共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

心ほぐすハゴロモジャスミンの香り

2024年04月30日 17時00分17秒 | 
今日は朝のうちから雨の降りしきる、生憎の天候となりました。こうなると、一部の支援級の子たちが無気力モードを発揮し始めます。

今日もご多分に漏れず、中学年の子が

「交流級に行って勉強したくない…!」

とゴネ始めました。とにかく、自分の気が乗らないことを最大の理由にしてグチグチ言い始めるのです。

そんな子に向かって、担任や主任はあれやこれやとなだめてすかして、何とか交流級に行ってもらおうと必死でした。しかし、たまたまその時私がサポートに行くことになっていたのが、その子にとっては運の尽きでした。

「ゴチャゴチャ言ってないで、早く立ちなさい。」

と強めに言ったのですが、その子は

「行きたくない!」

と言い返してきました。しかし、これは私にとって実に好都合な返しだったのです。

「『行きたくない』と『できない』では、全然話が違います!」

「『できない』というのであれば、私たちが全力で学習をサポートします。『行きたくない』というのは、ただのアナタの我が儘です!」

「今日この時間に交流級で勉強することは、一週間前からお知らせしてあります。知らなかったとは言わせませんよ!」

ここまで畳みかければ、さすがの支援級の子も突っかかってこられません。何しろ全て事実ですから、反論の余地がないのです。

結局その子は私を睨みつけながら、不承不承立ち上がって交流級に行きました。後ろで主任が何やら言いたそげな顔をしていましたが、私は気づかないフリをしてその子の後ろから付いて行き、きちんと交流級で授業を受けてもらいました。

支援級の子たちは、通常級の子たちのようにいろいろとできないことが多くて不便だと思いますが、それは『不便』なのであって決して『不幸』なことではありません。そして、『不便』を克服して道を切り拓いていくのは本人次第です。

何とか全てのカリキュラムを終えて子どもたちを下校させてから、主任にとっ捕まる前に私もサッサと退勤しました。どうせとっ捕まったら、長い『ご要望』を聞かなければなりませんので。

小雨の残る中、小田原駅までの道を歩いていたら、どこからともなく甘い花の香りが漂ってきました。その香りを辿って風上に向かって歩いていくと、道すがらのお宅の垣根に



ハゴロモジャスミンの花が咲いていました。

いろいろとあってちょっとササクレだっていた私の心にハゴロモジャスミンの香りが届いて、少しばかりホッとすることができました。明日また出勤したら主任にとっ捕まるかも知れませんが、その時はその時です。

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めんどくさい…

2024年04月29日 19時18分30秒 | 日記
今日は第124代昭和天皇の天長節です。現在では2月ですが、私が慣れ親しんでいる天皇誕生日といえば今日です。

そんな喜ばしい日…のはずなのですが、今日はちょっと憂鬱な買い物をしなければなりませんでした。

新年度が始まって早々、私は個人的に教育委員会から遣わされた健康管理士なる人物と話をしなければなりませんでした。なんでも昨年度の健康診断の数値のいくつかが思わしくなかったのだそうで、今後の健康管理について個別に面談する羽目になったのです。

曰く、現体重からマイナス2キロやせることと、腹囲を4センチ減らすことを目標に設定されてしまいました。そして、このミッションを敢行すべく

●体重
●体脂肪率 
●血圧
●腹囲 
●一日の歩数

を毎日計測して、アプリで送らなくてはならなくなったのです。

もう果てしなくめんどくさいのですが、やらないといつまでも付きまとわれるので、仕方なくノジマ電気に行って



体脂肪計と血圧計と万歩計を買ってきました。これらを駆使して、5月からはひたすら計測の日々が続きます…。

もう、よっぽど

「いいじゃん別に、何に気ぃ使ったって人間どうせ死ぬ時ゃ死ぬんだから好きにさせてよ。」

と面と向かって言ってやろうかとも思いました。しかし、それを言っちゃあオシマイよってなもんですし、痩せたら痩せたで何かが変わるかも知れませんから、とりあえずやってみてやろうかと思います。

あ〜〜もう!めんどくさいよ〜〜〜!

