marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

〈Ⅴ〉この国の深層に今も流れる精神性について:親愛なるSへ(その21)

2022-03-18 18:50:47 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 親愛なるSへ 東北の地、出羽三山と東国武士の関係を調べてみてよ。三山は月山、湯殿山、羽黒山で山形県にあるんだよ。僕も訪れたことがあるけれど、平安時代の著名な平将門が羽黒山の社殿を造営し、五重塔を建てたと知らされて何故に東北の地になどと驚いていたら、彼は当時「東国の世直し明神」として民間の深い敬慕を集め信仰されていたという訳だ。これも時代にヒーローを作って世直しをしようという黒子集団の考えだったのじゃないか。東北の地の山々には、古来から彼ら道の奥(みちのく)に修行の場とあらたなる未開の地を開くべく多くの修験者がいたからな。

◆本社には東の客殿大国主命と西の客殿熊野権現が客神としてまつられて来たらしいからオールマイティーみたい。平安時代中期以降は八幡神の本地仏である阿弥陀如来が三山のひとつの月山のそれになったらしいな。いずれ在来の山岳信仰と新来の宗教修行神仏混合が実践の場として起こって、修験道はそうして続けられてくる。さかのぼること蘇我と物部の争いを知っているだろう。蘇我によって逆境に立たされた皇族が逃げてこの北の地に独自の宗教の場を開いたというのだけれど(崇峻天皇皇子の蜂子皇子〈この人、顔が怖い〉が推古天皇元年(593年)に開くから、これまた古い)、歴史の変遷をへて修験者が多くなり教界も俗界もいずれもここを取り組もうとしていた長い歴史があったのだな。「八千八坊」と言われ大変な数の修行僧、僧兵がいたらしいのだ。底辺の流れは終わりなく今までも続いているのさ。古代からね。

◆郷土史などの我田引水の話と片付け方もできるけれど、前九年の役で源軍を助けて三千五百人もの僧兵衆徒の戦死者を出したという記録もあるらしいから、戦役で羽黒山伏が源頼義方について諜者や伝令として果たした役割は大きかったろうな。頼義の長子が八幡太郎義家なんだけど、東北各地には逸話がいっぱい。彼は敗戦して隠れたりするだが(頼朝もそうだったか)隠れている義家を訪ねて山伏が祈願状と弓矢とを請い受け、代わって神前に棒げ祈祷すると、形勢逆転安部氏が滅んだという。義家は社殿を修造、神の恩に報い陸奥、出羽、信濃、越後、佐渡など羽黒山の敷地として恩に報いたという話もあるらしい。歴史も以降、僕らの知っている武将はこの羽黒山に殆どかかわっているのを知るとへぇ~そうなんだなぁ。

◆鎌倉殿の13人に快僧がでてくるだろう。背後には実に多くの僧兵がいて、よく言えばこの国をいい国にしようと祓いをしていたわけだ。何故なら、飛躍して解釈すれば、彼らは唯一の神を信じてこの太陽の昇る国に先祖が旅をし続けて理想の国つくりを願ってきた渡来帰化人のレビのDNAを持った先祖をもつ人々だったから(と僕は解釈する)。あの時代、先人の彼らに大和や北九州に後釜の輩が来て天皇を巻き込み、新しい宗教だった仏教を取り入れ、同根の神を信ずる関東に住んで都からの政治にかかわらなかった先人の輩の物語が、いよいよ歴史に顔を出し始めたのが関東の東国武士の鎌倉時代なんだな。仏教もこの国のアイデンテティーをもった時代だった。親鸞が徘徊したのは関東だったろう。浄土真宗はキリスト教に近いと言われているし。

◆古代失われたといわれたユダヤ人の部族は、順次、太陽を求め関東に流れ着いていたと。九州に後発に渡来したユダヤ人は、大和にいた神々その他の神々を天皇の権威を背後に出雲に封印したのではなかったか。古事記にある大国主の命が兄たちに野原に火をつけられ殺されそうになるところを、ネズミに助けられた場所は「焼津」であるそうな。陸奥に越と東海に使わされた将軍がともに会おうと約束した場所が「会津」なのだそうな。しかし、当時の場所として彼らが多くいたであろう関東はどうなっていたのかわは、殆どわからない。(注意:ユダヤ人の定義は本来、違うがわかりやすく書いた)

◆しかし、古来、鹿島、香取の彼らの基の社(やしろ)は存在したのだな。「古事記」の三種の神器が出てくる章に、アメノコヤネノミコトとフトダマノミコトが表れるが、それが中臣の連の祖、忌部の連の祖なのであってこの二つの士族は神を司る仕事を占有していたわけだが、つまりレビだった。鹿島の「鹿」がタケミカズチとなった中臣が鹿に乗って都の奈良に乗り込んで「大化の改新」の事件を画策していくわけなのである。まさに政治的天才、本来、政治には直接かかわらないレビが政治に関与し、藤原の栄華を築いていくわけなのであった。諏訪に追いやられた部族が「御頭祭」と言って今ではやってないそうだが、鹿の首を切り取って神事として捧げる行事があったのは、なぜか反旗を翻しているように思われるね。

◆結局、源頼朝は弟である義経などをヒーローに祭り上げ思うままに政治に関与しようとする藤原氏を平泉に成敗したということになるのであけれど、藤原氏は今まで決して自ら手を汚さない。権威のある地位にいるという今までの政治の画策ごとを、源氏は許さなかったのだなぁ。出羽三山の衆徒が加勢したのはその本来の理想の国のあり様を実現しよと願っていたからなのだと思う。藤の花は、他の大木に寄生するからね。

◆源氏である徳川家康が何故、江戸に幕府を開いたか。この日本ので東の京であるとされた東京が首都となったか、解るような気がしてこない? 考えてみると、歴史を動かしている深層で、面には決して出て来ない黒子が今もいるのではないだろうか・・・と思ってしまう。 それでは・・・END