年末年始、ある記事を読んだのですよ。
イチロー、“自己肯定感”は「僕にとっては気持ち悪い言葉」「それって…」
イチロー選手らしい話だな~と思って読みました。
私は「自己肯定感」と言う言葉を言われるようになって
「変な言葉だなー」
と常々思っていました。
自分を肯定する必要があるのか?
と。
「肯定」と「否定」で考えていれば、必要はあるのかもしれないですが、たぶん”できる人”がやっているのは違う気がします。
自分で「課題」を自分に与え
自分で色々と「体験」「経験」「失敗」「成功」を繰り返し
結果として「たのし~」と思えること。
例え失敗したとしても、「たのし~」と思えれば、プロセスとしては「成功」なのです。
これを「自己肯定感が高い」と言うのかもしれませんが、別に「肯定」しているわけではない。
何なら、ほぼ到達できない目標を立てるという事が日常茶飯事。
そうでないと「ず~と」楽しめないからね。
ただただ「たのし~」を感じるために。
そのために「あ~でもない」「こ~でもない」と常に自分に疑問符と課題を与え続けるのです。
そうでないと「たのし~」に巡り合えないから。
ストレスが無い世界で、ただ”のんべんたらり”と生きていくことの「空虚感」には、逆に楽しくはないですからね。
あくまでも私の私見です。
この「自己肯定感」が「高い」「低い」という言葉が好きな人って・・・こうなんじゃ?
「努力なく、もしくは最低限の行動で、最大の利益が得られるかどうか」
そして
「利益が、誰かに”無償”で与えてもらえるかどうか」
こう文章にしてみると、なんともひどい言葉。
そして「自己肯定感が低い人」は、この「無償で得られる利益が少ない人」なんだと思うのですよ。
逆に言えば「自己肯定感が高い人」は、「努力なしに利益を得られた人」なんでしょう。
簡単な例では「挨拶せずとも上司に気に入られる人」。
もう笑うしかないのですが、こんな人いません。
挨拶しない人は「挨拶もできない人、まともではない人」という扱いです。
面と向かっては言われませんが、そう思われています。
ただ、本人的には「挨拶しなくても、かわいがってもらえてるぅ~」と間違って受け取ってしまっている・・・言葉は悪いですが・・・たんなる「バカ」です。
そう「自己肯定感が低い」と言っている人が目指しているところは、この勘違いした「バカ」なんじゃないでしょうか。
そう考えてみると「自己肯定感」なんて、「無償で得られる利益」システムに対する憧れが作り出した、全く持って失礼な言葉なんじゃないかと私は思っています。
できる人なんて「努力」を「努力」なんて思っていませんし、「勉強」なんて「勉強」とは思っていないんです。
ただ、好きで走っている間に「身につく」ものなんですね。
なので「努力します」とか「勉強しなきゃ」なんて言葉を使っている人は、知識や経験としては得られますが、身につかない。
そういう人が良く好きで使う言葉
「心を入れ替えて頑張ります」
なんて、できないわけです。
だって、遺伝子の影響でそうなっているわけですから「心を入れ替える」なんてできないですよ、絶対。
「あれをやりたい」
と「あ~でもない」「こ~でもない」と言うところから得られる「楽しい出来事」それこそが、できる人が欲しい「絶対的な、そして過酷な満足感」。
そのプロセスの中に「自己肯定」なんて、入る余地はありませんよ。