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第38回小田原ジュニア弦楽合奏団定期演奏会

2024年04月28日 16時35分40秒 | 音楽
今日も、日中は暑くなりました。そんな中、今日は『小田原ジュニア弦楽合奏団』の定期演奏会を聴きに小田原まで出かけました。

今回のプログラムは



●エルガー:弦楽セレナーデホ短調

●ホルスト:ブルック・グリーン組曲

●パッヘルベル:カノン

●ジョン・ウィリアムズ:ハリー・ポッター組曲

●ブリテン:シンプル・シンフォニー

●エルガー:威風堂々第1番(弦楽合奏編曲版)

という、カノン以外は全てイギリスがテーマとなったものでした。子どもたちのアンサンブルとしては、随分シブいプログラムです。

コンサートは、エルガーの《弦楽セレナーデ》で幕を開けました。中低音が活躍するシブい響きの音楽ですが、子どもたちは一生懸命に演奏していました。

ホルストの《ブルック・グリーン組曲》と《カノン》には、プレ・ジュニアという経験の浅い小さな子たちも参加してのアンサンブルとなりました。ここでは写真撮影が許可されていたので、お言葉に甘えて撮影させていただきました。

《ブルック・グリーン組曲》はホルスト晩年の作品で、あまり演奏される機会の多くない作品ですが、





小さな子たちも大きなお兄さんお姉さんたちと一緒になって演奏していました。続く《カノン》には一般参加の子どもたちも合流して、





最初から最後まで楽しそうに合奏していたのが印象的でした。

休憩後の《シンプル・シンフォニー》は、かなり緻密なアンサンブル力が試される楽曲ですが、子どもたちはキチッとした合奏を披露してくれていました。最後の《威風堂々》は弦楽四重奏版を更にアレンジして短縮したものでしたが、管楽器や打楽器が無くても寂しく感じさせない演奏を繰り広げ、会場からは惜しみない拍手が贈られました。

毎年思いますが、大人でも難しいと思うようなプログラムを毎回とりあげていることに感嘆します。ここに至るまでには、創立者の故・白井英治先生をはじめとした様々な方の努力と指導があったことでしょう。

特に《シンプル・シンフォニー》はかなりの演奏の力量が必要で、タイトルに反比例して実際にはちっともシンプルではありません(笑)。自身でも演奏したことがある曲なだけに、子どもたちの努力の跡が見てとれました。

そんなわけで、今日は今回のメインプログラムとなったブリテンの《シンプル・シンフォニー》を、デュラーレ・チェンバー・ストリングス・アンサンブルという大人たちの合奏でお聴きいただきたいと思います。この難しい曲を子どもたちが演奏したことに思いを馳せて、どうぞ褒めてあげてください。


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古代ロマンの謎に迫る〜富雄丸山古墳出土の盾形銅鏡と蛇行剣

2024年04月27日 17時45分58秒 | 日記
今日は予報ほどには雨にならなかったものの、日差しのない涼しい一日となりました。そんな中、買い物に行った有隣堂で



この本を見つけて買ってきました。

これは日本の古代史について考察したものですが、近年新たに解明されてきた様々な新事実について掲載されています。特に昨年奈良県の富雄丸山古墳から発掘された国宝級の発見によって、これまで記述のなかった『空白の4世紀』の謎に迫るものとなっています。

2023年1月25日、奈良県奈良市丸山にある富雄丸山遺跡の埋葬施設から、『鼉龍文(だりゅうもん)盾形銅鏡』1枚と『蛇⾏剣』1本が見つかりました。盾の形をした銅鏡はこれまでに類例のない品であり、剣は鉄剣として日本最大かつ蛇行剣として最古の品ということで、国宝級の発見と報じられています。

鼉龍(だりゅう)とは中国では想像上の動物を意味するものですが、倭鏡に認められる龍文は神像と獣像が融合した日本独特の表現文様です。この盾形銅鏡は



4つの「乳」と呼ばれる突起をそれぞれ龍の胴体が取り囲む文様となっていて、上下で旋回する方向が逆になっています。

蛇行剣はこれまでにもいくつか発掘されていますが、それらは最大でも80cmほどのものでした。しかし、富雄丸山古墳から出土した蛇行剣は



なんと285cmもの長さを誇る巨大なものです。

これらがどのような技術で作られ、どのような意味を持って埋葬されたのか、これからの研究の成果が待たれます。この発見が、『空白の4世紀』を紐解く糸口となってくれることを期待したいと思います。

蛇行剣の調査を記録した動画があったので転載してみました。細かい作業によって明らかになっていく蛇行剣の様子を御覧ください。


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和風な名だけど外来種…

2024年04月26日 17時00分17秒 | 
今日も日中は暑い天候となりました。そんな中、今日は理科の時間のサポートで外に出て植物の観察をする時間がありました。

