学校を9月から開始する案はいいのですが、教育に関してはもっと沢山の課題があり、それだけが解決したとしてもまた変更を余儀なくされるかもしれません。
先だってのセンター試験の廃止だけでも学生は右往左往させられて迷惑してるのに。
しっかりと多くの課題を整理しておかないと変更に次ぐ変更では将来の大人(現在の学生)が困惑した国を任せられることになります。
根本的には グローバルを叫ぶのであれば、単一言語民族という特殊性を持った日本には「他国語が喋れる」がすごいこと。
大陸の国の人たちから見ると「多国語を喋れる」ということは生活の一部であり必要な日常の項目に近いもの。
日本人の算数の「九九」のようなものかもしれません。
であれば教育自体を根本的にガラリと変えることが望ましいかもしれませんね。
どうせ仕組み自体を変更するということは「みんな困惑」することは避けて通れない。
なぜならちょっとした変更でも大騒ぎするのですから。
いっそ大胆に将来に望ましい教育制度に変えたらどうか、と思います。
その視点から意識すると、9月がどうとか4月がどうとかはあまり大したことはない。
もとい、大したことではありますが、社会の年度変更にどのように連動するかも必要ですからね。
学年が9月から変わると、会社などの入社式が9月から?
決算月は変更しない?などなど
ならばいっそ、一括入社式も無くして、個人それぞれが適時採用される制度に変更したら?
お互いに都合のいい時期にマッチングすればなお良いことになります
そうしたら、4月も9月も吹っ飛ぶし。
などなど、大改革をする手もあります。
そもそも、今の教育は「人が生きる上で必要な教育」ではなくなってませんか?
かつての日本の汎用パソコンのように何で入っているのか解らないアプリが一杯あって重い
そういうパソコンは要りませんからね
そういう意味で考えたら
国民が将来にわたって強く、健全に生き抜けるための教育を大胆に改革するのを目指して欲しいですね。
それが本来の「文科省」の大きな課題では?
そう言うと「理想論では国は走らせられない」と一蹴されるでしょうけれど(笑)
「できないからできない」
「できないかもしれないけれどとにかくLets begin」
どちらを選択するかは多くの人が過去から構築してきた現在の文化に左右される気がします。
文化は個人から始まり個人に戻ってくるのでしょうね
自己反省が足りないのかも