”LAVIE EN ROSE”という名の私達ローズガーデン
私達は、狭小住宅の小さな庭に”LAVIE EN ROSE”という名のローズガーデンを造園して、多くのバラを植栽しました。そして、植栽したバラの品種について、系統、歴史に興味が出て来まして、調べるようになりました。
マダムジュールグラベロー
今回植栽した品種に”マダム・ジュール・グラヴロー”という品種があります。この品種の歴史を調べてみますと、このジュール・グヴロー(Jules Gravereaux)は、フランス人でした。そして、この人は、世界で最初のバラ園を造園した人物であるという事がわかりました。
そして、このジュール・グヴロー(Jules Gravereaux)の経歴について調べてみますと、非常に興味深い事がわかりましたので、ジュール・グラヴロー(Jules Gravereaux:1844-1916)について調べた事をご紹介します。
◆ ジュール・グラヴロー(Jules Gravereaux:1844-1916)に関して;
ジュール・グラヴロー(Jules Gravereaux:1844-1916) は企業家。早く会社を辞めて、引退してからは、自らバラ園を設立し、自らも育種を行ったバラ愛好家です。
1.生まれ
パリ南郊外のヴィトゥリ・スル・セーヌ(Vitry-sur-Seine)で、大工(家具職人とも)の息子として生まれました。12歳のときには帽子屋の小僧として働きはじめ、14歳のときアリスティッド・ブシコ夫妻(Aristide et Marguerite Boucicaut)が経営する服飾店、ル・ボン・マルシェ(Le Bon Marché:”美しいマーケット”) へ転職しました。
2.ル・ボン・マルシェ(Le Bon Marché:”美しいマーケット”): 世界最初のデパートでの勤務
Le Bon Marché
ブシコ夫妻ももとは帽子屋だったようですが、1852年に12人の店員を雇用していた大型の服飾品店ル・ボン・マルシェに資本参加して経営者となっていました。
夫妻は、価格を明示した定価販売と季節的なバーゲン、ていねいな顧客サービスなど、今日でも見られる大規模店舗の販売手法によりめざましい成功を収め、店はやがて大店舗となりました。
1877年、オーナーであるアリスティッド・ブシコが死去したときには、ル・ボン・マルシェは1,788名の従業員、年商7千2百万フランという大店舗となっていました。世界最初のデパートと呼ばれています。
今日でもパリ、セレブ向け高級品店が並ぶセーヴル通り(rue de Sèvres)の一画にに瀟洒なたたずまいをみせています。
3.Le Bon Marché : 世界最初のデパートでの勤務
小僧の時代からブシコ夫妻のもとで売り子として働いていたグラヴローは店舗の発展とともに昇級し幹部へと昇りつめました。アリスティッド・ブシコの死去後、後を受けて経営に携わっていた夫人も10年後の1887年に他界しました。
ブシコ夫妻は子供に恵まれず、遺産を継ぐ者がありませんでした。余命が残り少ないことを悟った夫人は店への貢献度に応じてル・ボン・マルシェの株を譲渡しました。このとき勤続30年ほどであったグラブローは余生を安楽に過ごせるのにじゅうぶんな資産をさずかることとなりました。
◆ ”ラ・ロズレ・ド・ライ(La roseraie de L’Haÿ:”ライ・バラ園”)の誕生
”ラ・ロズレ・ド・ライ(La roseraie de L’Haÿ:”ライ・バラ園”)の歴史: 動画
la Roseraie du Val-de-Marne
世界で最初のバラ園 ライ・レ・ローズへ L'Hay-les-Roses ライ・レ・ローズ
Read more at: http://jp.france.fr/ja/news/70244
ライ・レ・ローズ http://paris.navi.com/miru/205/
ライ・レ・ローズ: フランスのパリ近郊のバラ園 http://utokazan.jp/Flhayroses.htm
フランスのバラの街、ライレローズのバラ園、正式名は『ヴァル・ドゥ・マルヌ県のバラ園』
1892年、グラヴローは48歳の時には、やばやと退職し、パリ南郊のライ(L’Haÿ)に広大な土地を購入し居館としました。
すでにアマチュアのバラ愛好家として名をはせていましたが、引退後のグラブローはすぐにバラ蒐集にとりかかったわけではありませんでした。
はじめは、写真に熱中し、ほとんど外気にあたることがなかったようです。写真、カメラは、当時の最先端のハイテクの商品でしょうか?今の時代でしたらパソコンにあたるのでしょうか?