桜はとうに終わっていましたが、足元に目を移せば小さな花があちこちに咲いていました。ただ、よく見てみると日本の在来種がほとんどいないのです。

子どもたちが見つけた花を見てみると、



例えばこれは『ヒメヒオウギ』という花ですが、元々は南アフリカが原産地の『ヒメヒオウギズイセン』という花からフランスで作られた園芸種が日本に帰化して野生化したものです。他には



この『ユウゲショウ(夕化粧)』という花はアメリカ大陸が原産地ですし、



この『コメツブツメクサ』という花はヨーロッパから西アジアにかけてが原産地です。

勿論、見渡せばカタバミなどの在来種も咲いているのですが、それを凌駕するような外来種の多さに改めて驚かされます。和風な名前がついているために分かりにくいのですが、いずれも明治から大正期にかけて園芸種として輸入されたものが多いようです。

子どもたちにそんな話をしてみたところ、自分たちがこんなにも外来種に囲まれているということに、少なからず衝撃を受けていたようです。日本古来からの在来種は、今や希少な存在になってしまっています…。

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百花繚乱!町田ぼたん園『ぼたん・しゃくやくまつり』

2024年04月25日 16時45分20秒 | 
朝方はひんやりとした空気に包まれていましたが、昼過ぎから太陽が顔を出すと途端に気温が上昇し、天気予報で言っていた通りの暑さとなりました。そんな中、今日は町田市にある《町田ぼたん園》で開催中の『ぼたん・しゃくやくまつり』に行ってみることにしました。

町田駅からバスに揺られて20分ほど行ったところの住宅街の中に《町田ぼたん園》はあります。園内には牡丹(約330種類1700株)と芍薬(約60種類600株)が植栽されており、関東有数のボタンの名所として知られています。

バス停から10分ほど歩くと



《町田ぼたん園》の門が見えてきます。受付で入場料を払って入園すると、



園内のそこかしこに牡丹の花が咲き誇っています。様々な色の花がありますが、この時期の一番人気は












『黄帝』という名の黄色い牡丹だそうです。

他にも

















様々な色の牡丹が咲き誇っていて、どこを見ても見応えのある光景でした。長唄『連獅子』の謡にも

〽それ、牡丹は百花の王にして

とありますが、どの牡丹の花を見ても正に『百花の王』に相応しい佇まいです。

牡丹だけではなく





牡丹の接ぎ木の根本になる芍薬や





石楠花の花も見頃を迎えていました。

牡丹の花壇の周りには、



晩春の代表的な花であるシャガの花や



セイヨウオダマキ、



ハートが連なったような愛らしい鯛釣草(たいつりそう)も咲いていました。また







ツツジやサツキも咲いていて、辺りに甘い香りを漂わせていました。

ソメイヨシノは終わっていましたが、園内には









八重桜の花が満開でした。風が吹くと桜吹雪がハラハラと舞い散って、



散策路は桜の花弁の絨毯を敷き詰めたようです。

他にも、



立派な藤棚や



清々しい青紅葉が訪れた人々の目を楽しませていました。新年度の小学校勤務が始まってバタバタしていましたが、



久しぶりに何も制約のない時間を過ごして、リフレッシュすることができました。

『ぼたん・しゃくやくまつり』は来月6日(月・祝)まで《町田ぼたん園》で開催中です。かなり見応えのある場所ですので、興味のある方はお出かけになってみてはいかがでしょうか。

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初雷と『フレッシュ苺ワッフル』@横浜あざみ野《雫ノ香珈琲》

2024年04月24日 21時00分55秒 | カフェ
今日、小学校の支援級で今年度初の雷を落としました。

はじめのうちは様子見だった支援級の子どもたちも、進級した先のクラスに馴染んできたためか徐々に素が出てきました。そして今日、支援級の担任が席を外していたのをいいことにいつまで経っても帰りの支度をせずにふざけ回っていたので

「いい加減にしなさい!」

と一喝しました。

子どもたちはフリーズしていましたが、その後慌てて帰り支度を始めました。担任が帰ってきた時には全員神妙な面持ちで席についていたのですが、そうなるまでにどんな攻防戦があったかは、子どもたちが帰ってから担任に知らせておきました。

私は常日頃、支援級の子どもたちに言い聞かせていることがあります。それは

「支援級の子はいろいろと大変だと思う。だからといって、支援級の子は何をやっても許されるというわけではない。」

ということです。

確かに支援級の子どもたちはいろいろと大変だろうと思いますが、だからといって集団の和を乱していいわけではありません。それに、こんなに手厚くかまってもらえるのはあとほんの数年のことで、遠くない将来社会に放り出されたら、自分で考えて行動し人間関係を築かなければならない未来しか彼らには待っていないのです。

