馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

今日はあいつの命日 ,木下街道(きおろし)を行く(3) 40年の歳月を経ての再会

2021-06-29 06:09:31 | 日記

今日はあいつの命日 ,木下街道(きおろし)を行く(2) 2010年3月の手紙

続きです。
炎天下の街道をトボトボと歩く。
スマホの歩数計を見る。
約13キロ歩いている。

2017年4月に前立腺癌放射線治療前は
年に2回 街道を巡礼して往復36キロの道程で墓参した。
何て馬鹿馬鹿しいと思いもあるが
山岳部時代 同期の遭難死での北アルプスで遺骸を背負い
下山した痛哭の思いがあったからだ。

上記のプレビューの歌
井上陽水の名歌は
芥川賞作家柏原兵三の少年時代を描いた
「長い道」主題歌
恩師でもある。

途中の休憩する道の駅はまだ見えない。
やはりピッチは遅い。

同期への手紙後 再会するのだ。
再掲
40年の歳月を経ての再会
2010-03-28 10:51:46
再会は珍妙な会話から始まった。
午後3時にJR船橋駅交番前待ち合わせ
10分程到着が遅れた。
電話で既に着いて待っていると言った。
しかし 交番前にはそれらしき人物は見当たらない。
交番前で携帯で呼んでみる。
「どこにいる」
するとその声は携帯電話からではなく
生の声がまん前で聞こえる。
互いに人相が分からなかったのだ。
40年前 互いにクリーニングを4年間しなかった
学生服姿の印象しかなく
互いに腹突き出て、白髪まじり
40年ぶりの再会は浦島太郎状態。
背の高い男だったが
「おまえ 少し低くなったな」
「年とりゃ縮むさ」
これが40年ぶりの会話の始まり
この男は大学入学前からの知り合いであった。
浪人して学んだ?予備校で顔を会わせていた。
入学して体育会山岳部に私は入部
彼は合気道部に入部して体育会学生が集まる
部室ホールで見かけ、同じ大学に入ったのが分かった。
これから、谷津保健病院に見舞いにいく男は
合気道部主将で再会した彼は副将をしていた。
彼は昼前大阪から新幹線でやって来た。
一部上場の住宅建築メーカーの役員なっていて
関西近畿地区の総責任者として単身赴任中なのだ。
意外にも出世していたのだ。
3時半谷津保健病院着
病室で体中に3本のチューブを差し込んで
24時間抗癌治療を続けなければならない。
ベッドに横たわっていた。
やつれていた。
メールで強い薬を昨日から使っていて
倦怠感、めまい、飯食えない、眠れない、10日間排便が無い
とメッセージが来ていた。
力なく手で談話室にいてくれと示す。
妹さんも入間からやってきていた。
妹さんは言う
「兄は今月末一旦退院しなければならない
そうすると 声も出せず食事も風呂も洗濯も
ままならない状況になってしまう」
その案ずる深いため息に返す言葉無し。
5時病院を出て船橋駅近くの居酒屋へ入る。
彼は私にビール注ぎながら
「本当にご苦労さん」とねぎらいの言葉を
私にかける。合気道部同期9人は
癌の進行がここまで悪化しているのを知らなかった。
寡黙なあいつは知らせてくれなければ何も言わなかった。
互いに60歳過ぎた。
30代~50代はまだまだ浮世の煩悩から抜け出せず
にいたが、団塊世代も卒業後還暦を越え
過ぎし青春の日々振り返ることや
懐かしき友人と酒を酌み交わす邪心なき60代になった。
「お前偉くなったな」
「ゼネコンがらみ仕事は一流大学出たからと言ってうまく
できるもんじゃない」
ヤクザは出てくる ピストルで脅される
20年近く代金回収で修羅場をくぐってきたからな
来年は引退するよ」
この男の奥さんも同期合気道部出身であった
よくキャンパスを二人でいるのを見て
羨ましいと思っていた。
子供は無く40年以上も連れ添ってきたわけだ。
彼は妙な言い訳した。
「だから60過ぎて単身赴任はいいのだ」
7時半、船橋駅で次の連絡を約し彼は
大阪へ帰って行った。
私はそれから自宅近くの飲み屋
「あんこう」で店主にやつの病状を伝える
退院したら、あいつはアンコウにやって来るだろう。
優しく迎えてあげて、お粥を食べさせてあげてくれと頼む。
午後10時 疲れた。
明日は私も午前中日本橋で首の治療して
それから柳橋事務所で仕事だ。

続く。