marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(429回目)異邦人 〔Albert Camus :アルバート・カミュ〕・・・Ⅰ

2017-10-08 07:00:00 | 日記
*** きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かもしれないが、私にはわからない。養老院から電報をもらった。〔・・・・〕***
 アルバート・カミュという作家を知っている人は、60歳の年代後半の方かと思う。そして、知っている人は冒頭に書いたフレーズが彼の書いた『異邦人』という小説の書き出しであることを知っているかもしれない。彼の代表作である。そして、このカミュという作家を知っている人は、フランスの実存主義哲学者、ジャン・ポール・サルトルを知っている筈である。サルトルは、この小説について、「不条理に関し、不条理に抗してつくられた、古典的作品であり、秩序の作品」と言っている。
◆世界のベストセラーを読もうとしてきて、脱線し文学の話になり、近親者の死に会いさらに脱線して、この国のしきたりの中で死者を送り、異邦人(正確には、異邦人とはユダヤ人でない人々を言うが、ユダヤ人という名称自体が、バビロン捕囚以降に呼ばれるようになったのだが、歴史的にはモーセからひい入れられエジプト脱出に加わったヘブル人、他雑多な人々が、律法の下での共同体意識、全知全能の自分たちを導き救い出したという神を信ずる群れ以外の人々)について考えさせられた。文庫本『異邦人』の裏表紙には、次のように書かれている。「母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画を見て笑い転げ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎え入れてくれることだけを望む、通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、不条理の認識を極度に追究したカミュの代表作。」
◆これは既に古典の部類だ。サルトル(Jean-Paul Sartre 1905-1980)の実存主義哲学なるものもしかりと思う。僕は、サルトルがは流行ったとき、読んだがあまりに恣意的に(技巧的といったらいいいか)物事を言葉で考えていることに読む事が出来なかった。強いて書けば、自分の身体の有り様を(それは思考を含むが)自分の言葉でどこまでも突き詰めて書き留めて自分で認識すること・・・というような事になるだろうか。つまり、行き着くところ自己中毒になって、自分の殻を突き破れない、解放されない先の見えない堂々巡りが、人間のありようなのだというような吹っ切れない臍の緒を捕まれた嫌な感覚しかもたなかったのである。それは、自分という実態を捕まえる「言葉」は豊富になるかもしれない、しかし、解放された救いがない。そんな感じ。ちくま学芸文庫から哲学論文「存在と無」(3冊)が新たに出されている。
◆それに対して、それならば、サルトルとの論争があったというカミュにはそれがあったかと言えばこれもまったく無いのだが、何故か情緒的に人の恣意的な(技巧的な)と思える言葉の操作がないように思えて僕にはしっくりくるのだった。このブログの ”marcoの手帖 ”というのもカミュの ”カミュの手帖 ”という物があったからなのである(上写真)。日記のようで、小説の部分が一部書とめられていたり、自由な思いが残されている。第一に久保田早紀という「異邦人」という曲も有り、この小説とは何ら関係ないのだが、数年前、僕の近くのキリスト教会でコンサートを開かれたから彼女もキリスト者で異邦人の意味は知っていたのだということになる。(話が脱線)
◆世界のベストセラーを読む・・・本来(429回目)は9月5日から「昭和文学の問題」を書く予定だったが、その日の深夜、不幸があったので路線を変更。今年のノーベル文学賞はカズオ・イシグロだった。・・・ 続く