これをパワハラだというのであれば好きに言ってもらえればいいと思いますが、『怒らずに優しく寄り添う』ことが美徳とされる風潮の中にあっては、むしろ私の方が異端なのでしょう。そう考えると、なんだか暗澹たる気持ちになってしまいました。

そんなオリのような気持ちを抱えたまま、小田原から横浜あざみ野の音楽教室に移動しました。そして、いつものように《雫ノ香珈琲》に立ち寄りました。

4月の水曜日は今日が最後なので、



今月限定メニューの『フレッシュ苺ワッフル』をもう一度オーダーしてみました。その名の通りフレッシュな苺が満載のワッフルプレートは、実に贅沢なものです。

今日は肌寒い一日でしたが、明日は気温が一気に上がって日中は夏日になるようです。とりあえず、ヘンな風邪をひかないように気をつけて過ごそうと思います…。

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甘香漂う《御感の藤》

2024年04月23日 17時35分45秒 | 
今日は小田原の小学校勤務がありました。今日は高学年の支援に入ったのですが、特に大きな混乱もなく終えることができました。

子どもたちを下校させて、支援級の担任に引き継ぎをしてから退勤しました。そして、帰宅する前に小田原城址公園に寄り道していくことにしました。

ソメイヨシノが終わったこの時期に見頃を迎えるのが、南堀にある《御感の藤》です。この藤は樹齢200年を超える古木で、かつて小田原藩主大久保氏が所有していたものを明治時代に民間に譲り渡されたものですが、たった二株から





藤棚いっぱいに伸ばした枝から藤の花房が下がっています。

以前にも書きましたが、この藤がここに移植される前の明治時代に皇太子明宮嘉仁親王(後の大正天皇)が小田原の地を訪れた際、皇太子の騎乗した馬がこの藤の花の咲く中に進み入ってしまい、お召し物に藤の花がふりかかってしまいました。人々が恐縮していると皇太子が

「見事な藤に、心無いことよ。」

と感じられたため、それよりこの藤は《御感の藤》と呼ばれるようになりました。

藤棚から垂れた花房は



大正天皇が感じ入られた如く、実に見事なものです。今年は例年より花房が短いように感じましたが、それでも藤棚の中に入れば





頭上いっぱいに藤の花が咲き誇り、あたりにはなんとも言えない藤の花の甘い香りが漂っていました。

今は正に百花繚乱の頃です。これから様々な花が楽しめる、一年で一番いい季節となりました。

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今日はユーディ・メニューインの誕生日〜14歳の時の録音《ラ・カンパネラ》

2024年04月22日 19時00分50秒 | 音楽
朝から降っていた雨も、昼過ぎには上がりました。ただ、日差しが一切なかったこともあって、気温は低いままでした。

ところで、今日はメニューインの誕生日です。



ユーディ・メニューイン(1916〜1999)は、アメリカ合衆国出身の音楽家、ヴァイオリン奏者、指揮者です。幼い頃から演奏界の神童として活躍した20世紀で最も偉大なヴァイオリン奏者の一人で、愛奏していた楽器は『ロード・ウィルトン』という愛称の、1742年製のグァルネリ・デル・ジェスです。

メニューインは1916年に、ニューヨークでリトアニア系ユダヤ人の家庭に生まれました。4歳からヴァイオリン教育を受け、7歳でサンフランシスコ交響楽団と共演して初舞台を踏みました。

第二次世界大戦中は、他の多くのユダヤ系ヴァイオリニストと同じく、連合軍のために慰問活動に取り組んんでいました。1945年4月にはイギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテン(1913〜1976)とともに、解放後のベルゲン・ベルゼン強制収容所において慰問演奏を開いています。

第二次大戦中、アメリカに亡命していたハンガリーの作曲家バルトーク・ベーラ(1881〜1945)を深く尊敬し、貧困と病気に苦しむバルトークへの援助を兼ねたり、無伴奏ヴァイオリンソナタの作曲を依頼したりしました。バルトークはこれに応えて『無伴奏ヴァイオリンソナタ(Sz. 117, BB 124)』を作曲し、この作品をメニューインに献呈しています。