写真で室内に閉じこもるグラヴローの健康を心配した夫人がグラヴローに庭造りをすすめたことがきっかけで、バラのコレクションを行うようになり、すぐに集めた品種数は1,600に達したと伝えられています。
写真で室内にずっと閉じこもっていたグラヴローにとっては、戸外で栽培するバラの美しさにきっと魅了されたのでしょう。私も外に出るのが嫌な時期がありましたので、戸外で栽培するバラの美しさに感動した、このグラヴローの気持ちが非常に良くわかります。理解できます。
1899年、その後、集めたバラの管理に困ったグラヴローは、庭園設計家のエドワール・アンドレ(Edouard André)にバラ園の設計を依頼しました。
これがバラのみを展示することを目的とした世界最初の庭園、”ラ・ロズレ・ド・ライ(La roseraie de L’Haÿ:”ライ・バラ園”)の誕生物語です。
◇ 当時の世界のバラ園
1. Roseraie val-de-marne1
これより少し前、1890年ころには“バラ伯爵”ショテックのバラ園がつくられていました。
2. ザンガーハウゼン・バラ園(Rosarium Sangerhausen)
そして、1903年、ペーター・ランベルトなどの尽力によりドイツにザンガーハウゼン・バラ園(Rosarium Sangerhausen)が創立された。
◇ ◇ ◇当時のヨーロッパにおける三大バラ園がほぼ同じ時期に設立されたことになります。
■ その後のジュール・グラヴロー
グラヴローはもともと何事にも熱中するタイプの人間だったようです。国を代表するバラ会の名誉会長に任命されたり、みずからも育種をはじめるな どしてバラ愛好家のあいだに盛名をはせるようになりました。
その後もジュール・グラヴロー(Jules Gravereaux)のバラのコレクションは増え続け、1902年には園芸種4000、原種900(亜種を含む?)に達しました。
更に、彼の槐集熱は冷めることなく、1910年には園芸種、原種をあわせ8000種に及びました。その管理および展示のため、同年、バラ園の拡張に取組み今日の姿となりました。
1916年、グラブヴーは卒去しましたが、バラ園はさらに発展し、世界中のバラ愛好家を迎えています。(”La Roseraie du Val de Marne”)
ジュール・グラヴローは、かなりの数のバラを夫人、娘へささげられています。グラヴロー自身が育種した品種も少なくありません。
■ジュール・グラヴロー夫妻は、私達に似ている??
ジュール・グラブローの事を調べて行きますと、似たような点があり何だか不思議に私と妻のように思えてきました。
1.何事にも熱中するタイプの人間: 私も熱中すると、とことんまで、極めないと気が済まない性格です。
2.写真で室内にずっと閉じこもっていた: 私も障碍を持って、一時期、自宅の庭に出るのも嫌な時期がありました。
3.会社を辞めてローズガーデンを造園した: 私も定年退職を前にローズガーデンを造園した
4.バラ収集にのめり込んで行った:私も、狭小住宅の狭い庭ですが、バラ収集にのめり込んで105種類のバラを植栽しています。
5.夫婦でバラ栽培をした: 私も妻と夫婦でバラ栽培をしています
相違点:
1.ジュール・グラヴローはパリ南郊のライ(L’Haÿ)に広大な土地を購入して広大なローズガーデンを造園し8000種を栽培。私達は狭小住宅の狭い庭で105種を栽培
2.ジュール・グラヴローは、資産家、私達は、????人
■マダム・ジュール・グラヴロー(Mme. Jules Gravereaux)- 1900年
Mme. Jules Gravereaux大輪、40弁を超える、花芯に湾曲した花弁が密集するロゼッタ咲き、または、クォーター咲きとなる花形。
ティー・ローズに典型的な、つんと尖ったつぼみは、開花すると、イエローの色合いが濃い、アプリコットの花色となります。
3m高さほどになる、比較的やわらかな枝ぶりのティー・ローズ・クライミングです。
温暖な気候を好み、気難しいところがあることが多いティー・ローズですが、そのなかにあって、このマダム・ジュール・グラブローは、比較的健常な品種として知られています。
ルクセンブルグのスペール・エ・ノッタン(Soupert et Notting)により育種されました。
ミディアム・イエローのノワゼット、レヴ・ドール(Rev d’Or)と、淡いピンクのHT、ヴィスコンテ・フォルケストン(Viscountess Folkestone)との交配によるとされています。
■ 参考出典サイト:下記
バラ咲く庭の物語
http://ggrosarian.minibird.jp/
ジュール・グラヴロー(活動時期:1892-1916)
http://ggrosarian.minibird.jp/?page_id=5140
