大空を見上げて

日頃感じていること

恩師の見事な散り方

2008-09-26 | Weblog
  一昨年、私の武道の先生でもある内藤師範が86歳でお亡くなりになった。
いつも温和で優しくて、それでいて心が強く根性のある人だった。 私が練習日に道場に行くと、夏の蒸しかえるような暑い時も冬の冷え切った寒い時も休まず必ず先に来て防具をつけて待っていらっしゃった。     「さぁ 松田さんいくぞ-っ!」と言いながら、もう1本、もう1本!と御指導頂いた。 又教会でコーヒーハウスが行われた時、そこで内藤先生と短剣道の演武もやらせていただいた事も懐かしく思い出される。 亡くなられる前、ある日私に手紙が来た。 身体が調子が悪いので支部を脱退したいとの事。
びっくりして御自宅に行っていろいろお話し、辞めないようお願いした。 私の人生はもう終わりに近いと言われ、大きな文房具店も閉めるとの事、そして私に内藤先生が直々に彫って作った立派な表札と印鑑を記念にとおっしゃってくれた。
それから1週間後入院されたと聞き、妻とすぐお見舞いに駆けつけた。
とても喜んで下さった。妻が肩と背中に手をあててしばらくお祈りをしたら、何度も何度も涙を流しながらありがとう!ありがとう!と言って下さった。 それからしばらくして亡くなったと連絡が来た。 夫婦でお葬式に行った時先生の奥様に言われた。
祈ってもらった事を何度も嬉しそうに奥様や親族に報告してたとの事。

内藤先生は山梨県出身で、先祖は風林火山の武田信玄の家臣と言っていた。 親の後を継いで農業をやっていた時、18歳で陛下直轄の近衛佐倉連隊に召集され、南方のビルマ、シンガポールに行かれて、そのころから武道が強く連隊の指導教官だったと聞いている。
激戦の勇士だが現地の子供たちをとても良く面倒みて可愛がっていたらしい。
戦後戦友が本を出し、それを読ませて頂いたが内藤軍曹のことも書かれていて、優しい人柄がよくわかった。
戦後船橋で太陽堂という文房具店を開いた。
死を察してすべてを整理し又皆に挨拶を済ませていた。見事である。
私はこの内藤先生の散り方は素晴らしく感動した。さすが日本の武士だと感銘しながらいずれ私も散って逝く時はこうありたいと思った。     

(写真:県民体育大会優勝、前列私の右側内藤先生)
       
コメント
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