marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(445回目)異邦人には知らないと馬鹿に見えるか(『過越の祭』米谷ふみ子を読む)

2017-10-30 19:41:47 | 日記
 掲題、小説の主人公、ユダヤ人を夫にもった、その親族の「過越の祭」という儀式にやむを得ず出なければいけなくなった「切れ」具合は続きます・・・・

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 パス・オーバー・セーダー(過越の祭)は聖会であり、儀式である。儀式というものは、知っていないと全く馬鹿に見える。間違いを起こすことも許さないかのように見える。逆に、儀式を知っている人々は、如何にも賢しげに見え、又、その知識を誇示して得々と振る舞うのを見るのは鼻持ちならないし、いつも無性に腹立たしくなったものだ。だから敢えて自分をその中に嵌まり込ませたくなかったのである。(p96)
 パス・オーバー・セーダーが始まるのは6時半だとアル(夫)が言っていた。
 そんなことは聖書の中の話と思っていたことが、20年前、アメリカにやって来た時、この摩天楼のにょきにょき立っているマンハッタンで未だに蜿蜿と行われているのを発見して愕然とした。他の民族が、その民族の古い書物に書いてある、嘘か真か判らないお伽噺めいたことを信じて三千年も祝っているのを見て驚愕するほうがどうかしているのかもしれない。自分の国にも似たようなしきたりがあっても、自分に関係のない人が遠方でいつもやっているので、大して気にもならなかっただけのことなのだから。唯、自分の親類がやっていると聞いて、なんと旧式な家族の一員と結婚したものだと、日本では他人ごとであったのが、ここでは我が身に降りかかって来たので嫌悪に陥ったのである。しかも出がけにそのセーダーが4時間も続くのだと聴いて、唖然とした。(p100~101)
 著名なユダヤ教徒が死ぬと、その葬式に知事や市長も参列する。それがユダヤ教のお寺シナゴグで行われるので、私たちがニューヨークに住んでいた時はユダヤ教徒でないリンゼイ市長とかロックフェラー知事がこのヤマカを頭に被ってシナゴグに入っていく写真をテレビや新聞で見たものである。(p108~109)
 西洋の女は皆ボーボワールではなかったのだ。”第二の性”なんて通用しない。(p132)
「旧約聖書であっても、新約聖書であっても一冊の本ですからね。東洋人から見れば同じ一冊の本です。それに西洋ではユダヤ教だ、カトリックだプロテスタントだと絶えず揉めているのが不思議でたまりません」
 そこに居合わせた伯父、姑、義姉が、座っている椅子から電気ショックを受けたように顔が引き攣れ、瞳孔が開き、やがて顔全体が硬直するのをわたしは見逃さなかった。(p133)
 日本で信者でもないのに、たまたま行ったバイブル・クラスでお祈りを言わされたのを思い出した。あの無理強いされた偽善的な言葉がたまらなく厭であった。 
ここに座っている人々は、どうしてわたしが、マリリン・モンローやエリザベス・テイラーのようにユダヤ教に改宗しないだろうと思っているに違いない。この人々にとっては他宗教は存在しないのだ。こういう排他性がユダヤ教からキリスト教や海峡に受け継がれ、その末はお互いに殺し合うようになったのだ。人の主義を黙って放っておけない御節介な西洋。それが植民地主義であり、宣教であり、ナチズムである。(p146~147)
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 ・・・アメリカに自由を求めて来たはずが、障害児を抱え自由時間も無く、頼りなさそうな夫、おまけに不細工な御節介の義姉、蜿蜿と続く宗教儀式、諸々の鬱屈が小説を書く原動力となっているようなのだが・・・この国の一般人と言わず、儀式めいた参加型のしかも、言葉が求められる宗教儀式に主人公は切れまくる・・・ 小説とは言えここまで書いていいのかなぁと心配になってくるが 続きます。