記録
天気:晴時々曇
最高気温(℃)[前日差] 34℃[+2]
最低気温(℃)[前日差] 24℃[-2]
挑戦者とカメラマン(妻)
私達は、狭小住宅の小さな庭に”LAVIE EN ROSE”という名のローズガーデンを造園して、多くのバラを植栽しました。そして、植栽したバラの品種について、系統、歴史に興味が出て来まして、調べるようになりました。
マダムジュールグラベロー
今回植栽した品種に”マダム・ジュール・グラヴロー”という品種があります。この品種の歴史を調べてみますと、このジュール・グヴロー(Jules Gravereaux)は、フランス人でした。そして、この人は、世界で最初のバラ園を造園した人物であるという事がわかりました。
そして、このジュール・グヴロー(Jules Gravereaux)の経歴について調べてみますと、非常に興味深い事がわかりましたので、ジュール・グラヴロー(Jules Gravereaux:1844-1916)について調べた事をご紹介します。
◆ ジュール・グラヴロー(Jules Gravereaux:1844-1916)に関して;
ジュール・グラヴロー(Jules Gravereaux:1844-1916) は企業家。早く会社を辞めて、引退してからは、自らバラ園を設立し、自らも育種を行ったバラ愛好家です。
1.生まれ
パリ南郊外のヴィトゥリ・スル・セーヌ(Vitry-sur-Seine)で、大工(家具職人とも)の息子として生まれました。12歳のときには帽子屋の小僧として働きはじめ、14歳のときアリスティッド・ブシコ夫妻(Aristide et Marguerite Boucicaut)が経営する服飾店、ル・ボン・マルシェ(Le Bon Marché:”美しいマーケット”) へ転職しました。
2.ル・ボン・マルシェ(Le Bon Marché:”美しいマーケット”): 世界最初のデパートでの勤務
Le Bon Marché
ブシコ夫妻ももとは帽子屋だったようですが、1852年に12人の店員を雇用していた大型の服飾品店ル・ボン・マルシェに資本参加して経営者となっていました。
夫妻は、価格を明示した定価販売と季節的なバーゲン、ていねいな顧客サービスなど、今日でも見られる大規模店舗の販売手法によりめざましい成功を収め、店はやがて大店舗となりました。
1877年、オーナーであるアリスティッド・ブシコが死去したときには、ル・ボン・マルシェは1,788名の従業員、年商7千2百万フランという大店舗となっていました。世界最初のデパートと呼ばれています。
今日でもパリ、セレブ向け高級品店が並ぶセーヴル通り(rue de Sèvres)の一画にに瀟洒なたたずまいをみせています。
3.Le Bon Marché : 世界最初のデパートでの勤務
小僧の時代からブシコ夫妻のもとで売り子として働いていたグラヴローは店舗の発展とともに昇級し幹部へと昇りつめました。アリスティッド・ブシコの死去後、後を受けて経営に携わっていた夫人も10年後の1887年に他界しました。
ブシコ夫妻は子供に恵まれず、遺産を継ぐ者がありませんでした。余命が残り少ないことを悟った夫人は店への貢献度に応じてル・ボン・マルシェの株を譲渡しました。このとき勤続30年ほどであったグラブローは余生を安楽に過ごせるのにじゅうぶんな資産をさずかることとなりました。
◆ ”ラ・ロズレ・ド・ライ(La roseraie de L’Haÿ:”ライ・バラ園”)の誕生
”ラ・ロズレ・ド・ライ(La roseraie de L’Haÿ:”ライ・バラ園”)の歴史: 動画
la Roseraie du Val-de-Marne
世界で最初のバラ園 ライ・レ・ローズへ L'Hay-les-Roses ライ・レ・ローズ
Read more at: http://jp.france.fr/ja/news/70244
ライ・レ・ローズ http://paris.navi.com/miru/205/
ライ・レ・ローズ: フランスのパリ近郊のバラ園 http://utokazan.jp/Flhayroses.htm
フランスのバラの街、ライレローズのバラ園、正式名は『ヴァル・ドゥ・マルヌ県のバラ園』
1892年、グラヴローは48歳の時には、やばやと退職し、パリ南郊のライ(L’Haÿ)に広大な土地を購入し居館としました。
すでにアマチュアのバラ愛好家として名をはせていましたが、引退後のグラブローはすぐにバラ蒐集にとりかかったわけではありませんでした。
はじめは、写真に熱中し、ほとんど外気にあたることがなかったようです。写真、カメラは、当時の最先端のハイテクの商品でしょうか?今の時代でしたらパソコンにあたるのでしょうか?