1947年からドイツを再訪して、20世紀の大指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886〜1954)と共演しました。メニューインは、かつてナチスと良好な関係をもって戦後に批判の矢面に立たされたフルトヴェングラーを養護すべく

「ヒトラーのドイツは滅びたのです」

と言ってドイツとの和解を呼びかけました。

ところが、メニューインのこうした姿勢はかえってユダヤ人社会の憤激を買ってしまったため、ユダヤ系音楽家が支配的なアメリカ楽壇から事実上追放されてしまいました。そのためメニューインは移住したイギリスを拠点に活動するようになり、最終的に帰化することを決意しました。

メニューインは戦後間も無い1951年に、アメリカの親善大使として日本を訪れました。初来日当初はアメリカ人として日本に悪感情を持ち、日本の新聞記者に向かって

「ジャーナリストなら、真珠湾攻撃を知っているだろう?」

と詰問したこともあったといいます。

しかし、この来日中にメニューインの日本に対する感情が大きく変化し、後には大の親日家となりました。この来日中に出会った靴磨きの少年にヴァイオリンを贈ったという美談は朝日新聞に掲載されていて、この逸話から



『少年とバイオリン~音楽の神様からの贈り物』という創作童話が発行されています。

そんなメニューインの誕生日である今日は、彼の演奏によるパガニーニの《ラ・カンパネラ》をご紹介しようとと思います。

このSP盤音源は1930年、メニューインが14歳の時の録音です。このSP盤はかつて私の祖父も所有していて、私も幼少期に祖父の家の蓄音機で聴かせてもらっていたので、個人的に懐かしいものです。

お聴きいただくと分かりますが、これを14歳、現在でいうと中学生男子が演奏していると思うと、その技術と演奏力の高さには舌を巻きます。メニューインのその後のキャリアを彷彿とさせるような、輝かしく華やかな演奏です。

そんなわけで、今日はメニューインによるパガニーニの《ラ・カンパネラ》をお聴きいただきたいと思います。14歳とは思えない、堂々たる演奏をお楽しみください。


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何が悪かったのかね…

2024年04月21日 17時28分35秒 | 日記
今日、ちょっとイヤなことがありました。

今日出かけていた時、自分の前を親子連れが歩いていました。お父さんとお母さんに挟まれる形で2〜3歳の女の子が両手をつないで歩いていたのですが、女の子は大人のペースに連れられてかなり頑張って歩いているように見えました。

すると、女の子の履いていた靴が片方脱げてしまったのですが、親子連れは気づかずにどんどん進んでしまっていました。なので、私はその靴を拾い上げて

「靴、落とされましたよ」

と親子連れに後ろから声をかけました。

…と、ここまではよく見かけるシチュエーションかと思いますが、そこで振り向いた母親が私に向かって開口一番

「ちょっと!うちの子の靴勝手に触んないでくれる!?」

と怒鳴りつけてきたのです。かなり予想外の展開に面食らっていると母親がツカツカと近寄ってきて、

「うちの子の靴を、どこのどいつかも分かんないオッサンに持たれて気持ち悪いんだけど!」

と言って私の手から靴をふんだくっていきました。

予想外の展開に唖然としながらも

『あぁ、そんなことでご立腹なのかぁ…』

と他人事のように見ていたのですが、そうこうしていたら一緒にいたお父さんが

「あのさ、先ずは拾ってもらったことに感謝することが先なんじゃない?」

と母親に対して問いかけたのですが、それを聞いた母親は更に激昂していくばかりでした。

その時、間で立っていた女の子がいつの間にか母親の手から靴をとり上げて自分で履いていました。そして、大人たちの言い争いをものともせずに私に向かって

「ありがとう(*^ ^*)」

とお礼を言ってきたのです。

これまた予想外の展開に大人たちが暫し固まっていたのですが、私は女の子の前にしゃがむと

「素敵なお靴ですね。ちゃんとマジックテープとめておかないと、また脱げちゃいますよ。」

とお話しました。すると女の子は

「はぁい(^O^)/」

と手を挙げてお返事をしてくれました。

母親は赤い顔をして押し黙っていましたが、お父さんが私に向かって

「ありがとうございました。」

とお礼を言ってきたので、とりあえず母親は無視してお父さんと女の子に

「気をつけてくださいね( ^_^)/」

と挨拶をしてその場を離れました。

なんでしょう、『世知辛い』などという言葉では片づけられないようなモヤモヤを感じています。それとも、私が何か母親の感情のスイッチを押してしまったのでしょうか…。

なんだか、今日はものすごく疲れました。今日は早目に休もうと思います…。

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山吹の実のひとつだに…

2024年04月20日 15時40分45秒 | 
今日はまた、日中は夏日に迫る暖かさとなりました。こうなると、もう長袖シャツ全部が御役御免になってもおかしくない状況となってきています。

