激辛料理を食する人がいます。
テレビでも激辛の食べ物がどの程度食べられるかを競い合う番組をしてるのを観ることがあります。
コメンテーターの医師が激辛を好む人は日常のストレスを発散する行為として激辛料理を好む事が多いらしいと言ってました。
そこ少しを考えてみました。
つまり、例えば、傷を負って痛い場合、その痛みよりも痛い事があると最初の痛みを上回り、元々の痛みを感じなくできる、という事でしょうかね。
とても辛い物を食べることによって今までの心理的なストレスを考えなくて済む。
自傷行為に似てる気がします。
それは、自分よりも不幸な人を見て、自分は恵まれてると感じようとすることにも似てる気がします。
他人と比較して優位性を求める行為。
自己の感覚の内側で比較的な優位性を個別に求めることでしょうか。
心の傷を味覚の刺激で消そうとする行為。
だから味覚でなく、身体に傷を負わせることで真的なストレスを消そうとすると自傷行為になる。
ならば、ストレス解消に甘いものを食する人はどうなのでしょうか。
同じなのでしょうか。
目的は同じでも、おそらく甘い食べ物を食する人は刺激が弱いからその量を大量に食するのではないでしょうか。
過食症。
病的な食は太るだけでは終わらないかもしれない。
逆に拒食症というのもある。
食を拒絶する行為。
まぁ、いずれにしても強すぎる刺激によって避けたい痛みを消そうとするのでしょう。
たいての場合は心の痛みを消そうとする。
心の痛みって何だ?
考えなければ心は起こらない?
意識は考えることにある気もしますが。
従って、仏教の言うように考えない訓練が良さそうにも思います。
そこに『禅』があるのかな?
しかし、考えてしまう。
今の私のように。
考えることが好きなのでしょう。
いくらでも考えて考えて考えて、考え込んで寝込んでしまう。
寝込むことができれば良いけれど、その前に自傷行為に走る。
私の場合は、考えを言葉にして、活字にして、どこかに放り込む。
それがどこかが問題なのかもしれないですが。
空間ならば問題ないか?
今はおそらく『誰か』を意識してる。
結局は、巷、世間、全てが認める「対人関係」の中に放り込む。
そこに問題がある。
しかし、アドラーが言った「人の悩みは全て対人関係にある」にたどり着くのかもしれないです。
やはり、リモートなどでは解消できない問題が人の心の中に存在してる気もします。
会社に出社するのを拒否する意味は、効率の中にあるというけれど、人と人が直接会うことには、前述の意味があるならば、それは全く違った意味になります。
効率と言うならば、心的な意味で何か必要なモノがそこにある気がします。
ストレスが何処に有って、何を求めてるのかはそれぞれのTPOで変化する様な、そんな気もします。
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