姫路へ到着。
姫路で姫新線に乗り換え岡山県勝田郡勝田町(昔は勝間田町)の正行寺さんに着きました。広いお寺の本堂に先に送った荷物や布団が着いていて大勢が雑魚寝状態でした。直ぐには馴染めなかったのがトイレ。戸外にしかなくって小は正門の横に、大はもっと離れた墓地の横に臨時の小屋状態でした。
正直いって当時の事は時系列的にはっきりとは記憶してません。授業は文字通り寺子屋式で本堂に並べられた座卓に座って、一緒に疎開した先生が一人でされました。当地の学校にも行ったような記憶が薄っすらとありますがそこで授業したかどうかは定かではありません。
キレイな桜並木があったことは覚えています。後街の中に古い木造の劇場があり、戦時中なのに宮城千賀子さんが主役の「歌ふ狸御殿」を見ましたね。ああこんな世界もあるんだと知り、その後から現在に至るミュージカル好きの原点だと思います。
戦況が厳しくなってあちこちから空襲・戦災の噂も漏れてきましたが、疎開地は安全に思われました。近くに津山と言う大きな街があり、時たま買い物に当番者が大八車を引いて徒歩で出かけました。
大八車と言えば近くに林野温泉があり、清潔を保つためこれも順番に出かけました。ここでの一番強烈な印象は広島に原爆が投下された少し後の事でした。この温泉は冷泉に近く長い時間浸かれます。ある日皮膚がボロボロ状態の方を見かけました。
今思えば被ばくされた方々だったのでしょう。「空気と触れると痛いから外へは出られない」と嘆いておられたのを覚ええいます。もう授業はいい加減になり簡単な勤労奉仕や、掃除に洗濯、食事当番等日常生活に明け暮れる毎日でした。
勤労奉仕で一番過酷だったのは「松根油」作り。何でも飛行機用の燃料に使うのだとかで、まず粘土を固めて日干し煉瓦を作り、乾くと積み上げて大きな竈を作る。生の切り倒された松の木を倒して割るのは多分村の方がされたのでしょう。
児童はその松の木の束を担いで山から村まで運ぶのですが、ひ弱で虚弱児童だった私には地獄の責め苦で辛くてよく泣きました。おまけに背よりもはるかに高い釜にその松の木をほり込んで炊き、上部に浮いた油をひしゃくですくって桶に入れ日干し煉瓦を積み上げた階段を下りるのも恐ろしかった。
後は叩いた繊維が軍服になるとかで「桑の皮むき作業」。子供ですから爪が割れて痛くて大変でした。一ついいことは桑の実が食べられたこと。でも帰ると口の中の検査があり、ばれると怒られました。まあお腹を壊す可能性があったからでしょうが…
後は川で洗濯したり泳いだり、風呂焚き当番の時に前日こっそり田んぼの水路に仕切りを仕掛けてドジョウや小魚を捕まえ、一人が見張りに立ちもう一人が風呂を焚きつつ十能で焼いてこっそり食べる楽しみもありました。
後炊事当番。寮母さんに口うるさくジャガイモ等の皮むきを、いかに薄く剥くか教えられました。これが身を助け今でも自炊が出来ます。後はそうですね。岡山県なのか勝間田町の配慮なのか不明ですが一日一回はお米のご飯が頂けました。
コメは玄米で近くの精米所に行きシーソーみたいな人力米搗き機でコメを撞いて持ち帰りました。又漬物の配給日には醤油蔵にある大きな樽に漬かった大根を貰いに行き、ぶよぶよしたぬか床に渡した木材の上から大根を引き出すのも怖かった。
甘いものに飢えていたので薬屋で甘い味のする薬を誰かが見つけ、嘘をついてセンセに預けていたお金を貰い買って隠れて食べました。後近くにあった軍の駐屯地の馬のエサになるハト麦や豆かすが駅に送られてきて俵積みになったいるのを盗んで風呂の当番の時に焦がして食べました。
