marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

〈Ⅰ〉人生を決定したある個人的な体験:親愛なるXへ(その1)

2022-03-31 17:56:58 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 「山に向かいてゆうことなし、ふるさとの山はありがたきかな」:石川啄木

親愛なる君(善なる黒子、良い宇宙人)の元へ帰って来た。やはり、君の懐の中であれやこれやと考えるのは楽しい。長い時間がたってしまった。そろそろ、戻って残りの「世界のベストセラーを読む」に取り掛かるとしようと思う。

1000回で終了予定も950回で中断し、日本の古代からの黒子(神からの使いと書いておこう、あるいは宇宙人と思う方があってもいい、無論、人の意識にはかかわるが決してその存在自体を知りえないという)について書いてきたが、今回以降は、そのベストセラーの中にしばらく、その黒子を探してゆこうと思う。(それは最も知性が進んだ地球外生命体のようにも思われてくるのだが)

僕らの町の周辺のこの国の人々の信仰なるものや、古代から遺跡どうのこうのは、ブログを始めたきっかけでもあったのだが、目に見えぬ信仰とやらを生きている間に何とか少しでも知りたいと思ったからだった。そこに少しでも近づいているのだろうか。

キリストは「死んでも生きる」との給うたという。次の世界をも信じて、多くの殉教者も出たというが、常識から言えば、まったく馬鹿なことだと思わないか。しかし、使徒パウロは書いている、復活のイエスに会い、第三の天にまで挙げられたと言うのである。生前のイエスには会ってはいないのに。彼は、全く馬鹿げたことだと思い、信ずる弟子たちを殺すのに加担し歩きまわっていたのだったが、突然ひっくり返って真逆にイエスを述べ伝える人間になったというのだ。

小さな時に僕は一度、沼に嵌って死にぞこないになったのだ。母親が何度も胸と腹を押して絞り出すように口から尻から水を吐き出した。翌朝、何事もなかったかのようにひょうひょうといつも通り遊んだらしいが、それは幼稚園にはいる前の田舎での出来事である。山の手前には、その沼が広がっていた。

今は団地になってしまっているけれど。家のすぐ脇を沼から堰を流れる水の音を聞きながら、台所の大きな窓から朝日の昇る山を見ながら育った。毎朝、ラジオ(TVなど無論まだ無い時代)から流れる、カバヤ兄弟の集めた小鳥のさえずりを聞きながら、それからコウチモモコという人が ”暗いと不平を言うよりも進んで明かりをつけましょう” という言葉と音楽を聴きながら。夜には、時折、浪花節が流れ、爺さんがいい声だと好きだった島倉千代子の歌声が流れ、窓のカーテンに映る道路を行きかう車の影が流れていた。

僕の人生での追及は、この小さな頃の事故がきっかけであろうと思っている。よちよち歩きに近い自分がなぜ、あの沼に近づいたのか、姉がいたような気もするが、他にも姉の友達がいたので、沼の側に僕を置いてどこかに行ってしまったのか、鼻がジーンとして、沼の水のかび臭いがして、意識が遠のいた。沼に浮かぶ僕を見つけたのは僕の母親だったのだ。

気が付いたのは、日が昇るいつもと変わらぬ翌朝だった。その事件以来、つかず離れず僕は誰かが側にいてくれたのである。爺さんがもっともかまってくれた。あぁ、後継ぎだからね。家系で男は僕しかいないのだから。そこでだと思う。その時はなにかは知らなかったけど、爺さんは、僕をお寺に連れていき、膝にだっこされながら、暗いお堂の中で火がたかれるのを眺めていた。今思えば、二度とこの子に事故などおこらぬように守ってください、と護摩をたいたのであった、と思う。現在の僧侶は今で三代目になる。

宗教は妄想であるとか現在では言われるけれど、実に人というのは、これこれと言わずとも命がある間は、誰でもが宗教的人間であろう。僕にとっては、やはり東日本大震災で多くの方はなくなったこと、それから、両親を天国へ送ったことなどの体験によるが、自我のめざめという頃からか第一は自分とは何か、ということだった。思えばそばに誰かがいつもいる。僕のそばにはいつも誰かがついて生活しているような気配があるのだった。

あぁ、あの時、沼に誰かに突き落とされて(と自分では思っていて、それは飛来し、ビームを発射した宇宙人だったかもしれないが)、僕のその時打たれた跡が、背中に青いあざとして残っている。ちょうど心臓の後ろなのだ。時折、痛くなる。これが原因なのか、大きくなって死を意識し始めた。

この事故が、将来の自分を決定した事故だったように思われる。自分を失って、本来、生前の宿題を背負わされたその当事者にふさわしい霊魂を吹き込まれたのだろうと。晴れた陽気な日でも、異界を感じて非常に寒く感ずることが時折あった。情緒不安定という奴か、外には表れないが内面はかなり体と思いが分離する気分の悪寒を感じたのである。いまも時折・・・

これも言い訳がましい理由となろうが、前頭葉で意識して、これを行おうと意識すると途端に心臓が痛くなる時があるのだ。従って、これはどうも積極的な人間にはなりえない、つまりいつも ”待ちの人間” になっているのだ。生命、財産の損失にかかわらない限り相手の意向にそう、そういう生き方をしてきた。自分の積極的な意見も持たず、なりゆきに任せる。これはまったくもって男らしくない。まさに変革は求めない平和な時代の縄文人思考であった。・・・しかし、それでは、あなたが子供の時、打たれた意味(宇宙人に?)がないと成長するにしたがってしきりと自分探しを行うように促されてきたのだ。いつも死はとなりあわせ、という気配を感じて来たからだった。・・・つづく