そんな暖かさに誘われて、様々な花が咲いています。我が家の近所でも



色鮮やかな山吹の花が咲いていました。

山吹の花といって思い出すのが、厚木の隣の伊勢原市に所縁の深い室町時代後期の武将・太田道灌(1432〜1486)の『山吹の里』伝説です。これは、かつて戦前の教科書には必ず載せられていた逸話です。

ある日、鷹狩に出かけた道灌は俄か雨に遭い、雨具のを借りようと一軒の農家に立ち寄りました。ところが、家から出てきた娘は


(月岡芳年『新撰東錦繪 太田道灌初テ歌道ニ志ス図』)

花が咲いた一枝の山吹を黙って差し出すのみで、彼女の意図を理解できなかった道灌は蓑を借りようとしたのに山吹の花を出されたことにたいそう腹を立てながら館に帰りました。

後でこの話を家臣にしたところ、それは後拾遺和歌集に載せられている兼明親王(かねあきらしんのう)

「七重八重花は咲けども
山吹の実の一つだになきぞ悲しき」

という歌に掛けて、

間(やまあい)の茅葺き貧しい家なので、お貸しする(実の)ひとつ持ち合わせがないことが悲しい」

ということを奥ゆかしく答えたのだ…ということを教わりました。その話を聞いた道灌は古歌を知らなかった己の無学を恥じてそれ以後は歌道に励み、やがては歌人としても名高い人物になった…という伝承です。

この伝承の『山吹の里』とされる地は、現在では複数箇所存在しています。

道灌が江戸城を築城した東京都内では、豊島区高田神田川に架かる面影橋近くに『山吹の里』の碑が建てられ、そこから1kmほど東へ行った新宿区内には山吹町の地名があるほか、荒川区三河島地域などが伝説地に比定されています。他に神奈川県横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町にも『山吹の里』と称する場所が存在しています。

しかしこの山吹伝説は、江戸時代に掛川藩主となった太田家が編纂した家譜である『太田家記』には見えず、伝説の初出が江戸時代中期に儒学者の湯浅常山(1708〜1781)が編纂した『常山紀談』まで下るため、話の信憑性には疑問が残るものとなっています。因みに古典落語には、この故事をもとにした『道灌』という演目があります。

事の真偽のほどはともあれ、『簑が無い』ということをここまで奥ゆかしく伝えられた農家の娘の才覚と品性は秀逸です。どうせ子どもたちに学校で古典を教えるなら、こうした機知に富んだ洒脱も盛り込むべきだと思います。

明日は、また雨が降るようです。

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陽だまりを羨む…

2024年04月19日 17時35分17秒 | ネコ(=゚ω゚=)
今日は、とにかく疲れました。子どもたちに…というより、むしろ大人たちにイライラさせられっぱなしだったのです。

今日も支援級の子たちの学習支援に入っていたのですが、ある学年の子たちが妙なテンションになってしまい、授業に全く身が入らない状況が続きました。はじめのうちはそれとなく注意していたものの、勝手にムダ話をし始めたりしてあまりに度が過ぎてきたため教室から連れ出して強めに叱ったのですが、そのことで放課後に支援級主任に呼び出されて、何故か私が説教されるハメになったのです。

主任曰く、

「先日もお伝えしました通り、今は『子どもたちに寄り添う支援』が求められているので、どんな状況になってもなるべく穏便にご指導をお願いします。」

とのことでした。しかし私は

「確かに子どもたちを無闇に怒らないということが、昨今の教育界の方針だということは承りました。その上でですが、『怒らない』と『叱らない』は意味が違うことと認識しています。」

「あの時、あのままの状態では授業が崩壊しかねない状況でした。それでは、授業を進めておられる交流級の先生にあまりにも失礼過ぎます。」

「人格形成期に『歪んだ大人たちの配慮』に甘んずることを覚えてもらっては困ります。なので、私は頭が固いのかも知れませんが、今後も必要に応じて子どもたちを『叱って』いこうと思っております。」

と応戦し、双方納得しないまま話は平行線で終わったのです。

平成生まれの現役教師から見たら、昭和時代人の私は余程頭が固いのでしょう。しかし私は、『支援級の子たちだからといって何をしても許されるわけではない』ということは、しっかりと教えていく必要があると思って憚らないのです。

