marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(438回目)ノーベル文学賞は何を意図して選考されてるの?

2017-10-22 18:20:22 | 日記
 傑作だろいうことは論を待たない、との講評?・・・本当かい? 僕はこの時代にそのように(これも川端康成同様、情景描写が美しいなどのみで受賞したと思いたい)講評を読んだ時とても気分が悪くなった。(これは、台風が近づいているためか持病の血圧が変調来した為かもしれないが・・・。)
◆生理医学賞は人という生き物の共通部位に対する対応医療解析だから論をまたない。物理、化学のジャンルも当然のごとく、進歩改善のように思われるけれど、でなければ新たなる現象の発見と言うもので普遍性がありそうなのだが、文学というジャンルはどうなのだろうといつも思う。僕らはブームに動かされるより、結局、賞を選択するのも「人」であるとを考慮に入れるべきだなぁと思うのだ。何を意図してこの時代に選ばれたか、その選考者はどういう人たちなのかが気になってくる。
◆というのは、この地上の人類はどこへも行けない閉鎖系の中で考えさせられるのであるという地球規模の視点で考えなければいけない時代がかなり前から到来していることを認識しないといけないと思っているのだ。そうこうしている内に地球全体が終わりを迎えるぞ、という気持ちが僕の心のどこかにあるからなのだろうなぁ。実際にはかなり先の事だろうけれど。
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 私の名前はキャシー・H。いま、31歳で、介護人をもう11年以上もやっています。・・・・「わたしを離さないで」 カズオ・イシグロ
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◆僕が何を言いたいのか。人が人を物理的に操作するには、例えばそれが臓器移植で完全にその人が死に至るとしても、魂抜きということを仏教では行うことになるだろうな。それからの操作(オペ)となるだろう。しかし、実際、生きている人を死に至らしめるということは、やはり神の似姿に創造された人は禁忌領域にあり、本当は我ら地上のものではないのである。そこが、そもそも、僕の思考ベースと全く異なるところだ。神は霊である(笑ってはいけませんよ)、これが大前提。僕らが機械的な言葉や文字を越えるには、地上の事で行われているそのことをまず知ろうとすることだろう。イエスが、イスラエルの教師ニコデモを叱責したように、地上のことを話して分からなければ天上の事を話しても尚更わからないだろうということだ。僕にとっては、肉体に霊が吹き込まれ、魂を持ち我らを生かしているのであるから、この視点が抜けていると、すべてが失礼ながら茶番劇に見えてくる。まして、人という最高の傑作に人が破棄的操作を加えてはいけないということに挑戦していることは自分の事さえろくに知っていないといことになる。そこから、この地上での多年にわたる人類の努力の成果、人権や人格などという言葉が吹っ飛んでしまうからね。そこから何ら普遍的なものが引き出されてこないという、ノーベル賞というのはいかがなものなのだろうと僕は思うわけだ。
◆そもそもノーベル文学賞というのは、そういうものではないのだよ・・・というのであればこれから講評が多く出てくるだろうけれど、僕はとても知りたく思っているのである。これは、キリスト教文学評論家佐古純一郎のことを書き始め、ノーベル文学賞をもらった川端康成の『雪国』を少しブログで書いた時から(僕はこの小説は根が男なものだからこの一冊が好きなのだが)、高校の国語の教科書にあの有名は冒頭が載って、内容の一部の感情表現がとてもうまいなとは思うけど、全体の内容は今では児童保護法にひっかかるだろうし、実際には、週刊現代や週刊ポストあたりの大人向けの小説のジャンルに入るような内容なのだなぁ。今、思えばこの日本の国は、高校生に何を覚えてもらいたいと考えていたのか・・・・今もか。
◆煎じ詰めると、この国には神が人を自分の姿に似せて創造したという視点がまったくなく実際の神は留守になった時代が長くあったということになる。人とはこういうものであるという基本ベースがなく、雪国の作者の書く意欲となっている偶像、あるいは幻想はやはりそう思う側の死を招くということになるのである。(1972年72歳4月16日ガス自殺)・・・ 次回、残っていた宿題