そうこうする内に戦況が悪化し岡山市が空襲に遭い、次は津山だとデマが飛んでお寺さんは更に山奥へ避難され、供出で鐘のない鐘楼の下へ仏様などを埋められました。そんなある日予期せぬ出来事が…
祖父の体調が思わしくないとの事で祖母が迎えに来て一時帰宅しました。途中宝殿駅と加古川駅の間で空襲警報が出て初めて機銃掃射を経験しました。乗客は座席を外して列車の下に潜り外に座席を立てかけました。線路の小石をバッバッバッと跳ね上げて弾が撃ち込まれ生きた心地がしませんでしたが、幸い銃撃は一回だけでした。
家に着くと焼け出された親類が二家族来ていて賑やかでしたが祖父の姿がありません。祖母は笑って「あれはウソ、いっぺん連れて帰ってあげようと思って」と言い、祖父は須磨の一の谷で小屋を借りて疎開させた家具類の見張りをしてるとの事でした。
当時母は勤め先が休業してしまい親類の伝手で岡山県の西の方へ芦屋の学校の寮母として赴任していたので家族5人がバラバラ状態でした。一の谷の小屋は今の須磨ロープウエイの少し東の急坂を上がった所で、見た目立派な洋館がその時すでに廃屋になりつつあり、そこの番人さんが住んでいた小屋を借りていました。手入れしていない広い庭一面にバラが咲いていて子供でしたが夢のような、白昼夢を見ているような気持でした。最近一度訪ねてみましたが、一杯住宅が立ち並んでいるだけでした。
祖父は少し弱っているように見えましたが、その後疎開先に電報が来て危篤を知り急遽一人で帰宅しましたが6月5日に亡くなりました。丁度神戸の第二回目の爆弾空襲の日で葬儀屋さんも来ないし、仕方なく長持ちみたいな箱を近くの大工さんに改造して貰い急造の棺桶として大八車に載せて焼き場まで運びました。
個人の死者は個別に焼いてくれましたが、空襲で焼死した方はトラックで運び込まれ、焼き場の裏に掘った大きな穴へ薪とガソリンと遺体を交互に投げ入れて焼いていました。もうその時は悲惨だとも思わずビックリだけしたのを思い出します。
終戦は川で遊んでいた時に知りました。一番のいたずらっ子だった子供が「これや」と両手をあげて降参の形をして知らせてくれました。疎開先から帰ることが決まったのは9月末、センセは迎える人がいるなら適宜帰ってよろしと言われ、食べ物が無くなるまで全部食べようと飼っていたヤギさんまで潰して食べました。おかげで帰宅すると太っていたので驚かれました。
そんな田舎でもデマが飛んでもう姫路まで米軍が来ているとか、男は奴隷に女は外国へ売り飛ばされる等の話がまことしやかに語られていました。
ある日近くに駐屯していた軍隊の兵隊さんがなぜかお寺に来て小声で「今駐屯地の倉庫に穴が開いてるから取りに行き」と教えてくれました。半信半疑で数人で行くと確かに穴が開いていて缶詰類がぎっしりとありました。持てるだけ持って逃げかえりこっそり行李の中に隠し、農家さんに頼んで分けてもらった南瓜と一緒に持ち帰り喜ばれました。
私は誰もすぐに迎えに来てくれそうもないので、すぐ近所の子供のお母さんが迎えに来られたので頼んで一緒に帰りました。家には焼け出された家族がもう一家増えて2階に3家族がおられ賑やかでした。その内母も帰宅し家族は3人になりました。
焼け残った我が家があったので幸いでしたが、焼けた方の一部は焼け跡にバラック住宅を建てて住んでおられ、空き地は貸農園になっていました。ウクライナから近隣諸国に避難されている方々も、近々帰る事ができても灰燼に帰した故郷を見ると呆然とされるでしょうね。でもその苦悶が原動力となって日本も復興できたのですから、一日も早く戦争は止めて復興への道を歩んで欲しいと切に願います。(長文ごめんなさい)
公園の椿です。平和っていいですね。