そんなモヤモヤした気持ちを抱えたまま小田原駅までの道を歩いていたら、いつもお参りしている辯天堂の前に



トラ猫が日向ぼっこしているのを見かけました。野良は野良でいろいろと大変なのでしょうが、ひと時でもヌクヌクとお昼寝できている姿がたまらなく羨ましく見えたりもしました。

帰宅したら、仏壇にお線香をあげてお勤めに励もうと思います…。

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今日はレスピーギの祥月命日〜斬新な響きの《5声の協奏曲 ニ短調》

2024年04月18日 17時17分17秒 | 音楽
昨日は夏日に迫る暑さでしたが、今日は朝から曇り空の広がる陽気となりました。それでも、湿度が若干高めのためか、屋外で長袖シャツで動いていると少し暑く感じることもありました。

ところで、今日4月18日はレスピーギの祥月命日です。



オットリーノ・レスピーギ(1879〜1936)は、イタリアの作曲家・音楽学者・指揮者として活躍した人物です。ボローニャ出身で、1908年までは演奏家、とりわけヴァイオリン奏者やヴィオラ奏者として活動しましたが、1913年からはローマに出て教育者としても活動しました。

近代イタリア音楽における器楽曲の指導的な開拓者の一人としてつとに名高く、『ローマ三部作』と呼ばれる一連の交響詩〜《ローマの噴水》《ローマの松》《ローマの祭り》〜は広く知られています。また、16世紀から18世紀の音楽に対する関心から、《リュートのための古典舞曲とアリア》組曲のような古楽に基づく作品も多く遺しました。

晩年のレスピーギは国内外で自作の上演のため何度も演奏旅行に出ていて、指揮者を務めたり、ピアニストとして声楽家であるエルザ夫人の伴奏を務めたりしていました。レスピーギの作品は当時ムッソリーニ率いるファシスト党政権にも非常に好評でしたが、レスピーギ自身はファシズムに深入りするようなことはなかったようです。

『ローマ三部作』のひとつ《ローマの祭り》の初演は、1929年にアルトゥーロ・トスカニーニ(1867〜1957)の指揮するニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団によって行われました。初録音は1942年にフィラデルフィア管弦楽団、再録音は1949年にNBC交響楽団によって行われ、いずれもトスカニーニの指揮でした。

レスピーギの作品は、特にアメリカ合衆国でかなりの成功を収めていました。ピアノと管弦楽のための『トッカータ』は1928年11月にカーネギーホールにおいて、作曲者自身のピアノ独奏とウィレム・メンゲルベルク(1871〜1951)の指揮、ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団によって初演されましたし、大規模な変奏曲《メタモルフォーゼ》はボストン交響楽団創立50周年記念の依嘱作品でした。

1936年1月までは作曲を続けていたレスピーギでしたが、その後は次第に病に蝕まれてもはや新作を完成させることができなくなり、同年4月18日に心臓病のため亡くなりました(享年56)。遺体はローマに埋葬されましたが、翌1937年にはレスピーギの郷里であるボローニャに移葬されました。

そんなレスピーギの祥月命日である今日は、《5声の協奏曲 ニ短調》をご紹介しようと思います。《5声の協奏曲 ニ短調》は、レスピーギ晩年の1933年に発表された作品です。

バロック時代、ヴィヴァルディやテレマンといった作曲家は多声部の協奏曲を多く遺していますが、それ以降の古典派からロマン派までの協奏曲はピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲といった一種類の独奏楽器とオーケストラが組み合わされるものがほとんどです。例外としてはモーツァルトの《フルートとハープのための協奏曲》、ベートーヴェンの《ピアノとヴァイオリンとチェロのための三重協奏曲》、ブラームスの《ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲》などが有名ですが、その数は決して多くはありません。

このレスピーギの《5声の協奏曲 ニ短調》ではピアノ・オーボエ・トランペット・ヴァイオリン・コントラバスという、特殊な組み合わせの5種類の楽器が独奏に設定されています。曲の構成はバロック時代に完成された協奏曲の特徴である三楽章構成にのっとっていて、中庸なテンポの序奏から徐々に速度を上げていく第1楽章、ゆっくりなアダージョの第2楽章、付点の弾むようなリズムと16分音符の駆け巡るようなバッセージが印象的な第3楽章で締めくくられる構成も、オーソドックスな協奏曲の形式ということができます。

