拉致問題について聞いた。
小泉純一郎首相が北朝鮮と拉致問題を話し合うまでは拉致家族の事は放置されていたらしい。
詳細は分かりにくい問題でもあるのだが、拉致家族を返せと政治家が言っていなかったようだ。
そこでなんとなく感じることがある。
北朝鮮の政治家に対して、拉致家族を返せ!と言うことが相手の印象を悪くすると思って、日本の政治家が敢えて言わなかったのではないかと感じるのである。
非常にデリケートな問題なのだけれども、日本特有の感覚、「控えめな言動を重んじる」人種の感覚があるのではないかと思う。
例えば、中国人などは良いことであろうが悪いことであろうが、自分がやりたいことに対して、自己主張をはっきりと言葉に出して 強く主張する。
自己主張したことに対して、相手がどう返すかは、それからの問題だ。
まずは自分がどうしたいか と、それに対しての自己主張をする。
そこから全てが始まる。
ところが、日本人が持っている感覚の中には、自己主張を控えることが美徳という気持ちが存在しているように思う。
ズケズケとものを言う事は良いことではない。
そういう文化があるのではないか。
図々しい人だと言われる事は良くないと思っていないか。
厚かましいと言われることがよくないことだと思っていないか。
自分が思ったことを言うことが「変な人だ」と思われるのではないかとか、「自分の素直な感覚を他人に言うことを控える」気持ち。
そういう文化があるのではないか。
その感覚を「相手を思いやることだ」と言う奇妙な美徳心につなげているのではないだろうか。
そういう文化があるから、よその国にはない「奇妙な複雑な仕組み」を日本の文化や政治の中に作り上げてしまっている気がする。
そしてそこに時間とコストがかかりすぎて、急いで何かをすると言うことができない。
今の日本国はそうなっていないか。
かつて、
戦国時代の武将たちは、戦いの場においてとにかく先手を打った方が勝ちと言う場合が多かったと思う。
強かったのは、織田信長とか、武田信玄とか、戦い方が荒いと言われようが奇妙だと言われようが、卑怯だと言われようが、そういう意識は持っていなかったと思う。
「他人がどう思うか」よりも、「何をなさねばならないか」、結論に直結することを素早く見抜いて実行する。
それが戦国時代の戦い方であったと思われる。
最近は、世界が混沌としている手をこまねいている場合ではない。
その時に、今のような考え方をしていては待っているのは滅びの道につながる。
そうなると最早 拉致家族がどうこう言っている場合ではない。
いっそ戦って救出する方法しか道は残されていないような気がする。
「おもてなし」などと言ってる場合ではない。
「日本の美しい美徳の文化」などと言ってる場合でもない。
既に混沌とした世界では混沌としたイクサが始まっている。
奇妙な所得税の計算式でどうこう言ってる場合ですらない。
しかし、だからなのか、「取れるところから取る」「騙せる国民を騙して吸い上げる」戦法なのかもしれない。
騙されるのは「大人しい」「控えめな」「真面目でコツコツな」「ズケズケ言わない」「悪いことをしない」「受け身」の日本国民なのだろう。
自力で戦うことを選択しない国民はそういう政治家にとっては、とても扱いやすいのだろう。
ところで「悪いこと」は国によって大きく違う。
従って、この国の悪いことは「体制に逆らうこと」っぽい。
社会主義国かよ!!
そうだよ!!!
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