marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(434回目)この国の人々は「異邦人」なのか

2017-10-13 07:00:00 | 日記
 あることを否定するには、その否定する事柄を少なくともそれを肯定している人の理解度までに達していないとちぐはぐになるよい例だ。しかし、そのようなことを書いてもそれは人の限界というものであろう。誰しもが自己中心的で、思い込みが強く、自分にとって白か黒かを判断し、善悪を判断し、もし、そこに会話をすることを解決の手段として用いようとのするだけでも、本来、それが限界の手段であるのだが、単なる自己防衛のみの自己否定されたくないという理由でそれさえも拒否するのであれば、自己中心だけということになるだろうと思う。自己肯定するために自分を慰めるための物語まで作ってしまい、ひとりよがりのヒロインかヒーローとなっているものだ。人というのはそもそもそういう傾向を持つ生き物なのだろう。第一、自分の意見を持ち、会話するには前頭葉を働かせねばならない。
◆カミュやサルトルは、既に古典の部類である。人がいかなるものかということが、神が自分に似せて人を創造されたということから、人は、その人自身を解明すれば神をより知ることが出来るであろうとして、あらゆる人に関わる学問がなされてきたといっても過言ではないように思うのだがそれは、結局のところ、自然は科学でありその手段は数学であり、その他は哲学であり文字とする言葉であったといってもいいのではないかと思し、それが時代が降りかなりカルチャベートされてきた、だからこれからはシリアスな文学というような物は、著しにくいという時代となっているのではないだろうか。それは、このブログの主旨からいえば、外なる人の解明であった文学の働きは、内なる人の内面からの発露の表現に対して共感する人が多くなるだろうと思われるからである。奇っ怪な人物、科学が発達し人の自然体に挑戦をする文学(それは人体を揶揄するような物も)あるかもしれないが、時代はそろそろ限界を呈しているように思われるのだ。
◆つまりこうだ、「異邦人」主人公ムルソーは神を否定する、かたや判事や司祭は肯定する。冒頭から言えば、「神」というものに対する理解が違うので、否定も肯定した強制も不毛な会話で終わるのが当初から理解されてくる。それに、主人公の肉体へ与えられる「太陽の暑さ」。そもそも、暑さや痛みなどの刺激は、第一にその理解の神経系回路は、頭脳の内、人が最も人らしく反応して意識する部位である前頭葉を通過するのは最後なのであるが、主人公はその神経系をその暑さ故に、といってもそれは一つのだけの原因ではないのだが、端折って止めてしまう。第一にムルソーは他者に対する理解しあう会話がない。女性マリイに欲望は感じるのだが、その暑さのために、すべてに面倒くさく肉体に引きずられる言葉しか出てこないのである。例えば、こんな会話がある。
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 夕方、私にマリイが来ると自分と結婚したいかと尋ねた。私は、それはどっちでもいいことだが、マリイの方でそう望むなら、結婚してもいいといった。すると、あなたは私を愛しているか、ときいて来た。前に一ぺん言ったとおり、それには何の意味もないが、恐らくは君を愛してはいないだろう、と答えた。「じゃあ、なぜあたしと結婚するの?」というから、そんなことは何の重要性もないのだが、君の方が望むなら、一緒になっても構わないのだと説明した。〔・・・・〕 (カミュ『異邦人』窪田啓作訳 新潮文庫 p46)
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◆主人公ムルソーは、町ゆく女たちを見、美しいと感じたり、自然に対する感受性、それはまさに自分の肉体に備わった動物的反応には敏感だが人としての、相手の人との内面的繋がりがつけられないのである。本来、人の情緒性は生き物としての霊的関わりにも関係するものであろうが、その統合がうまくいっていない主人公なのである。したがって、自分の死を考えるにあたっても、生きている今の感受性のみを重視し、それだけだと感じ、部屋の壁のシミに神の顔を誰でもが見るようになるという司祭の言葉に対しても、太陽の色と欲情の炎、マリイの顔以外に何も見なかったと思う。そして、このように死んで宿命を、それは私の特権だと思うのだった。
◆この国の人々もおそらく、不明瞭な次の世界に送り込まれようとする事に対しても何ら疑問を持たず、大多数の人が人生を送るのだ。僕は思うに、そういう死にゆく自分の肉体からも脱出を図るべく、常に生きている霊と共に(聖書的には聖霊というべきか、それを求めてというべきか)今を前進して生きるのが、キリスト者なのだと僕は思っているのである。・・・・