この《5声の協奏曲 ニ短調》は全体を通して聴くと、それまでのレスピーギ作品の明朗快活・絢爛豪華なオーケストレーション作品の響きとはかなり趣の違う作品です。形式こそ古典的ですが、むしろドイツの作曲家マックス・レーガー(1873〜1916)やパウル・ヒンデミット(1895〜1963)らの作品に見られるような近代音楽的なメロディや和声が随所に聴かれ、特にコントラバスによる高音域での独奏は独特な響きを放っています。

この作品において、5つの異なる楽器とオーケストラがどのように組み合わされているか、それによってどのような聴こえ方になっているのか、一曲の中における聴きどころはたくさんあります。バロックや古典の伝統を大切にしつつ、イタリア近代音楽で試みられたレスピーギ晩年の挑戦のかたちを楽しんでいただける、隠れた名作だと思います。

そんなわけで、今日はレスピーギの《5声の協奏曲 ニ短調》をお聴きいただきたいと思います。イギリス室内管弦楽団の演奏で、レスピーギ晩年の意欲作をお楽しみください。


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『社会』で欲を刺撃されてのエル・サルバドル@横浜あざみ野《雫ノ香珈琲》

2024年04月17日 20時48分45秒 | カフェ
今日、小学校の学習支援で面白いことがありました。

5年生の社会の授業の学習支援に入ったのですが、そこで地図帳を参照しながらノートに国名を書き出すという時間がありました。基本的に支援級の子のサポートをするのですが、やることが単純で放っておいてもできそうだったので、他の子の様子も見てみることにしました。

すると、一人の通常級の男子がノートに様々な国名を書いていたのですが、それを見てみると

・ブラジル
・コロンビア
・グアテマラ
・エル・サルバドル
・タンザニア
・ケニア
・インドネシア

と、かなりバラバラな地域の国名を列挙していました。そのラインナップを見てしばらく考えたのですが、ふとピンときたので

「もしかして、君ってコーヒー好きだったりする?」

と聞いてみたのです。

すると、その男子は

「なんで分かったんですか?!」

と、驚いて聞き返してきました。更に聞いてみると、どうやらその子の家ではコーヒーを豆から挽いて淹れているのだそうで、そのコーヒー豆のラベルに書いてあった国名をひたすら書いていたとのことでした。

そんなことがあってから、私の頭の中ではコーヒーのことが大半を占めていました。なので、小学校勤務を終えてからとにかく横浜あざみ野へ向かい、とにかく《雫ノ香珈琲》に向かいました。

今日は何はなくともコーヒーということでしたが、先ずは暑くて喉が渇いていたので



これまた今月限定メニューの『デコポンソーダ』をオーダーすることにしました。自家製のデコポンマーマレードが効いたソーダは、スッキリとした甘さが心地よい一杯です。

そして、満を持して



今月限定メニューのエル・サルバドルをオーダーしました。昼前からコーヒー欲を刺撃されまくったこともあって、仄かに甘さの漂うエル・サルバドルコーヒーの風味は格別です。

それにしても、まさか小学校の授業でコーヒーを想起させられるとは思いもしませんでした。高学年の授業では、あまりうかうかしていられないようです…。

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萌黄色匂う『御衣黄』桜

2024年04月16日 17時45分17秒 | 
今日はあまりすっきりと晴れない、曇がちの一日となりました。それでも気温はそこそこ上がって、子どもたちを追いかけ回していると汗ばんできていました。

さて、ソメイヨシノはだいぶ終盤に向かっていますが、この先は八重桜の見頃を迎えます。小田原の小学校への通勤途上には



『御衣黄』という名の八重桜が咲いています。

この『御衣黄』桜は、オオシマザクラを基に生まれた日本原産の栽培品種のサトザクラ群の桜です。名前の由来は高官位の貴族の衣服=御衣の萌黄色に近いためで、別名は『ミソギ(御祓)』ともいいます。

『御衣黄』は、江戸時代に京都の仁和寺で栽培されたのが始まりとされています。当時からメジャーな桜だったようで、



ドイツ人医師・博物学者のシーボルト(1796〜1866)がヨーロッパへ持ち帰った標本も現存しています。

咲き始めの御衣黄は鮮やかな萌黄色をしていて、咲き進むと



中心から少しずつ紅くなっていきます。こうした花弁の色の変化を楽しむことができる桜というのも、またいいものです。

明日は今日よりも気温が上がるようです。いよいよ夏のような服装でないといられなくなるのでしょうか。
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