写真で室内に閉じこもるグラヴローの健康を心配した夫人がグラヴローに庭造りをすすめたことがきっかけで、バラのコレクションを行うようになり、すぐに集めた品種数は1,600に達したと伝えられています。
写真で室内にずっと閉じこもっていたグラヴローにとっては、戸外で栽培するバラの美しさにきっと魅了されたのでしょう。私も外に出るのが嫌な時期がありましたので、戸外で栽培するバラの美しさに感動した、このグラヴローの気持ちが非常に良くわかります。理解できます。
1899年、その後、集めたバラの管理に困ったグラヴローは、庭園設計家のエドワール・アンドレ(Edouard André)にバラ園の設計を依頼しました。
これがバラのみを展示することを目的とした世界最初の庭園、”ラ・ロズレ・ド・ライ(La roseraie de L’Haÿ:”ライ・バラ園”)の誕生物語です。
◇ 当時の世界のバラ園
1. Roseraie val-de-marne1
これより少し前、1890年ころには“バラ伯爵”ショテックのバラ園がつくられていました。
2. ザンガーハウゼン・バラ園(Rosarium Sangerhausen)
そして、1903年、ペーター・ランベルトなどの尽力によりドイツにザンガーハウゼン・バラ園(Rosarium Sangerhausen)が創立された。
◇ ◇ ◇当時のヨーロッパにおける三大バラ園がほぼ同じ時期に設立されたことになります。
■ その後のジュール・グラヴロー
グラヴローはもともと何事にも熱中するタイプの人間だったようです。国を代表するバラ会の名誉会長に任命されたり、みずからも育種をはじめるな どしてバラ愛好家のあいだに盛名をはせるようになりました。
その後もジュール・グラヴロー(Jules Gravereaux)のバラのコレクションは増え続け、1902年には園芸種4000、原種900(亜種を含む?)に達しました。
更に、彼の槐集熱は冷めることなく、1910年には園芸種、原種をあわせ8000種に及びました。その管理および展示のため、同年、バラ園の拡張に取組み今日の姿となりました。
1916年、グラブヴーは卒去しましたが、バラ園はさらに発展し、世界中のバラ愛好家を迎えています。(”La Roseraie du Val de Marne”)
ジュール・グラヴローは、かなりの数のバラを夫人、娘へささげられています。グラヴロー自身が育種した品種も少なくありません。
■ジュール・グラヴロー夫妻は、私達に似ている??
ジュール・グラブローの事を調べて行きますと、似たような点があり何だか不思議に私と妻のように思えてきました。
1.何事にも熱中するタイプの人間: 私も熱中すると、とことんまで、極めないと気が済まない性格です。
2.写真で室内にずっと閉じこもっていた: 私も障碍を持って、一時期、自宅の庭に出るのも嫌な時期がありました。
3.会社を辞めてローズガーデンを造園した: 私も定年退職を前にローズガーデンを造園した
4.バラ収集にのめり込んで行った:私も、狭小住宅の狭い庭ですが、バラ収集にのめり込んで105種類のバラを植栽しています。
5.夫婦でバラ栽培をした: 私も妻と夫婦でバラ栽培をしています
相違点:
1.ジュール・グラヴローはパリ南郊のライ(L’Haÿ)に広大な土地を購入して広大なローズガーデンを造園し8000種を栽培。私達は狭小住宅の狭い庭で105種を栽培
2.ジュール・グラヴローは、資産家、私達は、????人
■マダム・ジュール・グラヴロー(Mme. Jules Gravereaux)- 1900年
Mme. Jules Gravereaux大輪、40弁を超える、花芯に湾曲した花弁が密集するロゼッタ咲き、または、クォーター咲きとなる花形。
ティー・ローズに典型的な、つんと尖ったつぼみは、開花すると、イエローの色合いが濃い、アプリコットの花色となります。
3m高さほどになる、比較的やわらかな枝ぶりのティー・ローズ・クライミングです。
温暖な気候を好み、気難しいところがあることが多いティー・ローズですが、そのなかにあって、このマダム・ジュール・グラブローは、比較的健常な品種として知られています。
ルクセンブルグのスペール・エ・ノッタン(Soupert et Notting)により育種されました。
ミディアム・イエローのノワゼット、レヴ・ドール(Rev d’Or)と、淡いピンクのHT、ヴィスコンテ・フォルケストン(Viscountess Folkestone)との交配によるとされています。
■ 参考出典サイト:下記
バラ咲く庭の物語
http://ggrosarian.minibird.jp/
ジュール・グラヴロー(活動時期:1892-1916)
http://ggrosarian.minibird.jp/?page_id=5140
記録
天気:晴時々曇
最高気温(℃)[前日差] 34℃[+2]
最低気温(℃)[前日差] 24℃[-2]
挑戦者とカメラマン(妻)